5-15 嘘の代わりに
長い白昼夢をみていたような。
太陽の光にきらきらと輝いていたエルドロインの川面が、赤く黄昏の色に染まっていた。いつしか潮が満ちて目の前の干潟が水没している。
シャインは額にかかる前髪を手で払いのけ、長い間もたれていた家の壁から離れた。
行かなければなるまい。
言い換えれば真実が白日の下に晒されることを怖れて、今日という日まで自分は逃げていたのかもしれない。
シャインは踵を返し歩き出した。前方の路地の奥の方から小さな子供達の笑い声が聞こえてくる。
きゃっきゃとはしゃぐその声は明るく、五、六人ぐらいだろうか。追いかけごっこをしているのか、ぱたぱたと狭い路地を走る足音も聞こえる。
「……!」
シャインは左右に分かれた道で足を止めた。右側の路地から物凄い勢いで子供が飛び出して来たからだ。避ける暇などない。シャインはぶつかる前に、その小さな体を受け止めていた。
お世辞にもあまり小奇麗な格好とはいえない、よくみれば大人用の毛糸のストールを引きずるようにまとった幼い少女が、びっくりしたように真っ青な瞳を見開きシャインを見上げていた。櫛をいれれば可愛くなるだろうに、鳥の巣のようにうねる蜂蜜色の髪を揺らし、泥がこびりついた頬を赤く染めている。
「大丈夫かい?」
シャインは膝をついて少女の顔を覗き込んだ。ぶつかる前に肩をつかんだからどこも痛くないとは思うのだが。
「うん!」
見た所五、六才と思える少女が、白い歯を見せて太陽のように笑ってみせた。脳天気ともいえる底抜けに明るい笑顔に、シャインは戸惑いながら頷く。
「よかった」
少女の元気な様子に安堵して立ち上がろうとすると、不意に彼女は小さな手を伸ばしてシャインの頬に触れた。何かに気を引かれたのかじっとシャインの顔を見ている。
「どうしたんだい? 何か俺の顔についてる?」
動くに動けなくてシャインは少女に訊ねた。
「おにいさんの目、すっごくきれい。おとうさんが一度つれていってくれた、海の色とおんなじ……青と緑」
「そうかい?」
両手をシャインの頬に添えながら、少女は「うん!」と何度も大きく頷いた。
「君の目もきれいだよ。海は広くてとても大きい。エルシーア大陸を離れたら、海は君の目のように深くて真っ青な色をしているんだよ」
「そうなのー? ひょっとしておにいさんは、『船乗り』なの?」
「ああ」
すると少女はますます口元をほころばせて目を輝かせた。
「ミリカのおとうさんもお船にのってるの。すごく、すっごく大きなお船にのってるんだよ!」
シャインは手を伸ばして少女のくるくる渦を巻いた髪を撫でてやった。
この子の父親が船乗りなら、なんとなく自分にすりよってきた訳がよくわかる。
さみしいのだ。きっと。
「おとうさんは今、海に出てるのかい?」
するとミリカの笑顔が急に暗さを帯びた。青い瞳の輝きが失せていく。
「おとうさん……かえってこないの。ずっと、ずっとかえってこないの。おかあさんはおとうさんが、すごく遠いところで、悪いことをするひとたちをつかまえるために、がんばってるからまっていようね、っていってた。だから、ミリカはまってるの」
シャインは顔を強ばらせた。
胸の中に浮かんだその疑問を問わずにはいられなかった。
シャインは自分の心臓を氷の手で掴まれている感覚を覚えた。
「……ミリカのおとうさんのお船は、青い船じゃないかな? 黒い大砲がいくつもついてて、マストが金色の、真っ白な帆を広げた……」
「そう! おにいさん、ひょっとしておとうさんのお船にあったの!? おとうさん、『かいぐん』のお船にのってるの。元気だった?」
「……」
シャインは思わず目を閉じた。
エルシーア海軍で青い塗装を施した軍艦は『ノーブルブルー』に属するあの四隻しかない。そのうちの三隻は一年前に海の藻屑となり、残ったウインガード号は現在全体的な改修工事のために、造船所に回されて、乗組員は他の船に配属されている。
「ねえ、おにいさん?」
「ああ……ごめん」
シャインは未だ頬に手を添える少女に頷いてみせた。
嘘をつくのは得意だ。罪悪感が鈍るほど数多の嘘を身の内に抱えている。
「ミリカのおとうさんのお船は、おかあさんのいう通り、本当に遠い遠い海にいた。まだ帰ってこれないと思う」
「そうなんだ……」
ミリカは一瞬瞳を伏せてうつむいたが、シャインの頬に添えた手に急に力を込めた。
「何? 何だい?」
ミリカは小さな手に力をいれて、シャインの口元が笑みを作るように押し上げていた。
「おにいさん、なんだか悲しそう。でもね、どんなときもわらってなくっちゃだめって、おとうさんがいってた。ミリカのわらったかおが一番すきだって。それにね、わらってないと『しあわせ』がにげちゃうんだって」
少女――ミリカは再び頬をほころばせにっこりと笑ってみせた。
「だから、おにいさんもわらわなくっちゃ。ミリカはみんなが『しあわせ』だったらいいと思うの。だから、わらってなきゃだめだよ。ねっ?」
ミリカの笑顔を直視できる心境ではなかったが、シャインは無理矢理強ばった笑みを浮かべてみせた。
「ごめん、ミリカ。もう……いかないと」
シャインはミリカの手を振り切るように立ち上がった。
「そろそろ暗くなる。君も、おかあさんが心配するから、家に帰った方がいいよ」
ミリカは大きくうなずいた。
「おにいさん。また……ここに来る?」
「えっ」
虚を突かれたシャインは瞬きしてミリカを見下ろした。
行きずりの自分にそんなことを尋ねるとは思ってもみなかったからだ。
「わからない。俺も……船に乗ってるから」
「じゃ、またおとうさんのお船に会うかもしれないねー」
瞳をきらきらと輝かせてミリカはシャインの手を両手で握りしめた。
「うわー。ここにきれいなお星さまがある」
ミリカはシャインの右手にはめられた『宵の明星』の石を見つめていた。
淡い薄紫の闇の中で星の形をした光が瞬いた。
シャインはくしゃくしゃのミリカの髪に手をやり、優しくそれを梳いてから、再び彼女の視線と同じ高さになるように膝をついた。
「ミリカ。君は良い子だ。俺を励ましてくれたお礼に、気に入ったのならこれをあげる」
シャインは右手を引き寄せ『宵の明星』の指輪を外した。そっとミリカの小さな掌に握らせる。ミリカはびっくりしたように激しく首を振った。
「だ、だめだよ! こんなきれいなもの、ミリカ、もらえない!」
「どうして? 俺は君にこれをもっていて欲しいんだけどな」
ミリカは指輪をシャインに突っ返した。さっきまでの輝くような笑顔が消えて、シャインを見つめていた青い瞳は今、気まずそうに逸らされている。
「ごめん、ミリカ。何か君の気に触ることを、俺はしてしまったのなら謝るよ」
突っ返された指輪を掌にのせたままシャインはミリカに訊ねた。
「わたしだって、わかるもん。おにいさんが……ここに住んでるひとじゃないってことぐらい」
ミリカはシャインから顔を逸らし、地面にひきずる大人用の毛糸のストール(きっと母親の古着だろう)の裾を小さな指で弄りながら、もじもじと呟いた。
「おにいさんは……きれいな服を着てる。通りで馬車に乗ってるひとたちと同じ。だけど、ここに住んでるひとは、おにいさんみたいにきれいじゃない。だから、ミリカはもらっちゃいけないの。ミリカがさわったら、お星さまがきっとよごれちゃう。だから……」
「そんなことない。君が石に触れたから、お星さまが光ったんだよ」
「ほんとう?」
こわごわとミリカが振り返った。シャインの掌で光る薄紫の石をじっと見つめる。
「どうしてわたしにくれるの?」
シャインは瞳を伏せ、ミリカに言い聞かせるように口を開いた。
「ミリカ。君は強くて良い子だ。でも本当は、わらいたくても、わらうことができない時だってあるだろう?」
「う……うん」
ミリカは小さく頷いた。シャインは優しく言葉を続けた。
「そんなとき、この石のお星さまをみたら、きっと君の力になってくれる気がするんだ。君がどんなときも、わらうことができるようにね」
「でも」
シャインは静かに首を振りながら、ミリカの手に再び指輪を握らせた。
「じゃ……貰うのが嫌なら、しばらく預かってくれないか?」
「えっ?」
「この石の光は、俺にはまぶしすぎるんだ。君の笑顔のようにね。だから今の俺はこれを持つのが辛い。君はいつでもわらっていなくてはだめだっていったけど、俺は今、君の前で心からわらうことができない。でも、いつか、本当にわらうことができる時がきたら……この指輪を取りに、君に会いに来る」
黙ってシャインを見つめていたミリカが、決意したかのようにきゅっと唇を結んだ。
「わかったわ。おにいさん。じゃ、そのお星さまのゆびわ、ミリカがあずかっててあげる。だけど……」
ミリカが手を伸ばしてシャインの首筋に抱きついてきた。
「おにいさんの名前をおしえて。わたしたち、もう、おともだちでしょ?」
シャインはミリカの唐突な言葉に、思わず口元に笑みを浮かべた。
「……そうだね」
首筋にすがるミリカの手を解き、大きな青い目で自分を見つめる少女にシャインは名を告げた。
「……シャイン」
「ああ」
シャインはそっと立ち上がった。遠くで誰かの名前を呼ぶ声がする。
「さあ、早くおかえり。おかあさんが君を探しているかもしれないよ」
ミリカははっとして辺りを見回した。
「おかあさんの声がする。じゃ、ミリカ帰るね!」
少女は左側の道を歩きながらふと足を止めて振り返った。
「ぜったいに、これを取りにもどってきてね。シャインおにいちゃん。ミリカ、なくさないように、大事にもってるから! やくそく!」
シャインは黙ったままミリカに向かって手を振った。
ミリカは無垢でまぶしげな笑みをシャインに見せてから、薄暗くなりつつある路地を一直線に走り去っていった。
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