5-41 試合

 バーミリオンのくっきりとした金の眉がぴくりと動いた。


だと? お前はエルシーアで何をしたのだ?」


 シャインは目を伏せ静かに首を振った。


「ここでは申せません。リュニス皇帝陛下に目通りし、俺の望みが叶いましたら、皇子殿下にお話することもできましょう」


「……」


<バーミオリン皇子。この者の話を鵜呑みにされませんように。その証拠に彼の船には誰も乗っておりませんでした。それで我が『青の女王』号の目の前をすりぬけたのですから、ただ者ではありません。エルシーアの間者やもしれません>


 バーミリオンの隣にたたずむ大柄な男――リュニス皇子直属の近衛兵隊長サセッティが低い声で囁いた。バーミリオンは不意に胸の前で組んでいた両手を解いた。


「ますますもって面白くなってきたな。丁度退屈していた所だ。サセッティ、ちょっとお前の剣を貸せ」

<えっ、あ、皇子!>


 バーミリオンは流れるような仕種で、隣にたたずむ近衛兵隊長の腰から剣を抜いた。手首でくるりと回し剣を逆手に持ち替える。


「シャイン。お前が私と『試合』をして、勝ったらリュニス皇帝に会わせてやろう」


 シャインはバーミリオンの手に握られた剣の光に目を細めた。


「ご冗談を。俺はしがない商人です。出所は明かせませんが、あの設計図は信用ある所から譲り受けたアストリッド号の正確な写しです。どうか、リュニスに亡命できるよう、陛下にお取り次ぎを……」


「お前は私と対等な立場にいるわけではないぞ!」


 バーミリオンは新緑の瞳を険しく光らせた。物言いに粗野な所はないが、相手を威圧する気に満ち満ちていた。


「ここは『リュニス』だ。素性の知れないエルシーア人は、拘束して奴隷にされるのが普通なのだぞ!」

「バーミリオン、皇子」


 バーミリオンが右手に握った近衛兵隊長の剣をシャインに向かって投げた。

 シャインは自分の腕を掴んでいたリュニスの軍人がそれを放すのを感じ、咄嗟に右手で柄を掴んだ。そしてバーミリオンの顔に『やはりな』といわんばかりの笑みが浮かぶのを見た。


 それが試合のだった。

 シャインが剣を持ち直したのと同時に、バーミリオンの鋭い突きが放たれた。咄嗟に身体を捻るが、閃いた剣の軌跡はシャインの左腕をかすめ、一陣の風のように通り過ぎた。


「……まず一本」


 シャインは切り裂かれた左腕のシャツの袖が、肩の部分でだらりと垂れ下がるのを一瞥いちべつした。


「よそ見をする暇はないぞ」


 再びバーミリオンが斬り掛かってきた。剣を振るう風圧だけで気押されるほどの気迫を感じる。彼の顔には余裕があり、穏やかな笑みを浮かべているのに。


 バーミリオンの剣は剛胆そうな彼の性格とは反対に、繊細な刃を持つ細剣レイピアだった。鳥が舞うように彼の動きは素早く、蜂が針で刺すかのように、確実にシャインの攻撃の間をぬって突きを入れてくる。


 バーミリオンはかなりの手練だ。幼い時からそこそこの研鑽を積んだシャインだが、これほどの相手に出会ったのはヴィズル以来かもしれない。


「どうした。防戦一方ではないか? それではリュニス皇帝に会う事はできないぞ?」


 周囲ではバーミリオンを応援するリュニスの軍人達が、時折歓声をあげながらシャインと皇子の試合を見ている。


<ああ惜しい! 皇子の突きがまた躱された>

<なかなかあのエルシーア人、やるじゃないか>

<でももうあまり長くはもつまい。足元がふらついてる>


 バーミリオンに攻撃を躱され、シャインは軍艦の最後尾のマストに追い詰められる形になった。今までの不摂生もたたって、シャインは大きく息を乱していた。


 まさかリュニスで剣を振り回すことになろうとは。

 バーミリオンに最初に斬り付けられた左腕から血が流れているせいか、袖が濡れぼそっていて重い。


「これで終わりなのか? 私を失望させないでくれ」


 マストに思わず背中を預け、シャインはひっそりと笑ってみせた。額から流れ落ちた汗が目の中に入って滲みた。右手をあげてそれを拭う。


「勿論、負けるつもりはないですよ」


 バーミリオンが嬉しそうに目を輝かせた。


「そうこなくては」


 シャインはバーミリオンに向かって斬り付けた。けれどそれはもう幾度も剣を合わせた彼には通じない。やすやすとバーミリオンはシャインの剣を受け止め、それを振り払おうと剣を絡めようとした。


 その時シャインは、左腕をバーミリオンに突き出した。

 正確には、その左手には、帆の上げ綱を巻きとめるための木製の棒ビレイピンが握られていた。

マストに背中を預けた時シャインは左手を回して、それを抜き取っていたのだ。

 シャインの握りしめた棒はバーミリオンの右脇腹をしたたかに打ち据えた。


「……つっ!」


 流石にひるんだバーミリオンの気品ある顔は屈辱と痛みのせいで引きつっていた。


「剣の試合に卑怯だぞ!」

「利用できるものは、何でも利用します」


 その言葉通りシャインは、左手に握りしめていた棒をバーミリオンに向かって投げた。


「卑怯……な!」


 怒りと共にバーミリオンが棒を避けて、シャインに必殺の突きを入れようと身構える。けれどその腕が突き出される前に伸びてきたのは。


 シャインの長靴ブーツがバーミリオンの剣をその手から蹴り飛ばす。

 剣は弧を描いて、後方の甲板に突き刺さった。

 周囲で皇子とシャインの試合を見ていた軍人達がどよめきの声をあげた。


<よし。そこまでだ!>


 背の高い近衛兵隊長サセッティが、甲板に膝をついたバーミリオンの側に駆け寄った。


<皇子、大丈夫だと思いますが。ここで試合は一旦中止に>


 バーミリオンは助け起こそうと手を伸ばしたサセッティのそれを振り払った。

 そして敗北の悔しさに顔を青ざめさせながらつぶやいた。


「……お前、やはりではないな」


 シャインもまた息をついて、なんとかその場に立っていた。


<あの者を拘束しろ>


 サセッティの命令で再びシャインの両腕をリュニスの軍人が掴んだ。シャインはサセッティの剣をリュニスの軍人に手渡した。シャインが苦戦を強いられたのは、使い慣れない幅広の剣の重さのせいでもあった。


 バーミリオンに斬り付けられた左腕が掴まれた事で痛んだ。呼吸を整え、シャインはリュニスの皇子に頭を垂れた。


「バーミリオン皇子。試合での無礼、お許し下さい。けれど、あなたはでの試合だと最初に仰らなかった」


 立ち上がったバーミリオンは苦々しい表情で「そうだった」と呟いた。


「お前の勝ちだ。シャイン」

「ありがとうございます。では、皇帝陛下のお目通りをお許しいただけるのですね」

「約束だったからな。やむを得まい」


 バーミリオンは渋々そう答えた。


「だがな、シャイン」


 バーミリオンは甲板から立ち去る気配を見せた。


「バーミリオン皇子?」

「お前が商人ではないことが、この試合でよくわかった。それだけの武術を持つ者を、おいそれと陛下の御前に行かせるわけにはいかん」


 立ち去りながらバーミリオンはちらりとシャインを一瞥した。


<サセッティ。この者を船倉に入れておけ>


 バーミリオンが言ったリュニス語はシャインにもわかった。


「バーミリオン皇子!」


 紫苑のマントを翻したリュニスの皇子は、そのままマストの後方にある開口部から下の甲板に降りて姿を消した。




 ◇◇◇




あの者シャインのことをどう思うか? サセッティ?」


 『青の女王』号の船尾にある自室で、バーミリオンは世継ぎの証である紫苑のマントと軍服の上着を脱ぎ捨てて、従者に注がせた冷たい水に喉を潤した。

 身体を動かして汗をかいた後は、ひとつまみの粗塩とティムという柑橘類の果汁を混ぜた冷たい水を飲むことにしているのだ。


「それよりもバーミリオン様、お怪我は?」

「あるわけがなかろう。馬鹿者」


 部屋の入口に控える近衛兵隊長サセッティに一喝しながら、バーミリオンは水が入ったグラスを持つ己の指に舌打ちした。そこには明らかにシャインの攻撃を受けたせいでできた、赤いみみずばれが二ケ所あることに気付いたのだ。


「従者に軟膏を取りにいかせます」

「不要だ。それにしても……ただの商人があんな剣技を身につける必要があるのか?」

「恐れながら皇子。あの者は商人ではありますまい」

「そんなことはわかっている。問題は、何をしに我が国に来たということだ」

「本人は亡命、と申しておりましたが」

「しかも、あの者の乗っていた船には乗組員が一人もいなかったというが、本当なのか?」

「強いていえば、クークー鳴くが一羽」

「私を馬鹿にしているのか? サセッティ!」


 近衛兵隊長は大柄な身体を恐縮そうにすくめて首を振った。


「いえ。私は事実を報告しているだけです。バーミリオン様」


 バーミリオンは急に疲れを覚えて長椅子に身体を預けた。

 肘掛けに腕をのせると、心地よい眠気を感じた。


「多分あの者はエルシーアの軍人――きっと海軍の軍人だろう。あの設計図は写しだと言っていたが、本物と同じ程精巧なものであった。きっと紛失時に備え複数枚作られた写しの一つを持ち出したに違いない。サセッティ」


 半ば目を閉じながらバーミリオンは近衛兵隊長に耳打ちした。


「私は陛下にこの事を御報告する。それまではあの者を、『青の女王』号から下ろすではないぞ」

「はっ」

「では港に向かえ。そう、あの者が乗っていた船も一緒に持って帰るのだ。何の変哲もない船だが、乗組員がいないのに、我が『青の女王』号の砲弾を避け鼻先を横切った怪しい船だ。その秘密も聞き出さねばなるまい……」


 バーミリオンは頬杖をつきながら、ゆっくりと目蓋を閉じた。

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