5-38 三人だけの航海
翌日の真夜中。ロワールハイネス号はアスラトルをひっそりと出港した。
シャインは舵輪を握りながら、徐々に小さくなっていくグラヴェール屋敷の裏手にある岬の陰を、一度だけ振り返った。
その姿をこの目で見る事はできなかったが、あそこにはアドビスとリオーネがいて、外海に出ていくロワールハイネス号を見送っている。見えなくともわかる。やや斜め後方から吹く風は、風を自在に操るリオーネが航海の安全を祈りながら呼んでくれた
「アノリアまでこの風が続いてくれたらありがたいんだけどな」
帆の調節を一人で終えたヴィズルが、流石に額に汗を浮かべて舵輪を握るシャインの元にやってきた。
ロワールハイネス号は三本マストの
「沿岸から離れたら何枚か
「そうだな。じゃ、俺は船首で見張りについてるぜ」
「頼む」
流れる銀髪をなびかせヴィズルはロワールハイネス号の船首甲板に行くと、鋭く突き出す槍のような
「またこの面子で航海に出るとは思わなかったわ」
耳元をくすぐるようなロワールの声が隣で聞こえた。
シャインは思わず微笑を浮かべた。
「ごめん。俺には人望がないから、未だ乗組員に恵まれないんだ」
隣に佇むロワールはシャインの言葉を否定しなかった。
いや、思いきりそれを肯定する。
「そうねー。一年前はたくさんいたのに、何時の間にかヴィズルしか残っていないんだもの。あなた、軍人あがりだから、どうしても他の乗組員と距離を置いている感じだったしね。でも私は、限り無くシャインと二人っきりでいられる方がうれしいんだけど、現実問題そうもいかないのよねー」
「そうだね。君と二人だけのほうが気楽だ」
シャインはふと本音を漏らした。
商船となったロワールハイネス号を動かすため、航海士や水夫を何人か雇ったが、彼等も慈善事業をしているわけではない。給金を払えない船長の元を次々と去っていった。
「本当はリュニスって所、行きたくないんでしょ?」
「えっ」
シャインは横波を躱すために舵輪を回した。
エルシーア大陸から十分に離れたわけではないが、外海に出たせいで波が荒くなってきた。
「仕方がないんだ。今の俺は、何があっても前に進むしかないんだ」
「シャイン」
ロワールには悪いが今のシャインにはおしゃべりをする余裕がない。
やはり風が少し強くなってきた。帆を調節しなければ船を制御できない。
前方を睨みながら、シャインはヴィズルが
彼も
「ロワール、少し舵を代わってくれないか? ヴィズルを手伝って帆を畳んでくる」
「わかったわ」
シャインは舵輪から離れ、船首の方へヴィズルの元へと走った。
◇◇◇
一夜明け、やや風の弱まったエルシーア海をロワールハイネス号は南下し続けていた。シャインとヴィズルは四時間交代で舵輪を握る。
風が変わったりしてどうしても帆の調整が必要な時だけ舵をロワールに任せ、それ以外は甲板に出ずっぱりである。
「おっ、朝メシか。うまそうじゃないか」
シャインは舵を取るヴィズルの隣に近付くと、軽くかまどの火であぶった丸パンに、野菜とハム、山羊のチーズをはさんだ朝食を手渡した。
右手に持つ陶器のマグには、温めた赤ワインが入っている。エルシーア南部の気候は常春だが、夜は冷え込む事もある。吹きっさらしの甲板で、夜通し舵輪を握りしめていたヴィズルが、物欲しそうにマグを見つめている。
「交代するよ、ヴィズル。食べたら少し眠ってくればいい」
「ああ。そうさせてもらう。お前、朝メシは?」
「先に済ませた」
「よし」
ヴィズルが舵輪を放し、シャインがその手にワインの入ったマグを手渡す。
ヴィズルはそれをすすりながら、丸パンにかじりつく。
「うう……生き返ったぜ。針路だが、エルシーア大陸から大分離れたと思うぜ。風が北北西から吹いてるから、ずっとやや南東寄りに船を進めてきた」
「わかった」
シャインはヴィズルのいう通りの風を頬に感じながら、この調子なら予定通り、明後日にはエルシーア大陸の最南端の境界を越えるだろうと思った。
「話は変わるけどよ、シャイン。船長室の机の引き出しの中を見たか?」
「ああ。あの人――いや、
「そうか。じゃ、俺がアノリアで下船することはわかったな」
「わかってる」
シャインの視線は船の前方――夜明けを迎えて白みゆく水平線の彼方に向けられていた。
「安心した」
「……何だって?」
いつも相手の言葉に疑問を返すのはシャインのほうだったが、今回はヴィズルが面喰らったように、口をぽかんと開けている。シャインは前方に顔を向けたまま言葉を続けた。
「ロワールハイネス号を置いてリュニスに行く事になったらどうしようかと思っていたから。だから、君を連絡係としてアノリアに下ろして、船ごとリュニスに行けという父の言葉に安心したんだ」
「そうかよ」
別のことを考えていたのだろうか。ヴィズルの返事は落胆めいていた。
「シャイン。ちょっとお前に紹介するのを忘れてたんだが」
「えっ?」
ヴィズルが不意に白んでいく上空を見上げ、右手の親指と人差し指で輪を作るとそれを口にくわえた。指笛を吹いたというのはわかったが、シャインの耳にその音は捉えられなかった。
ヴィズルの指笛は人間の耳には聞こえない、高い周波数のものらしい。
指笛を吹き終わったヴィズルは、肩と水平になるように右腕を伸ばした。
その時、ロワールハイネス号の甲板に影が踊り、上空から何かが舞い降りてきた。羽音が聞こえたかと思うと、ヴィズルの右腕には一羽の鳥が止まっていた。
首が長く白っぽい中型の鳥で、その翼の先端から半ばまでは、鮮やかな朱鷺色に染まっている。鳥はヴィズルによく懐いているらしく、円らな黒い瞳を星のように光らせて、長い首を伸ばすと彼の頬に甘えるように頭をすりよせた。
「こいつは俺の相棒の『ツウェリツーチェ』だ。もう十年以上の付き合いになる」
クークー鳴く鳥が不意にシャインの方に顔を向けた。
じっと、何か訴えるように見つめてくるような気がして、シャインは一瞬鳥の目に釘付けになった。
「あまり昔の話はしたくないが、一年前。ツヴァイスと組んでいた時にも、こいつを伝書鳥として使っていた」
「……」
ヴィズルは『ツウェリツーチェ』にパンの欠片――朝食の残りを与えて、再び彼女を(そう、彼女はヴィズルより遥かに年上のお嬢さんなのだ)空へ放った。
鳥はロワールハイネス号のメインマストの先端に再び舞い降りた。
そのまま、見張り役は任せろといわんばかりに、風見鶏よろしくそこにたたずんでいる。
「あいつをお前に張り付かせておくから、何か報せたいことがあったら使ってくれ。実はアスラトルに戻った時からお前の顔を覚えさせて、ずっと張り付かせていたんだけどな。それに、リュニス本島からアノリアまでの距離ぐらいなら一日で飛ぶ。通信管を足につけておくし、簡単な単語なら覚え込ませる事も可能だ。ただ、あいつを呼ぶには指笛しかない。次の交代の時に教えるからできるようになれよ?」
「ヴィズル。ありがとう」
「何、礼には及ばないさ。じゃ、ちょっと寝てくるぜ」
「ああ」
片手を上げ、上機嫌で甲板を去るヴィズルの背中をシャインは黙って見送りながら、船長室の机の引き出しの中にあった、アドビスの手紙の内容を思い出していた。
ロワールハイネス号の舵輪をどっちが先に握るかという事で、硬貨の裏表を当てる賭けにシャインが勝ち、船室に降りる際にヴィズルがアドビスの手紙を引き出しの中に入れたと言ったのだ。
もう燃やしてしまった手紙の内容は簡潔に、シャインがしなくてはならないいくつかの事項と、ヴィズルが連絡係として、後日商船を装ってリュニスの港に立ち寄る事が書かれていた。
引き出しの中には防水のために油紙で包まれた書類も入っていた。シャインはその包みを開き、それが船の設計図であることに感嘆を覚えながらしばしそれに見入った。ホープ船匠のサインの入ったそれは、かつてノーブルブルーの旗艦だった一等軍艦アストリッド号の正確な設計図の
シャインはそれを再び油紙にくるんで引き出しの中に入れた。
アストリッド号が就航したのは今から約二十一年前。船の型としては古い部類に入るが、これを利用してリュニスの軍部に潜り込まなくてはならない。
何はともあれ、上手くリュニスにたどりつけたら、ヴィズルに知らせなければならないだろう。
シャインはヴィズルの見様見真似で、おもむろに右手の親指と人差し指で輪を作って指笛を吹いてみた。
すると
シャインは右手を差し出した。ヴィズルがやっていたように。
鳥はフクロウのようにほとんど羽音をたてずシャインの右腕に止まった。
『何か用ですか』といわんばかり、鳥は首を傾けながらシャインの顔を覗き込む。
「ごめん。ただ呼んだだけ。また見張りを頼むよ」
シャインは腕を振り上げ、鳥を再び空に放った。
鳥は不満げに一言クーと鳴いてから飛び去った。
まぐれかもしれないが、ヴィズルの鳥を呼び寄せることができてほっとした。
「さて。問題はこっちの方なんだよな」
朝焼けに染まる海を眺めながら、シャインは上着のポケットに入れていた緋色の表紙の本を取り出した。リオーネがくれた、リュニス語とエルシーア語の対比表だ。舵を取りながら言葉の勉強をしなければならない。
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