5-59 ドロモン
「なっ、何を笑われるか!」
ダールベルク伯爵が声を荒げて席から立ち上がった。
「グラヴェール補佐官!」
ノイエはアドビスが肩を小刻みに震わせて失笑を堪えているのを見た。
「……いや、今のは確かに私が悪い……」
アドビスは眉間をしかめたアリスティド統括将へ軽く頭を下げた。
「アノリアの防衛をダールベルク家に任せていたのは、前の参謀司令官であった私でしたから」
「なんと……それでは、我々の嘆願書はすべて、貴様が握りつぶしていたのか……!」
再び怒りが込み上げたダールベルク伯爵は、今にもアドビスに飛びかからんとする勢いで、両手の拳を胸の前で握りしめた。けれどアドビスは相変らず足を組んだまま、僅かに口元を歪ませただけだった。
「私はダールベルク家とリュニス皇家の関係が良好だと思っておりましたから。ダールベルク家はアノリアの土地税収の他に、リュニスから港の使用料や奴隷市の場所代、そしてかの国が内戦状態だった時は武器を輸出して、かなりの資産をお持ちだということを存じております。確か、30億リュールは下らないのでは……」
おお、と、部屋の中が感嘆の声でどよめいた。
<六卿>達が隣の席に座る者同士、顔を合わせ、ひそひそ声を交わす。
「――グラヴェール補佐官」
苦々しく唇を噛みしめたダールベルク伯爵の顔は紙のように白くなっている。
「き、貴様は! どこからそんな偽情報を……」
「父上。お待ち下さい」
今にも倒れそうなダールベルク伯爵の肩に手を置き、ノイエは父親を椅子に座らせた。
「今のダールベルク家の資産は、32億リュール。確かに、小国の国庫並みの金が我が家にはある。それをご存知だからこそ海軍は――いや、国は、アノリアの防衛をすべてダールベルク家が私費で賄えというわけなのですか」
アドビスに口を挟まれて冷静さを失いかけていたノイエだが、ダールベルク家の資産額を暴露されたことで頭が少し冷えてきた。
話を逸らそうとしても無駄なこと。
ノイエは椅子に腰掛け黙ったままのアリスティド統括将へ一瞥をくれた。
私の手には、ロヤント海軍書記官が、コードレック国王陛下からもらった「辞任勧告書」がある。
現に国王陛下は、アノリアをリュニスに奪われた要因が、海軍の軍艦を常駐させていなかったことを認めて下さっている。だからこそ、アリスティド統括将へ辞任をうながすため勧告書を下さったのだ。
それが罷免状でないのが残念だが、ロヤント海軍書記官いわく、勧告書ですら、国王陛下はかなり難色を示されたそうだ。
ノイエは小さく息を吐いた。父ダールベルク伯爵の鬼気迫る訴えがあったこそ、国王の心が動いたそうだから。
「残念ながらそういうことだ。ダールベルク参謀司令官。貴殿もエルシーア海軍の予算がいくらかはご存知だろう」
アドビス・グラヴェールが、金色の鷹を模した杖に手をかけ口を開いた。
「グラヴェール補佐官。軍艦をアノリアに派遣できなかった理由が、そんな……子供の言い訳ではあるまいし!」
「では訊ねるが、貴家に富をもたらしていたリュニスが、何故、今になってアノリアを欲するようになった? ダールベルク伯爵は、リュニス人がアノリアの治安を乱す存在になっていて、それが目に余ると仰った。何か――リュニスを怒らせるようなことを実はしたのではないのか? ダールベルク参謀司令官」
「それは」
ノイエは父親であるダールベルク伯爵と顔を見合わせ、思い当たるふしがまるでないと首を振った。
「奴らは突然アノリアを襲撃してきたのだ! きっと……以前からアノリアをかすめとることを、リュニス皇帝は考えていたに違いない。我々と友好関係を続けたフリをして、油断させる作戦だったのだ」
「それは――十分考えられる可能性だな」
トリニティ中将が、アドビスとノイエの会話に割り込む。
「アノリアを奪えば、ここがエルシーア大陸全土に攻め込むための拠点となる。北上すれば一週間で、王都ミレンディルアへ行くことも可能だ」
「アドビス。アノリアを占拠したリュニス軍の動きは?」
今まで沈黙を保っていたアリスティド統括将が口を開いた。
全員が、部屋の上座に座る海軍統括将へ注目する。
「それは諜報部の私がご報告申し上げます」
丸い軍帽を小脇にかかえ、薄くなった頭髪を手で気にしながら、<六卿>のひとり、オーラメンガー中将が席を立つ。
「……最新の報告は三日前です。リュニスの軍艦は我が国でいう三等クラスの軍艦三隻と、恐らく兵士を大量に乗せた大型の<ドロモン>が一隻、アノリアの湾にいるのが確認されております」
「<ドロモン>とは……これは少々やっかいだな」
ノイエはアドビスの独り言に即座に反応した。
「何をそんなに驚かれる。たかが、リュニスの奴隷運搬用の漕ぎ式船ではないか」
「ほう。流石ダールベルク参謀司令官。博識なことだ」
アドビスはおもしろいものでも見るかのように、ノイエに貼りついたような笑みを向けた。
「奴らの奴隷港には、大抵何隻かいるから知っている」
「では、<ドロモン>の性能もよくご存知でしょうな。五十年前、エルシーアは南端の領海を巡り、リュニスと小競合いを繰り返していたが、結局、アノリアへリュニス船の立ち寄りを許可することで、不可侵条約を結び戦争を終わらせることができた。
エルシーアがアノリアを掌中にできなかったのが、リュニスの<ドロモン>の存在だ。この船の守りがあまりにも堅牢で、かつ、手漕ぎでいつでも航行できるため、エルシーア側は何度か大敗を喫したことがある。
アノリアは街全体が大きな湾になっており、現在リュニス専用となっている西の港は、長い砂浜が続いていた。風はなくともリュニス人は、多くの兵士を乗せて夜陰に乗じ、<ドロモン>を手漕ぎで走らせ、そのまま砂浜へ乗り上げた。<ドロモン>の船首部には、喫水線の下に硬い木材を加工した「角」がついている。体当たりすることで船体に穴を開けるためだ。
何隻ものエルシーアの軍艦が沈められた。五十年経った今も、<ドロモン>に有効な戦法は、近づかれる前に砲撃で沈めるか、舵を壊して動きを止めるか、爆薬を放りこんで燃やすしかない」
アドビスは自らの饒舌に顔をしかめながら肩をすくめた。
曇った日の海上のような、青灰色の瞳を静かに持ち上げる。
「それ故に私は、アノリアへエルシーア海軍の軍艦を派遣することを躊躇した。リュニスを刺激する――それもさることながら、抑止力として軍艦を派遣するなら、<ドロモン>に対抗できなければ意味がない。最低でも三等クラスの軍艦が三隻は必要だ。船の維持費や火薬、千人を超える海兵隊の兵糧は、月に一千万リュールを超える。国の安全には代えられないが、しかし、アノリアの治安維持というためだけに、それだけの莫大な経費を議会に認めさせるのは容易ではない」
「……」
ノイエはしばし口を閉ざした。長年エルシーア海軍の参謀司令官を務めてきたアドビスに対する畏敬の念が、ふっと胸をかすめたからである。
アドビスに代わりその職務を遂行する立場となったノイエは、現在も軍縮のため、海軍の経費が削られていくのを知っている。王都でロヤント海軍書記官となんとか知り合いになり、今の立場を手に入れたのは、少しでもアノリアの防衛に予算を回すためである。
『無理ね。リュニスと戦争でも起こさない限り、アノリア防衛のための船は出せないわよ』
あるいは――。
ロヤントは真っ赤な紅を引いた唇をわずかに開いて冷酷に呟いた。
『あなたが、エルシーア海軍統括将になるか。そうすれば国王陛下へ直訴できる』
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