5-58 アノリアの隣人

 夕刻を告げる日の光が宿屋の窓から射し込み部屋を赤く染めていた。


「門限があるんだ。そろそろいかないと」


 そう言って椅子から立ち上がるシャインをヴィズルは黙ったまま見上げた。


「アドビスに、他に言うことはないのか?」


「今の所はこれだけだよ。ただ……できればバーミリオン皇子の許婚の事を、そっちでも調べてくれるように言ってくれないか」


「わかった」


 ヴィズルは言葉少なく返事をした。


 ――シャインの奴、心ここにあらずといったかんじだな。


 シャインの目は急かされるように、宿屋の窓の外をうかがっている。

 時刻を確かめるように日の角度を測り、日除けのための白い布を被り直す。


「ヴィズル、父へ報告するのにどれくらいかかりそうだい?」

「心配するな。すぐ始める」

「……始めるって?」


 やれやれ。

 ヴィズルは椅子に腰掛けたまま溜息を吐いた。


「お前、俺が協力者で本当によかったと思えよ? 普通の「人間」は、リュニスから船に乗ってアスラトルまで十日かかって戻らなくてはならない。でも俺は「術者」だ。そして、お前の綺麗な叔母さん――リオーネさんもまた優れた術者だ。俺達はお互いの想いを言葉にして伝えることができる」


「あっ……! そ、そうだった。リオーネさんは風を操る術者故に、エルシーア海軍で『海原の司』を務めていた。『海原の司』同士が、遠く離れた相手に言葉を伝えることができるのは、術者だからなんだね」


「お前、今頃それに気付いたのかよ。アドビスが俺を選んだのはまさにそのためだ。ちょっと考えたらすぐわかることだろーが」

「……」


 シャインは恥ずかしさのせいか眉間をしかめて唇を震わせている。

 つくづくおめでたい奴だと思う。

 だからこそ、ここで釘を刺しておかなければならない。

 ヴィズルはぎしっと音を立てて椅子から立ち上がった。

 部屋の扉の前に立つシャインの所へ歩み寄る。


「シャイン。今日はリュニスの宮殿に戻れ。ロワールのことは俺がみているから心配するな」


「――ヴィズル。いや、それは」


 顔を上げたシャインは射るような視線でヴィズルを睨めつけた。

 その真剣な眼差しを見るまでもない。

 やはりこいつはここを出たら、ロワールの所に行こうと思っているのだ。


「今日はやめておけ。なにもかも上手くいきすぎることを警戒しろ。俺だったらそうする」

「しかし……」


 シャインの青緑の瞳にはロワールへの想いと、やはり彼女の元へ行くのをやめるべきか、迷いの感情が交錯している。ヴィズルはシャインの肩をつかんでこちらへと向かせた。


「お前の悪い所を俺は知っている。人の善意を安易に信じすぎることだ。冷静になれ、シャイン。お前が生きているかぎりロワールは消えやしないんだよ! いいかえれば、お前が死んじまったらロワールも消えちまうんだ。この仕事が済んだら嫌でもずっと一緒にいられる。それまでは俺がお前の代わりに彼女を守る。だから今回は素直に俺の言うことをきけ! なっ?」


 シャインは黙ったまま唇を噛みしめていた。

 ぐっと拳を作る両手が小さく震えている。


「……俺は」


 ヴィズルから視線をそらし、シャインが肩で息をつく。

 まるで身を切られるような痛みを堪えるかのように。


「……わかった。今日はこのまま宮殿に帰る」

「――よし」


 ヴィズルは押さえつけるように力を込めていた自分の手をシャインの肩から離した。


「くれぐれも馬鹿な事をするんじゃねぇぞ。宮殿でも自重しろよ。アドビスから指示があれば、ツウェリツーチェを兵舎に飛ばす。教えた指笛で彼女を呼べ」

「ああ」


 ヴィズルはシャインの意気消沈する様を苦々しい思いで眺めた。

 他人に胸の内を絶対に見せないくせに、ロワールに対する想いだけはあけすけなのだ。


「じゃ、もう行くよ」

「ああ」


 扉の取っ手に手をかけ、シャインが部屋から出ていった。

 ヴィズルはそれを見送ってから、やおら扉に錠を下した。

 早速念話でリオーネと連絡を取り、アドビスに状況を報告するためである。

 術の行使中は誰にも邪魔されるわけにはいかない。


 そろそろこの店も一階の酒場が開店する時間で騒がしくなる。

 ヴィズルは扉に背中を預けるようにしてその場に腰を下ろした。

 胡坐を組んで目を閉じる。

 心を落ち着かせ、始めは小さく、そしてゆっくりとリオーネを呼び出す言葉を胸の中で呟いた。




 ◇◇◇




 リオーネからの火急の手紙をアドビスは海軍省の自室で受け取った。

 日没から一時間が過ぎた19時のことだった。

 その内容を頭に叩き込み、アドビスは手紙をランプの炎にかざした。貪欲な炎が手紙を瞬く間に白い灰の塊へと変えていく。それを暖炉に放り込み、燃え尽きるのを最後まで見届けてから、アドビスはリオーネへの返信をしたためた。


「これをグラヴェール屋敷のリオーネ嬢へ届けてくれ」

「かしこまりました」


 執務室の外で待たせていた士官候補生の少年に手紙を預け、アドビスは急ぎ、アリスティド統括将の部屋へと歩き出した。



  ◇



 今宵のエルシーア海軍本部は、いわくある来客のせいでぴりぴりとした空気が漂っている。

 現参謀司令官ノイエ・ダールベルクの父親でもある、アノリア領主ダールベルク伯爵が、アリスティド統括将を訪ねてきたからだ。


 アリスティド統括将は、ノイエを含め、エルシャン=シー・ロード(六卿)の面々と、自分の補佐官であるアドビスを自室に呼び、伯爵自らの口からアノリアをリュニスに奪われた顛末てんまつを聴いたのだった。


「奴らは三隻の軍艦に兵士を乗せ、西の港からアノリアを襲撃した。逃げ惑うアノリアの領民を容赦なく剣で切りつけ殺害し、私の屋敷へ攻め込んできたのだ」


 ダールベルク伯爵は息子でもあるノイエを一瞥し、疲れきった表情で、アドビス達の顔を見回した。


「私には陛下から賜ったアノリアの地と領民を守る義務があった。それ故にリュニス人とのいざこざを起こさぬように、彼らに便宜を図り希望するものにはこの地へ住まうことも許しておったのです。

 けれどあの者たちは、アノリアに住むのがさも当然といわんばかりに、町中で自由奔放に振舞うようになりました。酒を飲んで大声で暴れたり、密輸品の麻薬を我が領民へ配って堕落させたり、挙句の果てに、我が領民――特に子供を攫って奴隷商人に売りつけるようにもなった!

 それを知った私と息子のノイエは、我がダールベルク家の私兵だけでアノリアの治安を保つのには、限界を感じていたのです。ですから……」


 ダールベルク伯爵は部屋の上座に座る、アリスティド統括将へ厳しい眼差しをくれた。


「何度閣下に海軍の船を寄越してもらえないかと要請したが、あなたはそれを一切無視された。アノリアがエルシーア南端の要所であるのは、よくご存知であったはず」


「……閣下は無視をしていたわけではない」


 アリスティド統括将が口を開く前にそう答えたのは、六卿の中でリーダー格の総務部の長――トリニティ中将だ。

 ダールベルク伯爵は椅子に腰掛け両腕を巻きつけるようにしていた。

 感情までもじっと抑え込もうとしているように。


「私には無視されたとしか思えん」

「ダールベルク伯爵。閣下は確かにアノリアの防衛をダールベルク家に任されていた。それは貴家とリュニスの間柄が友好関係にあったからだ」

「しかし」


 トリニティは自慢の口髭をしごきながら、ダールベルク伯爵を諌めるように静かに口を開いた。


「アノリアでリュニス人が治安を乱す存在であったとしても、その程度でエルシーア海軍が軍艦を派遣したらどうなると思う? 余計リュニスを刺激し、彼等もまたアノリアへ警戒の目を向けるであろう」


「トリニティ中将。私はそうは思いません」


 口を挟んだのは、若き参謀司令官のノイエだ。


「いつからエルシーアはリュニスの顔色を伺うようになったのです? アノリアはエルシーアの領土です。リュニス人がアノリアに住み着いているのは、遥か昔、エルシーア大陸とリュニスの島々が繋がっていた、その時の名残り、ただそれだけです。彼らが穏やかな隣人であるうちはまだよかった。けれど今は父が言うようにそうではない。あいまいな態度がリュニス人をつけあがらせ、今回のような暴挙に出る結果を招いたのです! だから、抑止力としてエルシーアの軍艦をアノリアに常駐させるべきだったのです」


 ノイエはアリスティド統括将、ただ一人に氷のような視線を向けた。


「報告書はすでにご覧になられていると思いますが、推定三百人のアノリア領民がリュニス軍の襲撃で死傷しました。我がダールベルク家の私兵は二百名たらずで、父を守り隣町のアノリスまでたどりついた者はわずか十名。街と領民を守って残った他の者の消息は未だ不明です。アリスティド統括将、あなたは本当に我が父や私の嘆願書に目を通して下さっていたのか、否か、その回答をいただきたい」


「――ダールベルク参謀司令。今回の結果は非常に遺憾に思うが、それをすべてアリスティド閣下の責任にされるというのはいかがなものか」


「何っ――」


 ややかすれがかった、それでいて重厚感のある声が、ノイエの神経を逆なでするように響いた。アリスティド統括将の右隣に腰を下ろす、軍艦のマストの様に背の高い黒服の大男――。

 足を組んで腰を下ろし、その両手は金色の鷹を柄にあしらった杖の上に載せられている。


 控え目な態度を醸しながら、それでいて、ノイエを見据える青灰色の瞳は絶対的な存在感を、圧力を周囲の人間に与えている。


 ノイエは震える唇を噛みしめ、何故この男がこのタイミングで声を発したのか、ただそれだけで怒りを覚えた。アリスティド統括将へ向けた氷の視線に、憎悪の感情が交じるのを意識しながら、声を発したあの男を睨みつける。


「あなたの過去の軍歴に免じて、一度だけ今の無礼な発言を許しましょう。グラヴェール補佐官」


 場の空気が瞬時に凍りつく。息をするのも憚れるような静寂が会議室を包んだ。

 だがアドビス・グラヴェールはにこりともせず、かといって怒るわけもなく、ただすました顔でノイエを見返している。やがて静まり返った部屋に、低くくぐもった笑い声が響いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る