5-76 恩讐


 ◇◇◇



 今更ながらふと思う。

 自分がここにいるのは、運命の悪戯ではないかと。


 ジャーヴィスはアノリアへ向かうアマランス号の後部甲板で一人佇んでいた。

 あと数時間もすれば明ける暗い水平線には、アスラトルから一緒に航行している僚船の帆影が朧げに視認できる。その数は十隻を軽く超える。すべて大砲を三十門以上備えた五等級以上の軍艦だ。


 ジャーヴィスのアマランス号はそれらの船より一回り小さい。乗組員は百五十名で海兵隊が五十名。大砲も、上甲板と下甲板にそれぞれ十門――合計二十門しか装備していない六等級の軍艦である。


 なぜ自分がここにいるのか。

 ジャーヴィスはその問いを延々脳裏で繰り返していた。


 理由は漠然とだがわかってはいる。

 エルシーアは現在どこの国とも戦争をしていない。エルシーア海軍の最高位である海軍統括将自らが、艦隊を率いて海に赴くことなど五十年ぶりのことなのだ。


 それだけでも緊張するには十分だというのに、下手をすればリュニスの艦隊と戦争になるかもしれないという不安もある。そうなればこれまで経験したことがない大きな海戦となるだろう。


 そして自分が緊張しているのは、ノイエ・ダールベルクの身に何かがあれば、代将として艦隊を指揮する立場の参謀司令官――アドビス・グラヴェールがこの船に乗っているからだ。


 アドビスは現在、艦長室を作戦会議室として使用している。よってジャーヴィスは航海長の士官部屋を空けてもらって自室にしていた。


「ジャーヴィス艦長」


 ジャーヴィスは呼びかけられて思考を現実へと引き戻された。

 薄闇の中、ふわりと香ばしい香りが漂っていた。誘われる様に振り返ると、そこには白いカップを手にした副長のミリアスが立っている。


「深夜直(午前0時)からずっと甲板に出ていらっしゃってましたね。もう夜が明けます。余計かと思いましたがリラヤ茶を作ってきました」

「ありがとう」


 ジャーヴィスは強張った表情を努めて和ませながら、ミリアスからカップを受け取った。磁器のカップから伝わる温もりが、ジャーヴィスの緊張を気休め程度だがほぐしてくれた。


 ジャーヴィスは暗褐色の茶を口に含んだ。リラヤ豆を焙って乾燥させ、細かい粉末にしたものをお湯で溶かして飲むのがリラヤ茶だが、独特の香りと苦みが神経を興奮させ、眠気をすっきりと覚ましてくれる。


「助かった。思っていたより体が冷え切っていたようだ」


 ミリアスがはにかみながら笑んだ。


「間もなくアノリア沖ですね」

「そうだが、後一時間後に東へ方向転換する。そこでダールベルク統括将の乗るウインガード号と本隊の到着を待つ予定だ」


 ジャーヴィスの船は他の軍艦より足が速いので、斥候として艦隊の先陣にいた。

 そしてアノリアの領海に入る手前で本隊を待つ指示を受けていた。

 アノリアに近付き過ぎてはならない。


「ジャーヴィス艦長」


 肩口で切りそろえた金髪を風に靡かせながら、ミリアスが南の海上を凝視している。ジャーヴィスはいつになく自分に話しかけてくるミリアスを訝しげに眺めた。


 二十をすぎたばかりのミリアスとはまだ半年しか付き合いがないが、彼は裏表のない性格故か、その口調で感情の起伏を察することができた。どちらかというと快活な物言いをするミリアスが、妙に大人しい気がする。


「どうした。私と同様、緊張しているのか?」


 敢えて自分の弱味を見せ場を和ませる。こういう気遣いは苦手だが、自分がミリアスと同じ年だった頃に比べれば自然とできるようになった。慣れとは恐ろしいものである。ミリアスは苦笑して小さく首を振った。


「いえ。確かに緊張はしてますが……一つだけ、ジャーヴィス艦長にお聞きしたいことがありまして」

「私に?」

「ええ」


 ミリアスの水色の瞳がきらりと煌いた。


「グラヴェール艦長とアノリアで会ったことを、何故ダールベルク統括将閣下に報告されなかったのですか?」


 ミリアスの瞳の輝きが刃物のように鋭さを増す。ジャーヴィスは敢えてそれと視線を合せなかった。

 年下の副長が何を思っているのか、すべてではないがわかってはいる。

 肉親を海戦で失った彼の気持ちは理解できた。

 だが執拗にシャインを追い詰めるミリアスの行動は納得がいかない。


「その必要がないと思ったからだ」


 ジャーヴィスは淡々と答えた。


「……ジャーヴィス艦長!」


 ジャーヴィスは拳を握り締めて、真っ向から睨みつけるミリアスの視線を受け止めた。

 たじろぐことなく。

 再び冷静な口調で自らの答えを述べる。


「アノリアがリュニスに奪われたせいで、我々はダールベルク伯爵邸まで辿りつくことができず、命じられた任務も果たせなかった。私のするべき報告はこれで十分だ。そこにあの人がいたかどうかなど、重要ではない」


「重要ではない? いいえジャーヴィス艦長。あなたは間違っておられます!」


 ジャーヴィスは舷側に腕をついて額を押さえた。

 言い方がまずかったようだ。ミリアスに反論する隙を与えてしまった。


「僕はあなたを見誤っていたようです。あなたほどの方が、こんな重要なことを軽視されるなんて!」


 ジャーヴィスは肩をすくめた。


「重要? 一体何が重要だというのだ?」

「まだ寝ぼけておられるのですか?」


 ミリアスが感情に任せた激しい口調で叫んだ。


「あなたは反逆者を隠ぺいしようとしているんですよ? あの男は父親を利用して、命惜しさのために虚偽の自殺を図り、リュニスへ逃亡しました。しかも彼はアノリアにいて僕達を攻撃してきた。ダールベルク統括将閣下にこれを報告するのは、エルシーア国民の義務です。グラヴェール家は、エルシーアに弓引く逆賊だと」


「ミリアス」


 ジャーヴィスは静かに頭を振った。

 何がこの若者を、ここまで憎しみに駆り立ててしまったのだろう。

 いや。

 彼はただ、知りたいだけなのだ。

 自分の父親が何故、死んでしまったのか。

 二十年以上もノーブルブルーの艦隊に属し、多くの海賊を捕らえ、勝ち続けてきた父親が、何故、無残なけ方をすることになったのか。

 そこに至るすべての『真実』を――。


 ジャーヴィスはそっと手を伸ばし、きつく握り締められたミリアスの拳をとった。唇を震わせ、怒りの中にも戸惑いを宿すミリアスの目を正面から見据える。


「私を信じて、その件はもう少しだけ待ってくれ、ミリアス。私がグラヴェール艦長を説得してみる」

「……ジャーヴィス艦長を……信じる……? あの男を……説得?」


 訳が判らない。一瞬錯乱にも似た表情で、ミリアスが親を探す小さな子供のように周囲を見回した。


「そうだ。彼はあの時、我々を捕虜にできたがそうしなかった。彼が警告してくれたから、我々はアスラトルへ帰港し、アノリア陥落をいち早く海軍省に伝えることができたんだ。よもやそれをお前は忘れてないか?」

「……」


 ジャーヴィスはミリアスの拳から手を離した。

 どうしたらいい?

 ジャーヴィスはミリアスの無言の問いに静かに答えた。


「グラヴェール艦長は、私の話なら聞いてくれる可能性がある。もう一度、彼に会って話をしてみよう。一緒にだ、ミリアス」


 ミリアスはぐっと唇を噛みしめ俯いた。

 ジャーヴィスは自分の推測が正しかったことを確信した。

 ミリアスを元気づけるように肩を叩き、リラヤ茶を一気に飲み干す。


「おーい甲板! 前方に船影が見えるぞー!」


 船首に一番近いフォアマストの帆桁ヤードに昇り、見張りに立っていた水兵の声が、風に乗ってジャーヴィスの所にも聞こえてきた。


 ジャーヴィスは空のカップをミリアスに渡し、右舷側から前方をながめた。軍服の内ポケットから携帯用の小型望遠鏡を取り出し、見張りが報告した船影と思しき姿をそれで覗き見た。まだ距離が離れているせいか、国籍や船種がわからない。


「報告します! ジャーヴィス艦長。ルウム副長」


 当直の二等士官カイルが、ジャーヴィスのいる後部甲板へと駆けてきた。


「なんだ」


 ジャーヴィスはそちらを向くことなく再び望遠鏡を覗いた。

 先程より近付いたのか船種なら判別できる。

 三本マストの縦帆船スクーナー、あまり大きな船ではない。おそらく商船だろうか。碧海色の海を思わせる船体に、昇りかけた朝日を浴びてマストが金色に輝いている。


「船種は中型のスクーナー。国旗は掲げられていませんが、型からみて恐らくエルシーアの船です」


 当直士官の報告を聞きながら、ジャーヴィスはぶるっと全身を震わせた。

 脳裏に見覚えのある船影が浮かんだからだ。


「ジャーヴィス艦長? どうされました?」


 落ち着きを取り戻したミリアスが話しかけてきた。ジャーヴィスは返事をせず、食い入る様に望遠鏡を見続けた。どきどきと鼓動を刻む心臓の音が急に大きくなって、周りにいる部下たちの耳にまで聞こえているのではと思うほどだ。


「……まさか……」


 ごくりと生唾を飲み込んだジャーヴィスの所に、士官候補生のハークが額に軽く手を添えて敬礼してから近づいてきた。


「ジャーヴィス艦長。グラヴェール参謀司令官がお見えになりました」


 ジャーヴィスはようやく背後の気配に気付いて、望遠鏡を手にしたまま振り返った。両開きの扉がついた後部ハッチから出てきたのは、軍艦のマストのように長身のアドビス・グラヴェールだ。アドビスはエルシーア海軍の黒い軍服をまとっていた。中将位を表す金鎖を三本胸から肩に這わせた略装姿だ。


 アドビスは前方を一瞥した後ジャーヴィスに向かって薄く笑ってみせた。

 すべてを見透かした青灰色の目は確信に満ちて輝いていた。


「ジャーヴィス艦長。全艦隊に一時停船を命じる信号旗を掲揚せよ。その次にの船長へ、アマランス号へ来るよう信号を送れ」

「了解しました」


 ジャーヴィスは冷静に返事をした。

 アドビスがいるだけで物事に対してどっしりと構えていられるような、そんな安心感を即時に抱いた。

 いや、アドビスがはっきりと、あの船のを自分のかわりに言ってくれたせいかもしれない。


「ルウム副長、それにハーク! 信号旗を用意! 全艦隊へ一時停船。カイル、お前は船首甲板でロワールハイネス号へ灯信号を送ってくれ。『こちらはエルシーア海軍アマランス号。そちらの船長と話がしたい。来訪されたし。ジャーヴィス』だ」


「了解しました!」


 ジャーヴィスの所に集まっていた士官達が一斉に信号を送るため配置につく。


 アマランス号の中央のマスト――メインマストの上部に『全艦隊一時停船』を表す信号旗――真赤な旗が一枚と、上半分が白、下半分が水色――二枚の信号旗が翻った。


「ジャーヴィス、ウインガード号が視認できたら、ダールベルク統括将が一時停船の理由は何かと問う信号をしてくるはずだ。見落とさないよう、見張りを多く配置しておけ」

「はっ」


 ジャーヴィスは信号旗を上げて戻ってきたミリアスに、再びアドビスの命令を伝えた。


「了解しました。あの……ジャーヴィス艦長」

「なんだ」


 ロワールハイネス号がやってきた。

 あの船にはシャインが乗っているのだろうか。

 気もそぞろなジャーヴィスは、ミリアスの険しい表情ではっと我に返った。


「グラヴェール参謀司令官は、ロワールハイネス号と言いましたよね。まさか、あの船には――」

「ジャーヴィス艦長!」


 二等士官カイルが栗毛色の髪を風に乱されながら、ジャーヴィスの所へ駆けてきた。


「カイル。ロワールハイネス号への通信は?」


 カイルは額に拳を当てて敬礼したあと、弾ませていた息を整えた。


「ロワールハイネス号より返信です。『そちらの艦隊と合流する。ダールベルク統括将との面会を希望する』とのことです」


 ジャーヴィスは隣に立つアドビスへ、意見を求めるために視線を向けた。

 アドビスは黙ったまま頷いた。了承したという風に。

 ジャーヴィスはカイルへ再びロワールハイネス号への通信を命じた。

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