5-39 別れ。そして邂逅

 幸い今朝は天気がよく波も穏やかだ。エルシーア大陸南端まで続く海流に乗ったのか、やや勢いのなくなった風のわりに、ロワールハイネス号は一定の速度を保ったまま海原を走っている。


 もっとも何か異常があったらロワールが気付いてくれる。

 正直彼女にいつも甘えてばかりで申し訳ないが。


「じゃ、私が手伝ってあげる」


 シャインの考えを察したように、何時の間にか隣には紅髪を靡かせたロワールがたたずんでいた。


「手伝うって……ロワール、君だってリュニス語はわからないだろう?」


「でも私はリュニスの船に宿る精霊――いや、世界中の『船の精霊レイディ』と話ができるわ。ちょっとその本見せてよ」

「あ、ロワール」


 ロワールはシャインの手からリオーネの覚え書きを取り上げた。


「どれどれー? うん、うん。はいはい……そうねー。ふうん!」


 本を持って甲板をロワールが歩く。

 どうせ彼女には読めやしない。

 国籍の違う船の精霊と会話ができるのは、彼女達は言葉ではなく心で交流をはかるせいなのだ。多分。


「あっ、ひどいわーシャインったら。私がリュニス語を読めないって思ってる」


 今まさにそれを考えていたシャインは、ロワールの声にぶるっと体を震わせた。


「いやだってそうだろう?」

<そんなことないわ。私達はどの国の言葉だって操れるんだから!>


 ロワールが少なくともエルシーア語ではない『なにか』を話した。

 シャインはそれに目を丸くした。


「今、何を言ったんだ?」


 ロワールはふふんと小悪魔のような笑みを浮かべながら、黙ってリオーネの覚え書きをシャインに返した。


<今日からエルシーア語は禁止にしましょう>


 ロワールは自分の口の動きがよくわかるように、ゆっくりとシャインに向かって話した。そのしぐさには何か懐かしいものを感じる。


 シャインはふと自分がまだ十才ぐらいの子供の頃を思い出した。

 シャインの勉強を見てくれたのは、育ての親でもあるリオーネだった。


 リオーネが故郷――リュニスの属国である、とある島のことを話し、もしもシャインが大きくなってアドビスのように海に出るなら、他の国の言葉も話せたら便利だと、そんなことを言っていたような気がする。


<どうして君はリュニス語を話せるんだ?>


 ロワールが「おっ?」というようにシャインの顔を覗き込む。


<あら。私は船の精霊よ。人種も言葉も関係ないわ。強いて言えば、私に乗る人に合わせて言葉も合わせているだけかしら。多分。だから私にとっては、エルシーア語で話そうがリュニス語で話そうが、どちらも同じ事なのかも>


「ふうん……」


 シャインはリオーネの覚え書きを開き、軽く溜息をついた。


<じゃどうしても読めないリュニス語があったら、君に読んでもらえばいいんだ>

<あら。あなた、結構話せてるじゃない?>


<ちょっとリオーネさんに教えてもらった事を思い出した。基本、文法はエルシーア語とあまり変わらないんだ。本当かい? リュニス語はエルシーア語と良く似た言葉が多いんだが、なんかごちゃごちゃして自分でも何を言っているのかわからなくなるんだ>


「うん。今の言葉、順序がおかしかったわ」

「……」


 シャインは溜息をついて、心の底からロワールを羨ましく感じた。


<いいよ。今から俺と君の会話をリュニス語の限定にしてくれ>

<あら今の言葉もおかしいわね。わかったわ。私がシャインの先生になったげる>


 ロワールは嬉しそうにシャインの腕に体を擦り寄せた。


<人の気も知らないで。すごく嬉しそうだな。ロワール?>

<だって。私ができることって、とても限られてるじゃない? だからシャインの力になれることが一つ増えたことが、とっても嬉しいのよ~>



 ◇◇◇



 それから三日後。

 ロワールハイネス号は緩やかな弧を描いた湾に、櫛の目のように伸びた桟橋がいくつも突き出ているアノリア港内に錨を下ろしていた。


 事前にヴィズルが『ツウェリツーチェ』に手紙を運ばせたせいで、日暮れ前に一隻の小さな小舟がロワールハイネス号へやってきた。


 小舟には薄紫のヴェールとストールを羽織った小柄な女性が一人だけ乗っており、彼女は器用に櫂を操ってロワールハイネス号の船腹にそれを横付けさせた。

 シャインとロワールは舷門げんもんの前でヴィズルを見送るために並んで立っていた。


「迎えが来たから降りるぜ。何かあったら『ツウェリツーチェ』を寄越せよ。じゃ、気をつけてなシャイン」


 おもむろにヴィズルが皮の手袋をはめた右手をシャインに伸ばした。

 シャインはそれをしっかり握りしめた。


「ああ。なんとかもぐり込めたら連絡するよ」

「待ってるからな」

「わかった」


 ヴィズルはシャインの顔を一瞥して、身の回りの品を詰めた帆布袋を肩にひっかけ、難なく舷梯げんていの板を足場にして、ロワールハイネス号から迎えに来た小舟に乗り込んだ。


「ヴィズルー、じゃあねー」


 ロワールが無邪気にヴィズルに向かって手を振った。

 ヴィズルは振り返り、ロワールに向かって片手を上げた。


 港に向かっていくヴィズルの乗った小舟はどんどん小さくなっていく。それが桟橋に着く所まで見守ってから、シャインは今までの航海の疲れをとるためと、潮待ちのためにしばし仮眠をとった。今夜1時の上げ潮に乗って、目的地であるリュニス国の皇宮がある本島へ向かうのだ。


 予定通り金と銀の兄弟月が天に昇る頃、ロワールハイネス号はアノリアを出港し、リュニスに向かって順調に南下を続けた。


 二日目が過ぎた頃だった。

 船尾で舵を取るシャインは、緑がかった青い水平線の彼方に船影を見つけた。同時にその船の後方に島らしきものが見えるのを。


<変わった形の帆……>


 舵を取るシャインの隣でロワールが声を漏らす。勿論、リュニス語で。

 シャインもそれを睨みながら黙ってうなずいた。


 前方に見える船はシャインの知るエルシーアの船とは違って、船体はもちろん、帆に大きな特徴があった。二本のマストを持つ大型船で、そこにそれぞれ掲げられている帆は船を包み込む事ができるほどの巨大な三角形の形をしている。


<エルシーアではもうほとんどみることのない旧い帆装の船だ。ご覧、虫の足のように船体に櫂がいくつもついてるだろう。あれを漕ぐことで、風がなくても船を進ませる事ができるんだ>


 ロワールの協力があったせいか、シャインのリュニス語は日常会話程度ならなんとかなるほど上達していた。ロワールの空を映す水色の瞳が不安げに瞬いた。


<そうね。でもシャイン、私達、あの船にみたいよ?>


 ロワールハイネス号は彼等から見て風上にいる。逃げようと思えば多分逃げられる。そうシャインが思った時、異国の船の突き出ていた櫂が一斉に海面を打ち白い飛沫が舞うのが見えた。


「馬鹿な。あっちは逆風のはずだ。こっちへ一直線に向かって来るぞ」

<シャイン。今、エルシーア語で言ったでしょ!>

<ちょっと驚いたから口走っただけだ。けどまずいな>


 ロワールのしかめっ面を目の端で一瞥し、シャインは唇を引きつらせた。


<風があるから邪魔な帆を畳んでいる。櫂で漕いでこっちに近付く気だ>

<どうするの?>

<ただでつかまるのは性にあわない>


 シャインは即座に舵を切り、南東へ針路を変えた。目指すリュニス本島から東へ遠ざかる針路になるが、取りあえずあの船から逃げ切りたい。


 無風ならロワールハイネス号は立ち往生し、櫓を漕いで船を進ませることができるあの船にやすやすと拿捕だほされることだろう。けれどロワールハイネス号にはそれなりの速度が出せる風が吹いている。全ての帆に余すことなく風をうけることができるよう、ロワールが自らの意思で船を動かしている。


<距離が離れていくわ。シャイン>


 ロワールの声にシャインは振り返った。

 ロワールハイネス号はエルシーア海軍の『使い走り』の中で快速を誇っていた。


 その足の早さは、人間が自ら彼女を動かすよりも、この船自身であるロワールの意思に委ねているせいか、風に対する帆の角度、張り具合、すべてが完璧に行われていた。


 シャインは知らず知らずのうちに唇に笑みを浮かべていた。舵輪を握っていなかったら興奮のあまり両手がぶるぶると震えていただろう。


<……よし、ちょっと見学といこうか>

<えっ、シャイン!?>


 シャインは再びロワールハイネス号の針路を変えた。青い空の彼方に見える細長い島――恐らく、そこがリュニス皇帝がいるリュニス郡島国の本島――に向かってロワールハイネス号を走らせた。


 後方のあの船が、今度は風の力も利用するのか、向きを変えて、再び巨大な三角帆を展帆てんぱんする。


<もう遅い。ここに彼等が来る頃には、俺達は島の反対側に回っている>


 シャインはさらにかの船と距離が離れた事に満足感を覚えた。その姿は親指の爪ぐらいの大きさになっている。これだけ離れれば、風が絶えない限り追いつかれる事はない。


 ただ、シャインは徐々に近付いてくる緑の細長い島――リュニス本島へ向かうかどうかためらっていた。あまり接近しすぎれば、島の影に入り、折角の風を失ってしまう。


 どこに船を着ければいいか。いや、もう少し様子を伺うべきか。

 なだらかな砂浜が続く海岸線を見つめていたシャインは、突如、島影から現れた黒い軍艦の存在に目を見開いた。



(注)リュニス語の会話の時は< >表示を今後使用します。

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