5-16 ミリーとミリカ

「ミリカ~、ミリカったら、どこにいっちゃったのかしら」


 肩で切り揃えられた焦茶色の髪をはらりと舞わせながら、ミリーは元気すぎる娘の姿を探した。腕には色とりどりの花が入った籠が抱えられている。


「おかあさーん!」


 狭い路地一杯に娘の声が響き渡る。


「ミリカ!」


 弾丸のように自分の胸に飛び込んできた娘をミリーは思いっきり抱きしめた。


「どこに行ってたの? お隣のポリンさんが、ミリカがなかなか帰って来ないっていうから、おかあさん、びっくりしちゃったじゃない」


 ミリーはしゃがんで泥の破片がこびりついたミリカの赤い頬を手で擦った。


「ごめんなさい。エリンちゃんとマールグちゃんといっしょに、マフィンを作って遊んでいたの」


 ミリーは口元に笑みを浮かべながら、安堵の息を吐いた。

 誰に似たのかミリカは元気が良くて悪戯好き。最近は潮が引いた河原で泥をこねくりまわし、お料理ごっこをすることに夢中だ。下手をすると潮が満ちてくる頃まで遊んでいるので、ミリーは気が気ではない。


「じゃ、おかあさん、お仕事にいってくるから、ポリンさんの家にちゃんと行くのよ?」

「うん!」


 ミリカは素直に返事をした。ミリーは泥遊びのせいでもつれてしまった娘の蜂蜜色の髪を撫でた。


 ミリーはフェメリア通りにある『緑のかご』という花屋で働いている。大聖堂が近くにあるせいか、墓地に供える花を求める客が多く、なかなか繁盛している。


 ミリーは主に花の配達をしているのだが、時々大聖堂の神官長に頼まれて祭壇に供える花を生けている。これからミリーが出掛けるのは、まさに明日聖堂で行われる葬儀のために、花を生ける仕事が入ったためだ。


 花屋の仕事は夕方で終わるので、今時分は家にいてミリカと二人ですごすミリーだが、仕事が入った時は隣のポリンおばさんに娘のめんどうをお願いする。


 ミリーは十五の時に船乗りの夫と知り合い、ミリカを授かった。

 今からちょうど五年前だ。

 けれど裕福な家に生まれ、お嬢様だった真面目な母ルティーナは、ミリーの若すぎる結婚に猛反対した。ミリーは夫と共にアスラトルへ駆け落ちした。それを追ってくるものはいなかった。


 ミリーの父アースシーはエルシーア海軍の軍艦に乗る艦長で、一年の大半を海で過ごし滅多に家(ミリーの実家はジェミナ・クラスにある)に帰ってこない。

 双子の兄ミリアスも、第一線で海賊と戦う父親に影響され、十四の時に海軍に入ってしまったから、彼にも年に数回しか会うことがない。


 ミリーは寂しかった。

 父と兄がいない実家はがらんとしていてまるで墓地のようだった。

 気丈な母だって、本当は父が海軍を辞めて家に戻ってきてほしいと思っている癖に、ミリーの前では涙一つみせなかった。


 でもミリーは母親のように強くはない。

 家族が一つ屋根の下で食卓を囲み、話したり笑ったりする光景に憧れていた。


 ミリーの夫は二十五才で、海軍の軍艦に水兵として乗り込んでいる。手先が器用で、廃材で椅子や机などいとも簡単に作ってしまう。いつも笑みを絶やさずミリーのことを気遣い、ミリカの相手もしてくれる優しい夫だ。


 けれど所詮船乗りである夫は、父と同じように長く家に滞在することができなかった。

 温かな家庭を夢見ながら、結局船乗りを愛してしまったミリーは、ルウム家に流れる血を思わず呪いたくなる。ミリーの母も昔、海軍の船に乗っていて、父とは上司部下という関係だったから、血は争えないというしかない。



 しかも一年前。その父と最愛の夫が死んだ。

 『ノーブルブルーの悲劇』とアスラトルの住人が言っている、ファスガード号とエルガード号が海賊に沈められた事件で、二人は双方の船に乗っていて命を落としたのだった。


 ミリーは二人の訃報を兄ミリアスの口から聞いた。

 ジェミナ・クラスの家にいる母は葬儀に出ないと言って、ずっと引きこもっているらしい。ミリアスは母が心配だから、ミリーに実家に戻らないかと言ってきた。だがミリーに戻る気はなかった。


 父が死んだこともなにより、夫を失ったことが辛かった。母を思い遣る余裕などミリーにはなかった。

 しかもミリーは娘のミリカに夫の死を言えなかった。まだ幼い娘にそれを理解させる自信がなかったし、自分もそれを受け入れる心境ではなかったからである。


 兄から父と夫の訃報を聞いた――あの日から


 未だ二人の死がミリーには信じられない。ひょっこり家の戸口に現れて、「ただいま」と言って笑いかけてくれるような気がしてならない。元気だった二人の姿しか記憶にないし、それしか思い浮かばない。


 海軍省からは遺族年金の支払いを開始したという紙切れ一枚が届いただけだ。

 父や夫が何故死んだのか。二人を奪った海軍からは何の連絡も未だない。


 ファスガード号艦長だった父の方は、多分実家に連絡が行っているだろうが、ミリーの夫は何百人といる平水兵。遺族年金の通知だけで彼が死んだことを伝えたつもりか。それを思うとミリーの胸は激しく痛む。


「おかあさん。どうしたの?」


 ミリカがミリーの頬に小さな手を当てて顔を覗き込んでいた。


「これからおしごといくんでしょ? 心配しなくても、ミリカ、ちゃんとおるすばんするから、ほら、わらって?」

「ミリカ……」


 ミリーは娘の頭を抱えるように抱きしめた。

 夫が死んでしまった今、自分にはミリカしかいない。


「おかあさん……くるしいよ……」


 両腕に力が入ってしまったのか、ミリカがもがいている。ミリーははっとして抱擁を解いた。


「ごめんね、ミリカ。つい力が入っちゃった……ん?」


 ミリーはミリカの握りしめる小さな手から、きらりと何かが光るのを見た。


「今のは何? ちょっと見せてくれる? ミリカ」

「いいよ。でもこれは、ミリカがシャインおにいちゃんからあずかった、大事なお星さまなの」


 ミリカはあっけらかんとした笑顔でミリーを見上げた。


「……シャインおにいちゃん?」


 ミリーは聞き慣れない名前に顔をしかめた。だがミリカは青い瞳を輝かせてうれしそうに微笑んだ。


「そう! さっきミリカとおともだちになった、船乗りのおにいちゃんだよ。これをミリカにあずかってほしいって頼まれたの」


 ミリカが小さな両手をミリーに開いてみせた。そこには淡い桃色を帯びた金に紫の石がはめ込まれた指輪があった。ミリーは一瞬その石の美しさにひきこまれた。紫色の闇のあいだから黄昏の空に輝く星のような煌めきが見えたのだ。


「きれいでしょー。お星さまが見える? おかあさん。これを見ているとミリカ、とっても胸の中があったかくなるの」

「そうね。本当に……穏やかな気持ちになれるわ……」


 暫しその光に魅入っていたミリーだったが、意識して我に返った。


「ミリカ。うそをついては駄目よ。こんな高価な指輪、どこで拾ってきたのかちゃんと言いなさい。あなたのそのお友達……なんとか、おにいちゃんが、あなたのような子供に預かって欲しいって、普通頼んだりするわけないでしょ」


「ミリカ、うそなんてつかないもん!」


 ミリカは再び指輪を両手で握りしめた。

 きっと強いまなざしでミリーを睨み付ける。


「ミリカはんだよ。でも、シャインおにいちゃんが、じぶんはこのゆびわを持っているのがつらいんだって。だから、ミリカにあずかってほしいっていったんだもん! ミリカ、シャインおにいちゃんが本当につらそうだったから、あずかってあげることにしたの」


「……」


 ミリーは幼い娘の両肩に手を置いたまま、困ったように溜息をついた。

 ミリカは元気の良い娘でたまに嘘をつく。でも、嘘をつく時は決まってミリーと視線を合わせようとしない。だがミリカはまっすぐな瞳でミリーに訴えかけていた。五才の子供がつく嘘にしては内容も具体的だ。


「……わかったわ。ミリカ。あなたはその、『シャインおにいちゃん』って人の指輪を預かってあげているのね」


「うん! おにいちゃん、いつかゆびわを取りに戻ってくるって、ミリカとやくそくしたの」


「そう……それならしかたないわね。じゃ、なくさないように、ちゃんと持っているのよ? でないと、シャインおにいちゃんが来た時、困るのはあなたなんだからね、ミリカ」


「うん!」


 ミリーは渋面を和らげミリカに笑いかけた。

 娘に笑いかけつつ、ミリーは引っ掛かるものを感じていた。

 娘とともだちになった『シャインおにいちゃん』というに。

 どこかで聞いた気がする。ミリーはミリカに訊ねた。


「でもミリカは毎日お外で遊んでるでしょ。もしも、シャインおにいちゃんがお家に来た時、おかあさんがわかるように、おにいちゃんはどんな人だったか教えてくれない?」


 ミリカは口をきゅっとすぼめて暫し黙り込んだ。


「どんなひとって、おにいちゃんはおにいちゃんだよ。ああそう! 一度おとうさんがミリカをお船にのせてくれた時があったけど、その時に見た海と同じ色のきれいな目をしてた。青みたいな緑みたいな。とってもきれいな色!」


「他には? どんな服を着てた? 髪の色は?」


 ミリカはうーんと唸った。


「くろい服を着てた。髪の毛は金色で、三つ編みにしてたよ。それから、おとうさんみたいに『船乗り』なんだって。あ、おとうさんの船をみたことがあるっていってたよ! おとうさん、まだ帰って来れないくらい、とおいとおい海にいるんだって……」


「……そう。よくわかったわ……」


 ミリーはミリカにうなずいてみせて立ち上がった。

 ミリカに悟られないように、普段と同じ抑揚で答えながら。


 ――思い出した。自分は彼を


「さ、ミリカ。おかあさんはお仕事にいくから、ポリンさんの家に行きなさい」


 ミリカは大きくうなずいた。


「うん!」


 ミリカはミリーに笑ってみせて、黄昏の光が差し込む路地を駆けて行った。

 その小さな背中を見送りながら、ミリーは唇を噛みしめていた。




『死んだ父とラフェール提督の代わりに、ファスガード号の指揮を執っていたのがシャイン・グラヴェール。ノーブルブルーの帰還命令書を届けた、『使い走り』後方支援艦隊所属ロワールハイネス号の艦長だ。彼なら知っているだろう。僕達の父が何故死んだのか。何故、船が沈んだのかを』


 この場にいない兄ミリアスの言葉を思い出しつつ、ミリーは大聖堂に向かうため、薄暗い路地を歩き出した。

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