5-40 リュニスの皇子

 先程の船体に多くの櫂を配備した船とは違い、エルシーアの4等級以上の大きさと思われる軍艦。軍艦だとわかったのは、船尾にリュニスの黒と金の国旗が靡いているのが見えたからだ。


 きっとあれはリュニス本島の警備船に違いない。黒い船体には大砲を装備しているのだろう。ロワールハイネス号に向けた左舷側の砲門蓋が一斉に開くのが見えた。


<何!? 何よ、あの船!>


 ロワールが驚きの声を上げた。

 シャインは軍艦に向かってロワールハイネス号を直進させていた。


<ちょっとシャイン! どうしてあの船に向かっていくの? このままじゃ私、船首から船尾まで一直線に砲撃を受けちゃうわよ!>


<いいんだ。俺に任せてくれ>


<任せろって……それより、あの船と私がぶつかっちゃうわ!>


 シャインは近付く軍艦を見つめながらロワールハイネス号を構わず直進させた。黒光りする大砲がつぎつぎと砲身を押し出され、ロワールハイネス号に狙いを定める。ぱっと大砲の口から白煙が舞い上がった。


 ロワールハイネス号のメインマスト中央の突端で見張りをしているヴィズルの愛鳥『ツウェリツーチェ』が、一言笑うようにクークー鳴いた。


 砲弾はロワールハイネス号のメインマストをやすやすと超えて、ずっと後ろの白い航跡が道のようになびいている海面に着水した。


<次は距離と角度を合わせてくるかな。リュニスの砲手の腕が、イマイチだったらありがたいんだけど>

<ちょ、ちょっとシャイン! 何、呑気な事を言ってるのよ!>


 ロワールは怒りのあまり頬を真っ赤にしていた。


<あれを喰らっただけで私は航行不能になるわよ。わかってるでしょ!>


 再びリュニスの軍艦の大砲が火と煙を吐いた。


<きゃーっ!>


 たまらずロワールがシャインの足元にしゃがみこんだ。

 ロワールハイネス号を包囲するように数十発の砲弾が海に落ちて、マストの高さを遥かに超える水柱が吹き上がる。


 それは崩れながら雨のようにロワールハイネス号に降り注いだ。

 容赦なく目にかかる飛沫を袖で拭ってシャインは顔を上げた。


 リュニスの軍艦は目の前だ。

 いや、正確には、槍のように突き出した船首部バウスプリット――船の鼻面を掠めるように、衝突する寸前でロワールハイネス号は横切ったのだ。


 その時シャインは、リュニスの黒い軍艦の船首に掲げられた金色の船首像を見上げた。それは長い髪の女性像で、目元は前髪で隠れていて見えないが、その薄い笑みをたたえた口元にはどこかで見覚えがあるような気がした。


『……ストレーシア?』

 

<シャイン! ちょっと! 誰よその女>


 シャインはぎゅっと腕をつねられる強烈な痛みに我に返った。


「痛い!」


 咄嗟に使用禁止のエルシーア語で叫ぶ。


<何するんだ。ロワール。そんなことより帆を回してくれ。東に展開して逃げるから――>


 シャインはリュニスの軍艦の鼻先を躱し、ロワールハイネス号を東に進ませて逃げるつもりだった。リュニスの軍艦はシャインを追うために180度方向転換をしなくてはならない。


<嫌! もう、こんなの嫌ったら、嫌!>

<おい、ロワール……?>


 シャインはロワールハイネス号の全ての帆が、ぱたぱたと耳障りな音を立てて風を逃がしている事に驚愕した。船足が一気に落ちる。

 ロワールは甲板に座り込んだまま、頬をふくらませて、ふん、とシャインから顔を背けている。


<ロワール?>


 シャインは背後から迫るリュニスの軍艦を気にしながら、役に立たない舵輪から手を放した。そのまま甲板に座り込んだロワールに話し掛ける。


<急にどうしたんだ。早く船を進ませてくれ。リュニスの軍艦は向きを変えたぞ>

<……知らない>

<知らないって……!>


 ロワールはおもむろに立ち上がり、長い紅髪を揺らしながらシャインを睨み付けた。


<シャインがあの女ストレーシアの事を話してくれるまで、私、あなたとは口きかない>

<……>


 その時ロワールハイネス号の甲板に影が落ちた。

 シャインは立ち上がった。

 リュニスの軍艦がロワールハイネス号に横付けせんと近付いていた。

 甲板には黒と銀の刺繍で飾られた軍服を纏ったリュニス人が何人も銃を構えてシャインに狙いを定めている。


<国旗を上げていないが、どこの国の船だ?>


 他の軍人と違って、軍服に紫のマントを纏った金髪の男が誰何すいかしてきた。

 初めて聞く本場のリュニス語。

 男が早口だったせいもあり、シャインは全てをききとれなかった。


<……どこの国の船かって聞いてるわ>


 相変わらずシャインに背中を向けているロワールが、機嫌悪そうに呟いた。


<あなたがこの船の艦長ですか?>


 シャインは練習していたリュニス語で答えた。


<先に訊ねているのはこっちだ。まあいい。どのみちここはリュニスの領海。お前が誰であっても、許可なく侵入したことにかわりはない>


 金髪の男はふっと不敵な笑みを浮かべ、後方に控えている副官らしき男に何事かを命じた。



 ◇◇◇



 シャインはリュニスの軍艦に連行された。

 ロワールハイネス号には黒服のリュニスの軍人が乗り込み、何やら船内を捜索している。


 シャインは両脇からリュニスの軍人に腕をつかまれ、先程誰何してきたこの船の指揮官らしき金髪の男の前に連れていかれた。生温い海風が男の紫苑のマントを気だるくはためかせている。


<跪け。リュニス皇子バーミリオン様の御前だ>


 腕を掴む軍人に引っ張られて、やむを得ずシャインはその場に膝をついた。


<顔を上げていいぞ。いや、さっきは実に面白いだった>


 シャインを見るなり、皇子バーミリオンはそう言った。

 年の頃はシャインより一つか二つ程年上と見受けられる、目鼻立ちのはっきりした、気の強そうな青年だ。ふさふさとした、肩甲骨までかかる金色の髪に、その額には髪以上に眩い輝きを放つ黄金の飾輪サークレットがはめられている。皇子は他の軍人達と同じように黒い軍服を纏っていたが、紫苑のマントを着ているのは彼だけのようだ。


<私の乗艦する『青の女王』号と知っていて、あんな真似をしたとは思わないが>


 シャインはリュニスの皇子の言葉にすぐ反応する事ができなかった。

 知らないリュニス語の単語のせいで、彼が何と言っているのか理解できない。


<さっきから黙っているが、そのまま黙っているなら、話すための強行手段に出るぞ?>


 シャインは皇子バーミリオンが腰に帯びた剣に手をかけるのをみて、咄嗟にエルシーア語で答えた。


「俺はエルシーア国の交易商人です。許可書は船長室の机の引き出しの中にあります」


 バーミリオンは一瞬戸惑ったように、新緑の色をした瞳を見開いた。

 皇子の側に、大柄な体格の黒髪の男が駆け寄り何やら耳打ちした。


「なるほど。エルシーア人だったのか。少しリュニス語を話していたと思ったが」


 バーミリオンが流暢なエルシーア語で答えた。


「日常会話程度しかリュニス語は話せません。恐れながら、皇子殿下がエルシーア語が堪能なご様子で安心しました」


 ふっとバーミリオンが唇を歪めた。


「いつかエルシーアを我がリュニス群島国の属国たらしめた時に必要になる」


 シャインはバーミリオンの言葉に身体を強ばらせた。


「……というのは建前で、エルシーア語は帝王学の一つにすぎん。そんなことよりも、まずはお前の事をきこうか。名前はなんという?」

「シャイン・グラヴェールと申します」


 シャインは躊躇する事なく本名を名乗った。バーミリオンの金色の眉が意味ありげにつり上がる。


「ほう。お前はなのか」

「家名持ち……? それは、どういうことでしょうか?」


 シャインはバーミリオンの言う意味が一瞬わからなかった。

 バーミリオンはおかしそうに小さく笑うと首を振った。


「お前の名は?」


 シャインは少しむっとして答えた。


「シャインです」

「じゃ、それがお前の『名前』だ。リュニスで『家名』を名乗れるのは貴族と一部の特権階級の者のみだからな」


<サセッティ隊長!>


 後方からリュニスの軍人が一人、手に見覚えのある包みを手にしてこちらへやってきた。


<サセッティ、受け取ってこい>

<はっ>


 バーミリオンの隣に控えていた大柄の軍人が、白灰色のマントをひらめかせて駈けていった。

 やがて彼はバーミリオンに例の包みを手渡した。それは防水のために油紙に幾重にも包まれている。バーミリオンは油紙を甲板に落とし、中に入っていた数枚の紙切れを掴んだ。


「……シャインといったか」


 バーミリオンがエルシーア語でつぶやいた。


「はい」


 バーミリオンは手にしていた紙をシャインに向けて見せた。


「これはエルシーアの軍艦の設計図ではないのか? お前は武器商人なのか? そのくせ船内には積荷がなく、これしかめぼしい商品がないみたいだが」


 シャインは沈黙を保ったままバーミリオンを見上げた。


「仰る通り、それはエルシーアの一等軍艦『アストリッド』号の設計図です。しかし俺は武器商人ではありません」

「では何故お前がこんな……軍事機密の書類を持っている?」


 シャインはひたとバーミリオンを見据えた。

 ひやりとした、けれどはっきりとした口調で答える。


「それは、俺の目的がリュニスへの『亡命』だからです」

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