5-14 回想

 シャインはすぐに路地から出なかった。建物のざらついた壁に背中を預け、白い三角帆を上げて河を行き来する漁船や渡し船を眺めていた。


 通りに出れば、憲兵に捕まえられることはわかっている。

 それにしても、どうしてこんなことになったのだろう。


 徐々に傾く、日の光を浴びる黄昏色の川面を眺めながら、シャインは逃げたことを悔いた。

 何も悪いことをしていないのなら、堂々としていればいい。

 司法局へ行けば、どういう容疑で告訴状が出されたのか教えてもらえるはずだ。


 けれど。

 脳裏をヴィズルの警告が過った。


『ラビエルって言ったか、あの男。奴は司法局の人間じゃねぇぞ。絶対に関わるな』


 ヴィズル、君は何を知っている?

 いや――ラビエルという男の正体が司法局の人間じゃないとしても、ディアナの婚約者であり、現在海軍の参謀司令官を任されているノイエ・ダールベルク自身が言っていたのだ。


『恐ろしい陰謀です。海軍省を巻き込む大きな疑惑に、貴女のご友人が関わっていると、勇気ある者が告訴状を司法局に出しました』


 

 ノイエの声に後ろめたさと胸が疼く。シャインは容疑に心当たりがあった。

 シャインが関係していて海軍省に絡むといえば、あの事件しかない。

 そしてその真相は今も語ることを禁じられている。



『ノーブルブルーの悲劇』

 一年経った今、かの事件はそう呼ばれるようになった。




 海賊拿捕専門艦隊として、アドビス・グラヴェールによって設立された通称『ノーブルブルー』は、旗艦の一等軍艦アストリッド号、妹艦ウインガード号。二等軍艦ファスガード号、その妹艦エルガード号の計四隻の大型軍艦で編成され、約二十年に渡ってエルシーア海を荒らしていた海賊船を駆逐してきた。


 けれど一年前、ノーブルブルーの指揮を執っていたアドビス・グラヴェールに仲間を殺された恨みを晴らさんと、一人の海賊がエルシーア海に戻ってきた。

『月影のスカーヴィズ』と名乗った海賊は、自分が帰還した証をアドビスに知らしめるため、アストリッド号を襲撃して沈めた。


 アストリッド号が沈められた事件を聞いて、海軍省は情報を集めるためにも、残ったファスガード号とエルガード号をアスラトルに呼び戻すことを決めた。(ウインガード号はアスラトルの造船所で修理中であった)


 エルシーア海の遥か東。東方連国との間の公海にいる二隻のノーブルブルーへ、帰還を命じる文書を運んだのが、シャインのロワールハイネス号だった。


 けれど、『月影のスカーヴィズ』は、逃がしたノーブルブルーの残る二隻も用意周到な計画で沈めるつもりだった。あらかじめ水兵として乗り込ませていた仲間に船を乗っ取らせ、双方の砲撃で二隻とも沈めてしまおうという大胆な計画だった。


 幸か不幸か。ファスガード号とエルガード号は『月影のスカーヴィズ』――シャインがロワールハイネス号の航海長として雇った、ヴィズルがその者であったのだが、二隻の姉妹艦は、彼の思惑通りに壮絶な同士討ちを始めることになる。


 シャインはファスガード号に副長のジャーヴィスと共に乗っていた。こちらにノーブルブルーを指揮するラフェール提督が乗っていたからだ。


 けれどファスガード号は海賊に乗っ取られたエルガード号の砲撃を先に受け、その際にラフェール提督を庇ったルウム艦長が犠牲となった。また、深い傷を負っていたラフェール提督も死の床にあった。彼から指揮を引き継いだシャインは、ファスガード号に乗る者の命を救うために、エルガード号を沈めることを選択する。


 この時の選択が果して正しかったのか。他の手段はなかったのか。

 シャインは今も悩み続けている。

 すでに終わったことではある。

 時間を巻き戻すことは誰にもできない。

 多くの人間が命を失い、海の底へ船と共に沈んでいった。


 浸水が酷く結局沈んだファスガード号の乗組員も、全員助かったわけではないことをシャインは後に知る。ファスガード号副長だったイストリア大尉の証言や、海軍本部に残っていた『乗艦名簿』から生存者の名を消し込み、海軍省はこの一連の事件の犠牲者を約279名と発表した。

 海賊が駆逐された昨今、大規模な海戦はこの十年ほど行われていなかった。

 それだけにアスラトル領民の関心は高く、同時にあまりにも多くの犠牲者が出たため街は深い悲しみに包まれたのだ。


 こうして、人々はこの事件を『ノーブルブルーの悲劇』と言うようになった。

 海軍省はこの事件を起こした海賊――『月影のスカーヴィズ』の検挙に全力を注いだが、のちにジェミナ・クラス司令官だった故オーリン・ツヴァイス中将がかの海賊と手を組んで、ノーブルブルー艦隊の壊滅を目論んでいたことが発覚した。


 その事を知ったアドビス・グラヴェールは自ら護衛船エアリエル号に乗り込み、ツヴァイスのウインガード号を拿捕。その時の海戦で『月影のスカーヴィズ』は死んだと言われているが、彼の海賊船が東に向かって立ち去る姿をエアリエル号やウインガード号の水兵達が目撃している。

 けれど一年経った今、かの海賊船や『月影のスカーヴィズ』の姿をエルシーア海で見た者はいない。


 海軍省の最終報告書によるエルガード号とファスガード号が沈んだ原因は、『月影のスカーヴィズ』の手下達が水兵になりすましてエルガード号を奪い、砲撃を受けたファスガード号はそれに対抗するためかの船を沈めた。けれどファスガード号も浸水が酷く、結局沈んでしまった、ということだ。


 事件の最終報告書が出された時、一部の遺族が情報公開の不十分を訴えた。

 特に何故ファスガード号はエルガード号の奪還を試みる前に砲撃したのか。そこにはかの船を沈めようとした意思が感じられる。何故このような強硬手段に出たのかを問う声があがった。


 しかし海軍省はその訴えをすでに調査済みという理由で棄却した。

 調査済みという回答は間違ってはいない。

 シャインはその件に関して報告書をアリスティド統括将に提出している。

 ラフェール提督から指揮の委任を受けた際に『エルガード号とファスガード号を沈めるように』と命じられていたからだ。


 けれどこの報告は遺族達に伝えられなかった。

 もとい、海軍の調書から削除されている。

 ラフェールの命令だったことを立証できる者が他にいないという理由で。


 ラフェールから指揮の委任を受けた時、同じ場所に負傷していたシャインの副官――ジャーヴィスがいた。が、海軍省は彼の記憶が負傷のせいで、曖昧だったと述べた。ジャーヴィスはラフェールがシャインに自分の佩剣を渡して指揮を委任したのは見ているが、二人の間でどんな会話が交わされたのかは覚えていないと言った。


 無理もない。

 ラフェールはシャインの軍服の襟首を引き寄せて、今際いまわの言葉をその耳に囁いたのだから。

 そしてシャインにはエルガード号を沈めるがあった。


 海賊の手に落ちた彼女を奪回するか、沈めるか。

 砲撃を受け浸水するファスガード号でそれを決める時間は僅かしかなかった。


 海賊に奪われたエルガード号をそのままにはできない。例えその船に海賊ではない、まっとうなエルシーア海軍の水兵達が生き残っていたとしても。

 シャインはエルガード号を自ら沈めることを選んだ。

 でなければもっと多くの犠牲が出る。

 生きる者と死ぬ者を選んだ、重い選択をした事実を決して忘れたわけではない。

 だが海軍省は、この事実を遺族に公開することを嫌がったのだろう。


 表向きは遺族感情を考慮してとなっているが、アドビスやアリスティド統括将が情報操作しているらしいという噂も当時はあった。


 全ての調査が終了し、遺族に対する賠償も始まったため、この件に深く関わった者たち(ファスガード号の生存者達)は誓約書を書かされて、今も沈黙を守っている。シャインもその一人だ。


 その行為が正しいことなのか。

 そう問われるとシャインは、今も時々見るあの夜の海戦の夢で、自らが海に沈めばいいと強く願う。

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