5-85 伝えたいこと

 バーミリオンは紫苑のマントにリュニスの黒い軍服姿だった。豪奢な長い金髪を一つにまとめ、愛用の細剣をシャインの首筋に当てこちらを見下ろしている。リオーネを思わせる新緑色の瞳は怒りの光を宿していた。


 シャインは体を起こそうとした。が、その時初めて自分の右肩の上に帆材の一部――おそらくミズンマストの斜桁ガフだ――が落下して挟まれていることに気付いた。力を入れれば動かせないこともないが、帆が船外に落ちて水を吸っているのかものすごく


「私を出し抜いて上手くいったと思っていたか?」


 バーミリオンの低い声だけが周囲に木霊する。

 シャインは息を詰めた。焼けつく左脇腹の痛みが強くなっている。

 ロワールハイネス号が浮いていられる時間は、あまり残されていないのかもしれない。


 バーミリオン皇子の肩越しに、沈黙している軍用ドロモンの黒い大きな影が見えた。ロワールハイネス号の左舷側から追突してきたこの船に、バーミリオンは乗っていたのだろう。ちらちらと黄色の灯りがその甲板でいくつも動いている。ロワールハイネス号の後部甲板には、バーミリオン皇子を護衛するサセッティ近衛兵隊長の長身も見えた。


「……出し抜こうとか、そういうつもりではありません。俺の目的は、ディアナ様を不当に攫ったあなた方から救出すること。ただそれだけです」


 バーミリオンの新緑色の瞳が険しさを増した。


「――どこに隠している。その女」


 シャインは瞳を伏せ唇に笑みを浮かべた。


「あなた方の手の届かない所へ。ディアナ様はエルシーアに戻りました」

「――!」

「けれどバーミリオン皇子。一つだけ謝罪をお聞き届け下さい」

「謝罪だと! 何を今更!」


 細剣を持つバーミリオンの手が小刻みに震えている。

 彼の手元がほんの少し狂えば喉を突かれて死ぬ。

 シャインは再び瞼を開き、微動だにしない視線でバーミリオンを見据えた。

 シャインの唇からは笑みが消え失せていた。


「お怒りはごもっともですが、俺の話を聞いて下さい。俺はディアナ様をリュニスから取り戻し、エルシーア艦隊にその身柄を預けた後、エティエンヌ様をもらいうけて、皇子の所へ行くつもりでした。しかしエルシーア側との交渉が決裂し、それができなかったことを謝罪いたします」


「な、なんだと? 」


 バーミリオンの顔にはありありとシャインに対する不信と戸惑いの感情が表れている。


「何故そんなことをお前がする? それに、何故我々の前に再びやってきた? エルシーアの公女と共にエルシーアへ戻ればよいものを――。お前は何故、皇帝陛下の座する『青の女王』号へやってきたのだ? 言っておくが、我がドロモンの『牙』を受けて沈まぬ船はないぞ」


 バーミリオンは隙無く細剣を構えなおした。その時、バーミリオンの隣へ大柄な影が近付いた。特徴のある長剣を抜き放ったサセッティ近衛兵隊長である。


「皇子、さっさとこの裏切者を始末してドロモンへご帰還を。この船はまもなく沈みます」


「わかった。サセッティ、お前は先に戻れ」


「いいえ。皇子とこやつを二人きりにはさせられません。何しろこやつは長靴に短剣を四本も隠し持っており危険ですから」


 シャインは密やかに笑んだ。


「サセッティ隊長。ご覧の通り、右肩を帆桁に挟まれて身動きできないのです。元より皇子に危害など加える気はありません。俺はただ……伝えたいことがあって、あなた方の所に来たのです」


「何?」


 立ち去る気など微塵もないサセッティが不機嫌そうに口を開いた。


「伝えたいこととはなんだ?」


「それは……あなた方リュニスは、最初っから人質交換をするつもりはなかったのでしょうが、エルシーア側は人質交換に応じる気はあっても、実は交換する人間の方がのです」


「なっ……!」


 バーミリオンがぎりと歯を鳴らした。


「それはどういう意味だ! エルシーアは人質交換に応じた。ダールベルクがやはりエティエンヌを捕らえていたからだ! 彼女はダールベルク家との親交も厚いエルシーア人の女性だったが、アノリア港封鎖の理由を自ら聞きに使者として赴いたが戻っては来なかった。彼女だけではない! 彼女をアノリアまで連れていった船がまるごと戻ってこなかったのだ!」


「ええそうでしょうとも。エティエンヌはエルシーアに戻ることを望んでいました。彼女はあなたのエルシーア語の教師として、ダールベルク家に紹介されたのでしょうが……」


 バーミリオンがはっと息を飲んだ。


「リースフェルト! 何故、お前がそれを知って……」


 シャインは背中を舷側に預けたままの姿勢で頭を振った。


「エティエンヌ本人の口から事情を知りました。彼女の正体は、エルシーア海軍書記官ロヤントといい、元アリスティド海軍統括将の命を受けて、リュニスの内情を探る密偵だったのです」


「――!」


 バーミリオン皇子の目が大きく見開かれた。

 整った薄い唇がわなわなと震え、信じられないといわんばかりに、バーミリオンは激しく首を振った。


「……嘘だ」

「皇子」


 バーミリオンの剣先がシャインの首から僅かにぶれたのを目にして、サセッティが自分の得物をシャインへ向ける。


「ならば……ご自分の目で確認を。エティエンヌ――いえ、ロヤントは、ダールベルク統括将の乗る旗艦ウインガード号にいます……」


 シャインは肩で息をついた。

 急にずしりと右肩にのしかかる木製の円材の重みを感じた。

 同時に頬や頭に生温い波飛沫がかかるのも。

 ロワールハイネス号が右舷側から波に飲まれつつある。海へと引き摺りこまれる。


「リースフェルト……お前は……よくも、ぬけぬけとそのような世迷い言を!!」


 バーミリオンがサセッティを下がらせ、細剣を持つ右手を振り上げた。

 シャインは何の感情もこもらない目でそれを見つめた。


「バーミリオン皇子。もう一つだけ話したいことがあります。エルシーア艦隊は今頃、アノリア港を攻略して街を制圧しているでしょう。けれどまだ、話し合いの余地はあります。リュニス皇帝陛下自らがお出でになっているのなら、直接ダールベルク統括将へアノリア封鎖の理由を聞く好機です。そして、あなたがたがこのままリュニスへ戻るなら、アノリアを取り戻したエルシーアはリュニス艦隊を追撃することなく、それを黙認するでしょう」


 あくまでも仮説となるが、シャインはリュニス側がエルシーアと本当は戦争をすることを望んでいないと思い始めていた。


 その証拠に、アノリア沖でエルシーア艦隊を待ち伏せするはずのリュニス艦隊がいなかったことが挙げられる。そしてエルシーア側もアノリアさえ取り戻すことができたら、リュニス艦隊との戦いを避けるはずである。もとい、参謀司令官に戻った父アドビスはそのつもりのはずだ。


 ノイエ・ダールベルクはリュニスと海戦になっても構わないと言っていたが、彼はアノリアにエルシーア海軍の軍艦を常駐させることを望み、対リュニスの防衛のために海軍統括将の座にこだわった男である。


 リュニス皇帝自らと話ができる機会があれば、異様にリュニスの侵略を恐れるノイエの誤解も解消される可能性がある。シャインはその可能性に賭けたのだった。


「バーミリオン皇子、今まであなた方に迷惑をお掛けしたことはお詫びします。ですからどうか、皇帝陛下にお伝え下さい。ノイエ・ダールベルクと会談に応じていただきますように。ダールベルク家がアノリア港を封鎖したのは、自力でエルシーアへ帰国できなかったエティエンヌ――いや、ロヤント海軍書記官を連れ戻すためで、それ以外の他意はなかったのです」


「……」


 シャインは唇を歪ませ沈黙を守るバーミリオンを見上げた。

 細剣を握るバーミリオンの右手がだらりと垂れた。

 心に大きな衝撃を受けたのか、夕闇に鈍く輝く金髪の頭が項垂れる。

 それを見ながらシャインは右肩にのしかかる帆桁を外そうと体を左側へと動かすが、挟まれた肩はやはりぴくりとも動かない。


「リースフェルト……!」


 喉の奥から振り絞るような声を出し、焦燥感も露なバーミリオンが顔を上げた。

 肩を覆う紫苑のマントが風をはらみ旗のように翻る。

 右手に握りしめられた細剣の刃が、沈みゆく夕日の光を受けて鈍く煌く。


「お前が初めて私の目の前に現れた時――捕らえたのが大きな過ちだった。お前の戯言ざれごとなど信じぬ。それがリュニスのためだ」

「……」

「だが」


 バーミリオンの視線は冷たくシャインの方へ注がれていた。表情は強張っていたものの、その口調は少し柔らかなものへと変わっていた。


「エルシーアのために、ただ一人我らの元へ来た忠義は称賛に値する」

「バーミリオン皇子」


 バーミリオンは紫苑のマントを風にはらませシャインに背を向けた。


「お前の言葉が真実かどうか。それをこれからダールベルクの元へ行き確かめる」

「お、皇子! こやつの言葉など聞く必要はありません!」


 サセッティが冗談じゃないと怒りに顔を歪ませた。


「こやつのせいでメリージュが死んだことをお忘れか! 陛下の情けで女官として精勤していた彼女を、言葉巧みにたぶらかし、自らの脱出のために利用したのですぞ!」

「……メリージュさんが、死んだ?」


 シャインはサセッティの言葉に思わず口を開いた。

 バーミリオンはシャインに背を向けたまま足を止めた。

 振り向かずに呟く。


「サセッティ、行くぞ。私は『青の女王』号へ行き、陛下のご意向を伺う」


 傾き始めたロワールハイネス号の甲板を、バーミリオンは再び歩きだした。

 けれどサセッティは長剣を抜き放ったまま、その場を動かずシャインを睨みつけていた。


「――サセッティ隊長。メリージュさんは……確かに俺に協力してくれました。ですが、どうして……!」


「そうだ。お前を助けたことで、恩義のある陛下を裏切ったメリージュは、自ら毒を飲んで果てたのだ! お前さえリュニスに現れなければ……メリージュは!! 私の、は――」


 シャインはサセッティの顔を凝視した。

 いつの間に近付いたのだろう。彼の顔は手を伸ばせば届くほど間近にあった。

 メリージュの死を悼んでか、その表情は悔恨と苦悩に彩られ、シャインの知る精悍な軍人という印象のサセッティとは別人のように変わっていた。


「サセッティ……隊長……」


 突如、船が揺れた。

 まるでロワールが全身で叫んでいるかのように。激しく。

 重い衝撃が胸に走り、シャインは息を詰まらせた。

 かろうじて動く左手で胸を押さえる。

 冷たい刃の感触と、自らの温かい血が溢れ流れていくのがわかった。


『お前さえリュニスに現れなければ、メリージュは……!! 私の、妻は――』


「……」


 空気を求めるわけではなく、シャインはサセッティへの謝罪を口にしようとしたが、喉にはもはや数多の血で溢れていた。


 サセッティは何も言わずシャインの肩に手をかけ、その胸に埋めた剣を引き抜いた。シャインの視界は何も映さず、急激に暗闇へと変わっていった。


「――サセッティ?」


 自分の後についてこないサセッティを訝しむバーミリオンの声が遠くから聞こえる。同時にざわざわと波の音が押し寄せてくるのも。


 そして海水が流れ込んできた。

 ロワールハイネス号が海に飲まれる時が来たのだ。


 シャインの右手はもはや動かないはずだったが、それはゆっくりと上がり、右肩の上に落下したミズンマストの斜桁ガフの円材をしっかりと握りしめていた。


『俺が君から離れられるはずがない。俺の帰る所は……』

『シャイン――』


 青い闇に閉ざされた海の中で、誰かが唯一の灯のようにシャインの名を呼んだ。

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