5-74 涙
何故、地下牢にバーミリオン皇子が現れたのだろう。
その疑問はシャインの脳裏で霧のように渦巻いていた。
けれどそれについて考えている暇はなかった。
追手がかかるのは時間の問題だからだ。
暗闇とごつごつした岩の地面に足をとられるディアナを介抱しながら、シャインはようやく水牢の上側の地点まで来た。満潮を迎えたせいで内部はすっかり海水で満ちており、外に出るためには泳がなくてはならない。
「ディアナ様、泳げますか?」
ディアナは揺れる水面を見て体を硬直させていた。シャインは愚問を後悔した。
「……い、いえ……」
ディアナの細い声が恐れのために震えている。
まあ、これは予測範囲だ。どのみち泳げたとしても、体力の落ちたディアナには介助がいる。
「ご心配なく。俺が外までお連れしますから。水はさほど冷たくありません。ただし、服が濡れるのはご辛抱下さい」
「……あ、シャイン様!」
シャインはディアナを左腕で抱え、水牢へ降りるロープを右手に巻きつけて、そろそろと岩壁を伝い下りた。満潮を迎えても、水は顔より上にはこないし、足が付く深度だということをシャインは知っている。尤も、ここに囚われていたせいだが。
水牢まで降りて、シャインはディアナに声をかけた。
「ほらディアナ様。足が付く深さですし、水はこれ以上上まで来ません」
「ほ、本当ですの?」
シャインの首筋にしがみついていたディアナだったが、手で腰を支えて立たせてやると、その言葉に偽りがないことがわかったのだろう。ディアナの手はシャインの肩に載ったままだったが、彼女はほっと安堵の息を吐いた。
「さ、この通路から外海に出ます。潮の流れに足をとられないよう、俺の腕をしっかり掴んでいて下さい」
シャインは左腕にディアナのそれを絡ませた。ヴィズルの話では、この先は岩礁に囲まれた海へと通じているらしい。ディアナを気遣いながらゆっくりとシャインは進んだ。
岩に砕ける波の音。徐々に強くなってくる潮風の香り。
もう少しで、自分の還る世界へ戻ることができる。
そして、彼女と一緒にまた海を駆けることができるのだ。
自分の魂の半分が宿る――ロワールハイネス号と一緒に。
洞窟を抜けたシャインは、久しぶりに目にした水平線をじっと見つめた。
昇り切った兄弟月――金のドゥリンと銀のソリンが完全な円ではないが、それに近い形で夜空にかかっている。優しげなヴェールのように降り注ぐ月光の中、見覚えのある中型の
ヴィズルならやってくれると思っていた。
「シャイン! ここだ」
シャインは洞窟の入口から出て、すぐ右手の岩礁にヴィズルがいるのに気付いた。
「早く船に乗れ! 港に灯りが集まっているぜ」
リュニスの軍船の一つ<ドロモン>に追われると厄介だ。この船には多くの櫂が取り付けられていて、それを漕げば人力で船を動かすことができる。
シャインは先にディアナを小舟に乗せた。船尾に座らせ、自分はバランスを取るために船首へ座る。ヴィズルが小舟を押しながら急いで乗り込む。
シャインは櫂を握りしめてロワールハイネス号に向かって船を漕いだ。
その数分間がどれほど遠く、そして長く感じられただろう。
闇のせいで青っぽくみえるロワールハイネス号の船体に小舟を寄せ、あらかじめヴィズルが垂らしていたロープを掴み、シャインは
急いでディアナのために、木の板の両端に穴を開け、腰を下ろせるようにロープを通したそれを掴む。
そのロープの先端は、船尾のミズンマストから渡した
小船にそれを下してディアナを座らせ、シャインは甲板まで彼女の体を引っ張り上げた。ディアナはおっかなびっくりという顔で、体を酷く強張らせていたが、無事に甲板の上に上がったことで、自ら木の椅子から降り立った。同時にヴィズルが舷梯を上ってロワールハイネス号に乗り込む。
「さあ、皆、乗ったわね?」
シャインは久方ぶりに聞くロワールの声に懐かしさを覚えながら、後部甲板を振り返った。
舵輪に手をかけた紅毛の船の精霊が、澄んだ瞳でシャインを見つめながら微笑んでいた。
「じゃ、一気にアノリアめざして走るわよ!」
ロワールハイネス号の三本のマストに畳まれていたすべての帆が、ロワールの声と共に一斉に広がった。
◇◇◇
バーミリオンは抜き身の細剣を手にしたまま、エルシーアの公女を軟禁していた物見の塔へと歩いた。
リースフェルトの脱獄はサセッティを通じて、兄である皇帝のアルベリヒへ報告させている。
港の守備隊長には、灯信号で港の封鎖を命じたが、それが間に合ったかどうかは甚だ疑問だ。
兄は――皇帝は水牢に入れれば逃走は不可能と、リースフェルトの船の監視を止めさせた。
エルシーアの間者だった彼には、協力者がいたはずだ。
その者がいれば、水牢から外海に通じる洞穴を抜け、待機させていた船に乗ることも容易い。
現にリースフェルトは何者かの協力のおかげで、水牢に繋がれていた鎖を切り離し、逃亡したのだから。
今となっては何もかも遅い。
すべてはエティエンヌが帰ってくる。その事に心を奪われ、リースフェルトへの監視を怠った自らの慢心のせいだ。
自分の不手際を反省しつつ、バーミリオンはぎりと奥歯を噛みしめた。
唯一の誤算だったのは――あの女のことだ。
バーミリオンは荒々しく物見の塔の扉を押し広げた。
そこにはまだ高いびきをかいて机に伏し眠っている衛兵がいる。
けれどバーミリオンはそれらに目もくれなかった。一欠の関心も抱かなかった。
バーミリオンは塔の二階へ上がる階段に、寄りかかる様にして倒れている黒髪の女官を黙ったまま見下ろしていた。
「……メリージュ……」
その顔は紙のように色を失い、唇には血の気がなかった。
まるで眠っているかのように両目は閉じられている。
「……」
バーミリオンは軽く握りしめられた女官の右手を、手に持った細剣の先で触れた。女性の手の中に丁度収まるくらいの硝子の小瓶が、乾いた音を立てて転がった。
「先帝を毒殺しようとした所を我が兄に諌められ、本来なら極刑に処せられたものを……ここまで目をかけてもらった恩を忘れたお前には、当然の報いだな」
私にはわからぬよ、メリージュ。
お前が何故リースフェルトを助けたのか。
バーミリオンは無言で物見の塔を後にした。
事切れた女官の目には一滴の涙が光っていたが、その顔は永遠の静寂の中で安らぎを得たように穏やかな微笑が浮かんでいた。
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