5-73 笑顔の裏に

「さっき、やっと眠って下さいましたの」


 安堵の息と共にメリージュが、机に伏せて眠っている衛兵を指差した。

 シャインはそれを見て強張った顔の緊張を緩めた。いざとなれば牢番と同じように殴りつけて眠らせるつもりだったから。


「ディアナ様のお支度も整ってございます」


 シャインはメリージュの声に促されるまま、塔の二階の階段からゆっくりと降りてくる銀髪の女性に視線を向けた。ディアナは長い銀の髪を一つの三つ編みにまとめ、細身の濃紺のドレスをまとっていた。

 シャインの姿に気付き、淡い菫色の瞳が一瞬大きく見開かれる。大理石のような白い肌に、唇の色だけがほのかに赤く染まっていた。


「リュニスの軍服をお召しになっていても、やはりシャイン様ですわ。私、ちゃんと起きていますわよ」


 シャインは黙ったまま数歩、ディアナの方へ近付いた。ディアナも互いの距離を詰めるように歩いてくる。公爵令嬢としての凛とした菫色の瞳と視線を交わし、シャインはその場に膝をついた。


「遅くなりましたがお迎えに上がりました――ディアナ様」

「ありがとうございますシャイン様。約束を守って下さって……私、とても嬉しかった」

「約束?」


 シャインはディアナに促されて顔を上げた。


「お忘れになったと思いたくないのですが、ほら……庭園でお話した時、シャイン様がアノリアに来ることがあれば、私の所へ必ず立ち寄ると仰って下さいましたわ」


 シャインは思わず苦笑した。そういえばそんな話をしたことがあった。


「ああ、そうでしたね。アノリアを通り越してリュニスまで来てしまいましたが、約束を守ることができて本当によかったです」


 シャインはふとディアナが眉間を険しくさせて、自分の手元を凝視していることに気付いた。ディアナの白い手がシャインの手首を掴んで上へと引っ張る。


「ディアナ様?」


 シャインは静かに立ち上がった。けれどディアナはシャインの手首から手を離そうとはしない。その理由をシャインはようやく察した。

 シャインの手首には水牢に繋がれていたときにはめられた鉄の枷がまだはまっていた。鎖がいくつか連なっており、それは近衛兵の軍服の袖口から鈍い光を放っている。


「皇帝陛下から素敵な装身具をもらいましてね、まだ外す時間がないんです。ご心配には及びません。鍵はこの中のどれかですから」


 シャインは軍服のポケットを探り、鍵の束をディアナに見せた。そこでようやくディアナが安心したように眉間の緊張を解いた。


「さ、お二人共。積もる話はございましょうが、急いでここを出た方がよろしいかと」


 何度か塔の扉から外をうかがっていたメリージュが声を掛けてきた。

 シャインはメリージュの方へ向き直った。


「ありがとうございます。メリージュさん。あなたの協力がなければ、こんなに上手くはいかなかったでしょう。とても感謝しています」


 後に残るメリージュにあらぬ疑いがかからなければいいが。それだけが不安だったが、メリージュは晴れやかな笑顔でシャインを見つめていた。


「いいえ。私が宮殿に居続けたのは、きっとこの日のためだったと思います。リュニス皇家に復讐はできないけど、お二人が無事にエルシーアに戻ることができれば、私が今日まで生き永らえた甲斐があったということですわ。シャイン様、そしてディアナ様」


 メリージュが手を伸ばしてきたので、シャインとディアナは彼女の手のひらに自らのそれを重ね合わせた。


「もう二度とお会いすることはないでしょう。でもこの地からお二人のご無事をお祈りしております」

「メリージュさん……」


 ディアナが感極まったかのように菫色の瞳をうるませる。


「さ、行って下さい」


 メリージュの声に後押しされて、シャインとディアナは塔から外に出た。

 ディアナが一瞬上半身をふらつかせたので、シャインはその腰に手を回して彼女の体を支えた。


「す、すみません」

「いいえ。それよりも歩けますか?」


 ディアナは数日間ずっと熱を出して床に臥せっていた。ようやく熱が下がったのだから、その体力は著しく低下しているだろう。

 腕の中でディアナがうなずいた。恐らくシャインに迷惑をかけたくない一心で。

 夜の闇の中でもシャインはそれを容易に察することができた。

 自らシャインの手を振り払い、再び己の足で歩こうとしたディアナにシャインはそっと声をかけた。


「……ディアナ様、ご無理はなさらないで下さい。ちょっと失礼」

「――あっ!」


 シャインはディアナの肩を自分の方に引き寄せて、おもむろに抱き上げた。驚きのあまりディアナが小さな悲鳴を上げる。

 先程よりもずっと近くなった互いの顔の距離に戸惑いつつ、シャインはディアナに声をかけた。


「突然の非礼お許し下さい。少し急ぎますので走ります。このまま俺につかまってて下さい」

「……あ……はい」


 ディアナが遠慮がちにシャインの肩に手を伸ばす。

 シャインは物見の塔の入口から、まずは城壁の陰に移動して地面に映る衛兵の影に視線を向けた。

 揺れる松明の灯りの中で交差する衛兵の影。それらが完全に消えるのを確認して、中庭の植木へと走る。

 ディアナはシャインの胸に顔を埋め一言も声を発しない。見張りに見つかるかもしれないという恐怖に、息までも止めているようだ。


 シャインは声を出さず、ディアナに頷いてみせると、目の前に見える地下牢への出入口へと走った。

 衛兵に気付かれた気配はない。

 地下牢への入口が本当にここにあるのだろうか。一瞬それが疑問に思われるほど伸びたつる草の緑の帳の下をくぐり、湿った石造りの通路を進む。


 やがて薄暗い松明の光に照らされて、地下牢へ続く鉄格子の扉が見えてきた。

 扉の向こう側は牢番の詰所となっており、先程とは変わらず籐の籠に入った酒の瓶と、焙った鶏肉の皿が机の上に載ったままになっている。

 人の姿はない――。

 シャインはディアナを扉の前で降ろして立たせた。

 軍服のポケットを探って、扉を開けるために鍵の束を取り出す。


「リースフェルト! 貴様あぁっ!」


 背後からリュニスでのシャインの名を呼ぶ怒号が響き渡った。

 シャインは先程中庭から通ってきた通路へ振り返りながら、ディアナに鍵の束をその手に押し付ける。


「扉を開けて中に入って下さい!」


 闇の中から白刃が煌いた。

 世継ぎの証しである紫のマントを翻し、長い金髪を束ねることなく靡かせながら、軍服姿のバーミリオン皇子その人が、シャインの眼前に迫っていた。


 シャインは両手を手首の所で交差させた。

 十歩の距離を三歩で詰めたバーミリオンの細剣がシャインの頭蓋を砕かんばかりに振り下ろされる。


「ぬおっ!」


 シャインは顔の前で交差させた手首越しに、瞠目するバーミリオンの端正な顔を睨みつけた。水牢で拘束された時にはめられたで、バーミリオンの剣を受け止めたのだ。


「……ふっ。そんな使い方をするとはな! お前とはもう一度剣を交えてみたかった」

「どうしてあなたがここに」

「それはこっちが聞きたいことだ!」


 シャインはバーミリオンの剣を押し返し、上半身を捻ってその首をめがけ左足を鋭く蹴り上げる。

 だがバーミリオンは金の髪を靡かせながら後方へ素早く下がり、シャインとの間を広げた。


 シャインは壁際に寄り、松明を抜き取った。ちらとディアナの様子をうかがう。

 ディアナは焦っているのか、まだ扉を開けることができる鍵を探しあぐねているようだ。それを見たバーミリオンがディアナの方へ歩を進める。


「公女は渡さぬぞ」

「ディアナ様、柄がをした鍵がそうです!」


 シャインは松明をバーミリオンに向かって振り回しながらその行く手に立ち塞がった。細かな火の粉が散ったがバーミリオンは怯むどころか、それを一刀の元に斬り捨てる。


「そんな棒の切れ端で、この私の相手が務まるか?」


 この状況を楽しむように、バーミリオンの嘲笑が周囲に木霊する。

 シャインは短くなった松明の棒をバーミリオンめがけ投げつけた。だがバーミリオンは歪んだ笑いを唇にたたえたままそれを避ける。


「まさかあの水牢から出てくるとはな! まあ、お前を出した者の目星はついておる」

「……」


 ディアナを背後に庇ったシャインは下がることができない。

 再び振り下ろされたバーミリオンの細剣を、シャインは右手首の鉄枷で受け止めた。けれど鉄枷の幅はそれほど広くない。勢いを失ったとはいえ滑った剣の刃が、シャインの軍服の袖口から肘まで一気に引き裂く。


「くっ」


 剣先が鉤爪のようにシャインの腕を抉った。

 シャインの目の中に焦りの色を見て取り、バーミリオンが再び剣を握りしめて構える。


「開きました! シャイン様」


 背後でディアナの悲鳴交じりの声が響いた。鉄格子の扉がきしみながら開く。


「急いで中に!」


 シャインは左手でディアナの肩を押した。手加減はしたが気遣う余裕はない。

 ディアナの体が石床の上を転がるようにして倒れる。


 けれどシャインはそれを見ていなかった。

 鉄格子の扉を右手で掴み、それを外側に向けて引っ張ったのだ。


 耳元をバーミリオンの刃がかすめる風を感じた。

 シャインの喉元めがけ突き出されたバーミリオンの剣が、鉄格子の隙間に火花を散らして挟まる。


「何っ!」


 シャインは鉄格子に挟まれたバーミリオンの腕を掴み、自分の方へ引き寄せるとその手首を捻り上げた。


「ぐ、おお……!」


 バーミリオンの顔が痛みのせいか赤黒くなる。

 ついにその手から豪奢な彫金で施された細剣が金属音を立てて石床へ落ちた。

 シャインはそれを足で遠くに蹴り飛ばし、今度は地下牢側に入りながらその扉を閉めた。


「シャイン様!」


 シャインの行動を悟ったディアナが、素早く鍵穴に駆け寄り、手にした鍵で錠を下ろした。


「リ……リースフェルト……っ!」


 骨は折れていないだろうが、当分バーミリオン皇子の右手首は使いものにならないだろう。左手で手首を支えつつ、バーミリオンが金色の髪を振り乱し、充血した両目を見開いて鉄格子にすがった。


「私から逃げられると思うな! すぐにお前達を捕まえられるよう、兵士は港で待機しているのだ!」


 シャインはディアナに手を貸して立ち上がらせた。


「良い機転でした。感謝します」

「いえ」


 ディアナの顔は青ざめ、その視線は鉄格子越しに叫ぶバーミリオンの鬼気迫る形相に釘付けになっている。


「ディアナ様、こちらです」


 シャインは鍵の束を受け取り、ディアナの肩に手を回すと自分の方へ引き寄せた。時間がない。急がなくては海上がリュニスの軍艦で封鎖されてしまう。


「リースフェルト。お前は私から逃れることができぬぞ! じきにわかる……じきにな!」


 バーミリオン皇子が高笑いと共に捨て台詞を吐いて踵を返す姿が見えた。


「さ、急いで!」


 シャインはディアナを伴い、以前囚われていた水牢目指し足早に通路を駆けた。

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