5-77 二つの祖国


 ◇◇◇


 ダールベルク統括将の乗艦する二等軍艦ウインガード号が水平線の彼方から現れたのは、その日の正午を過ぎた頃だった。


 シャインはわざとジャーヴィスの乗るアマランス号と距離を離して一時停船していた。ディアナがここにいることも伝えていない。


 シャインは自分の名前も伝えず、ただノイエが到着してから詳細を報告する、とだけアマランス号に通信し、その後は沈黙を保っていた。

 六時間という長い長い沈黙だった。




「ヴィズル、時間だ。ロワールハイネス号をウインガード号に寄せてくれ」

「わかった」


 ロワールハイネス号の舵輪をヴィズルに任せ、シャインは外から自分の姿が見られないよう後部ハッチの扉を僅かに開けて外の様子をうかがっていた。


 表向きシャインは、エルシーアでは死んだ人間になっている。だから本当に直前まで自分の姿をエルシーア側へ見せるべきではないと思ったのだ。


 シャインはウインガード号が到着するまで、時折、ジャーヴィスの乗るアマランス号の信号旗を確認していた。アマランス号には参謀司令官が乗艦している印に、船尾に長細い三角形の形をした、青金の提督旗が掲揚されていたからだ。


 そしてウインガード号の信号旗も、アマランス号に乗っている参謀司令官と、艦長、両名の召集を命じるものがはためいていた。つまりアドビスとジャーヴィスもノイエに呼ばれたということだろう。


 風はおだやかな南西風で、帆の調整をせずとも、ロワールハイネス号はウインガード号が一時停船している海域まで約十分程で近づくことができた。


 ウインガード号を見るのは一年以上前で随分と久しい。

 4隻の大型軍艦で編成されていた海賊専門拿捕艦隊――ノーブルブルーが解体されて、このウインガード号は唯一現存している二等軍艦だ。進水したのが今から約二十年前なので、旧い船ではあるが、シャインはふと懐かしさを覚えて刻々と近付く彼女の姿を見つめた。


「シャイン、私に乗っているのに、他の船のことを考えてる」


 背後でロワールの声が響き、シャインは思索から我に返った。


「あ……いや、その。ウインガードは以前……助けてもらったことがあったから。それで……」

「ふーん」

「……」


 ロワールの返事は意外にも冷めていた。

 シャインは心の中で、嘘はついてないぞと何度も繰り返した。


「ウインガードって、ちょっと変わってるわよね。例えば……あの髪型とか、服とか」


 いつのまにかシャインの隣で外をうかがっているロワール(彼女は別に隠れる必要がないのだが)が口を開いた。ウインガード号のくすんだ紺色の船体が近づく。およそ四十門ある砲門には、金色の葉が丸く円を描いたレリーフですべて飾られている。


 シャインはロワールに教えられてその気配に気付いた。ウインガード号の船首に見覚えのある女性がたたずんでいたのだ。床まで届く漆黒の長い髪を海風に靡かせ、一昔前の古風な黒いドレスを着た色白の女性。だがウインガード号に乗って作業をしている水兵達は、彼女に気付かない様子で舷側に立っている。


「ウインガード……」


 シャインの視線に気付いたのか、無表情だった女性がふとロワールハイネス号の方を見た。

 少女とも女ともどちらともつかない、人間離れした美しさを持った彼女は、このウインガード号に宿る『船の精霊レイディ』だ。


 ロワールハイネス号がウインガード号の左舷側へゆっくりと近づく。

 シャインとウインガードが視線を交わしたのは一分にも満たない。

 だが彼女は何かを察したように、淋しげに瞳を伏せて頭を振った。


「どうしたのかしら。ウインガード、私のこと完全無視だわ!」


 ウインガードがシャインにしか意識を向けなかったことにロワールが憤慨している。


「ロワール、ウインガードは君のことを無視なんかしてないさ。ああして船首まで出迎えてくれたんだから」

「でも。なんか、挨拶にしては辛気臭かったわ。全く、着てる服も黒づくめで怖いし」


 その点はシャインも否定できなかった。ウインガードは船の精霊達がそうであるように容姿は美しいが、どこか陰のある独特の雰囲気を持つレイディだ。


 尤も、二十年も軍艦にいれば、それなりに嫌なこともあっただろう。

 シャインはふとウインガードがまとっているのは喪服ではないだろうかと思った。彼女なりに、自分に乗って命を落とした人間を憂い、その霊を慰めているのかもしれない。


「ロワール。船の行き足を落としてくれ。停船する!」


 頭上――甲板で舵輪を握るヴィズルが叫んでいる。


「わかったわよ。舳先は風に立てていて。すぐ止めるわ」


 いらいらとした口調でロワールが返事をした。




 ◇◇◇




 ロワールハイネス号はウインガード号から約五十リール(一リール=1メートル)離れた所で停船した。海に浮かべた雑用艇にヴィズルが先に乗り込む。次いで、覆いフードのついた外套を頭からすっぽりと被ったディアナとシャインが乗った。


「ヴィズル。ディアナ様のことはもうアドビスに連絡しているのか?」


 シャインは雑用艇の舵を船尾でとりながら、ウインガード号へ舳先を向けた。


「……いや、まだだ。リオーネさんと昨夜少し話ができたんだが、彼女はアスラトルにいるんでね。アドビスがどうやら今回の遠征のことを彼女に知らせなくて、黙ったまま行ってしまったらしい」

「そうか。わかった、ありがとう」


 シャインは慎重にウインガード号の左舷側、中央寄りへ雑用艇を移動させた。


「ロワールハイネス号の船長か?」


 エルシーア海軍士官と思しき濃紺の軍服をまとった青年が、甲板から誰何すいかしてきたのでヴィズルが答えた。


「ロワールハイネス号のを連れてきた。ただし、一人は女性でね。椅子の用意を頼むぜ」

「了解した」


 五分後。ウインガード号の甲板に降り立ったシャイン達は、先程、誰何してきた士官に連れられて、後部甲板の昇降口から一つ下のサロンへ案内された。


「失礼いたします。ロワールハイネス号の船長と客人をお連れしました」


 士官が扉を開いてくれたので、まず先にヴィズル、それからシャイン、ディアナ、という順番で部屋に入った。


「……お前が、ロワールハイネス号の……船長?」


 思いっきり疑問形で口を開いたのは、扉に一番近い席に座っていたジャーヴィスだった。

 あの冴え冴えとした青い瞳を、まるで親の仇でも出会ったかのように細め、ヴィズルの顔をしげしげとながめている。


 ジャーヴィスの隣には黒の軍服を着たアドビスが、大きく表情を変えることなく――だがシャインは、アドビスがヴィズルを一瞥して、口元にほんのわずかだが笑みを浮かべたことに気付いていた。


「ご苦労。なんでも私に会いたいということで、ここに来たそうだな」


 船尾の窓を背景に、上座に座るノイエ・ダールベルクが机に肘をついたまま口を開いた。

 ノイエはあつらえたばかりと容易にわかる、上等な布地を使用した真新しい濃紺の軍服をまとっていた。白手袋をはめた右手には、ディアナの瞳を思わせる淡い紫の宝石がついた指輪が光っている。

 ヴィズルは頭を垂れてノイエに挨拶した。


「俺はロワールハイネス号の雇われ航海士でありまして。閣下にお話があるのはこっちの二人です」


 ヴィズルを知っているジャーヴィスが、何か言いたげに口を開いている。

 ヴィズルはそれを面白がるようにちらりと一瞥したあと、素早く扉の方に自ら後退した。


「何者だ。そろそろ頭に被っている覆いをとって、顔を見せたらどうだ」

「……わかりました」


 シャインは返事をした。

 ぎくりとジャーヴィスが顔を強張らせる。

 アドビスは平然と腕を組んだままこちらを見ない。

 ノイエがどこかで聞いた覚えがある声だといわんばかりに、水色の瞳を細める。

 シャインは頭から被っていた覆いを取り払って自らの顔をさらした。

 同様に、隣に立つディアナも覆いを頭から除ける。


「ディ……ディアナ様っーー!!」


 机の上で手を組んでいたノイエが、雷でも打たれたかのように席から立ち上がった。この時は流石のアドビスも、シャインの隣に立つディアナを驚いたように見つめていた。


 ディアナはヴィズルが見立てたリュニスの服をまとっていた。上質の更紗で作られた白のズボンと立襟の上着には金糸と銀糸を使用した刺繍が施され、その上から被る長衣は淡い菫色だ。長い銀髪を一本の三つ編みにまとめ、頭上に結い上げたディアナはリュニスの姫君のように見えた。

 ディアナはノイエと視線を交わすと、しずしずと頭を垂れた。


「ノイエ様。この度は私のことでご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」

「……ディアナ様……」


 ノイエの声は少し震えていた。

 冷たい印象を覚えるその水色の瞳でさえ、今は、無事に戻った婚約者の姿に安堵するあまり、驚きに大きく見開かれている。


「ディアナ様。本当によくぞご無事でお戻りになられました」


 ディアナに声をかけながらアドビスが席を立ったので、ジャーヴィスも慌てて立ち上がる。


「ありがとうございます。ご心配をおかけしました。グラヴェール中将。すべてシャイン様のおかげです」


 ディアナはアドビスとジャーヴィスに向かって再び頭を下げた。


「ディアナ様。どうぞこちらへ」


 ジャーヴィスはノイエの隣へディアナを案内し、椅子を引いた。

 ノイエはすぐに言葉が唇から出ず、ただただディアナを凝視していたが、おもむろに席を立つと彼女の足元へ跪いた。


「……まさか、アノリアへ向かう貴女の乗った船がリュニスに襲われるとは思わなかった。あなたを護ることができなかった責任は私にすべてあります。本当に、申し訳ない……」

「ノイエ様……」


 ディアナは床に俯くノイエへほっそりとした手を差し伸べた。


「どうぞ顔を上げて下さい。あなたは私のために、自ら迎えに来て下さいました。それで十分です」


 ノイエはディアナに手を引かれて立ち上がった。

 しばし、昂ぶった感情を鎮めるため額に手を当てて大きく息をつき、自らの席に再び腰を下ろす。


 シャインは沈黙を守っていた。ジャーヴィスが時折こちらを見る視線に気付いているが、シャインは敢えて無視した。

 悪いが再会を喜ぶ時間など、シャインには残されていないのだ。


 ディアナが椅子に腰を下ろし、ようやく落ち着きを取り戻したノイエが、扉の前に立つシャインを見た。


「そうか……これが、あなたたち親子のだったのだな……」


 ノイエの言葉にアドビスは何も反応しない。

 つまりこの場はシャインに任せるという意思表示だろう。

 ノイエは咳払いをして、無関心を装うアドビスよりも、話がしやすそうだと思ったシャインに話しかけてきた。


「シャイン・グラヴェール。まずは先に、ディアナ様をリュニスから救出してくれたことに感謝する。だが君が世間を欺き騒がせたことは感心しない。そのことについて説明をしてもらいたいが――」


「失礼ながら、ダールベルク閣下。私の名はリュニス群島国のリースフェルトと申します」


 シャインはノイエの水色の瞳を睨みながら、抑揚を抑えた声でリュニスでの名を告げた。


「なっ――!」


 シャインに一番近い椅子に腰かけるジャーヴィスがうわずった声を上げた。


「シャイン様、どうして……!」」


 ディアナが口元を押さえ、信じられないという様子で頭を振る。


「どういうことだ。説明しろ!」


 怒気を含むノイエの声に、シャインは黙ったまま、頭を覆う部分がついた白い外套を脱いで床に落とした。


「シャイン、お前――」


 扉の前に立つヴィズルも小声でシャインに抗議する。

 シャインはリュニスの近衛兵の軍服をまとっていた。エルシーアの海軍の軍服と形はよく似ているが、リュニスの軍服の上着の方が丈が短く、丁度臍の部分が見える形になっている。


 膝丈まである黒い服を先に着用し、その上から、銀糸の刺繍でふちどられた上着を着る。エルシーアの軍服よりもはっきりと体のラインがみえやすいデザインだ。

 ただしシャインは帯剣していなかった。例によって短剣は愛用の深靴ブーツの中に二本ずつ仕込んではいるが。


「……ま、まさか! グラヴェール中将!」


 ノイエが興奮を抑えきれない様子で叫ぶ。


「グラヴェール家は、本気でエルシーアへ弓引くつもりか……!」


 だが発言を慎んでいたアドビスさえもが、今はノイエと同じように驚愕の眼でシャインを見つめていた。


「シャイン。お前は……何のつもりだ」


 シャインはノイエとアドビスの顔を交互に見つめた。


「申し訳ありません。これから時間が許す限り事情をお話します。ですが、その前にお願いがあります」


「――願い?」

「はい」


 シャインはノイエの訝しげに細められた水色の瞳をひたと見つめた。


「人質交換のお願いです。ディアナ様は無事エルシーアに戻られました。よって今度は、そちらが虜にしている、バーミリオン皇子の許婚――エティエンヌ様をお返し下さい。私がリュニスまで、彼女を送り届けます」

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