5-11 再会
子供の頃ものすごく高く感じた生け垣は、現在もシャインの背を超す程のものだった。背伸びをしても生け垣の向こう側を覗き見る事ができない。ひょっとしたら、帆船のマストに例えられるアドビスの背丈を超えるくらいかもしれない。
シャインは十年以上経つが、この庭園に迷い込んだ子供の頃の恐怖が、脳裏にじわりと這い上がってくるのを感じた。迷路の道も大人が二人並んで歩けるかどうか。両側を生け垣で挟まれた圧迫感と伴って心理的に不安を感じる。
赤茶けたレンガで鋪装された道を歩いていくと、最初の分岐点が現れた。
ディアナの手紙には左に曲がるように書いてあった。
シャインは迷わず左の道を選んで歩き続けた。まるで大きな円を描くように道は右に曲がりながら続いている。五分くらい歩いたところで、水の流れる音が聞こえてきた。同時に目の前が大きく開けた。ずっと狭い道を歩いてきたから、余計広く感じたのかもしれない。
壁のような生け垣で囲まれ、ちょっとした広場になっているそこは、白い艶やかな大理石で造られた円形の水辺があり、色とりどりの睡蓮の花が咲いていた。その中央には同じ大理石で彫刻された壷を持った女性の立像が置かれている。壷からは水が滝のように流れ落ちていて、噴水の隣にディアナ公爵令嬢が立っていた。
月の光のような銀の長い髪は一つの三つ編みして、純白のレースがあしらわれた絹の肩掛けの上で眩しい輝きを放っている。ディアナは自身の瞳の色に合わせた薄紫の細いロングドレスに、肘までの長い白手袋をつけ、左のこめかみに一輪のエルシャンローズを挿していた。花びらの先は白で、中心に向かい徐々に青くなる従来種の花だ。
シャインの姿を見たディアナは、自らこちらに向かって歩いてきた。
昨年海軍省の庭園で会った時は月明かりの中だったが、こうして陽の下を歩く彼女の姿は清楚で美しかった。
シャインは頭を垂れて先に挨拶した。
いや、後ろめたさ故か、彼女と目を合わせる前に視線を地へと伏せてしまった。
「お久しぶりです。ディアナ様」
「ご無沙汰しております、シャイン様。顔を上げて下さい。今日は来て下さってとても嬉しいわ」
何事もなかったようにディアナはシャインに声をかけてきた。
仕方なくシャインは顔を上げた。ディアナは白い肌にうっすらと頬を赤らめて微笑んでいた。幼かった昔、初めて会った時のように、無垢で幸せそうな微笑みをシャインに向けながら。
それを見たシャインは、胸のつかえが薄らいでいくのを感じた。
「この度はご婚約おめでとうございます。まずはお祝いを言わせて下さい」
ディアナは一瞬戸惑ったようにすみれ色の瞳を見開いた。
だがその動揺はすぐに消えてしまった。
「ありがとうございます。お陰様でダールベルク家に嫁ぐことになりました」
今まで晴れやかだったディアナの顔が、薄雲に隠れた月のように輝きが失せていく。シャインは婚約の祝いを言うには、まだ早すぎただろうかと内心後悔した。
「ディアナ様」
慌てて声をかけると、ディアナは気弱な笑みを唇に浮かべて、小さく頭を振った。
「ごめんなさい。私、嫁ぐことが別に嫌なわけではないのです。婚約者のノイエ様はとてもお優しい方ですし、私のことを大事にして下さると仰いました。ただ私、アスラトルから離れたことがないものですから、遥か南のアノリアへ行くことが少し不安で……。でもノイエ様が仰るには、アスラトルよりも年中暖かく、リュニスとの国境が近いせいもあって、独特の雰囲気がある美しい街だそうです」
ディアナは再び笑顔を取り戻しながらシャインを見つめた。
「シャイン様はアノリアに行かれたことが……?」
シャインは額にかかる髪を払いながら首を振った。
「いえ。行ったことはありません。ですが、今後行くかもしれません」
ディアナの笑顔にシャインの緊張も徐々にほぐれてきた。
「そういえばシャイン様は海軍をお休みされて、今は私の恋敵の船と海を、自由に行き来なさっているとか」
シャインが休職中であることは、彼女の叔父であるアリスティド統括将経由で知ったのだろう。シャインは肯定の印に頷いた。そして内心安堵した。
ディアナは『私の恋敵の船と海』と言った。
それは彼女独特の、シャインと船、そしてまだ見ぬ海域へ航海に出たいという渇望を皮肉った言い回しだった。
「まだ恋していらっしゃるの? 船と海に一生報われない思いを抱き続けるなんて、シャイン様がお可哀想。いい加減諦めたらいいのに」
シャインはむっとしたように青緑の瞳を細めた。あくまでも彼女の言い回しに付き合うために、少し不機嫌な顔をしてみせただけだが。
「今のままで俺は幸せです。この思いは、『成就しない』ことに意味があるのです」
「それは……どういう訳ですの?」
小首を傾げディアナが訊ねた。
シャインは咄嗟に口走った自分の言葉に顔をしかめた。
「いや、その……」
脳裏をロワールの軽やかな笑い声が潮風とともに駆け抜けていった。
舵輪を握りしめた時に感じる、あの小さな船が全身で波を乗り越えて海原を駆ける振動が両手に蘇ってくる。
「一生報われなくてもいいじゃないですか」
シャインは薄く笑って目を伏せた。
「報われないからこそ俺は、その思いを抱き続けることができる。そしてその思いは俺に生きるための力を与えてくれる。上手く言えませんが、とにかく、今の俺には必要なものです」
ディアナはしげしげとシャインの顔を眺め、到底理解はできないけれど、その気持ちだけはわかったといわんばかりに頷いた。
「駄目だわ。私にはあなたのその恋の病を治す手立てが思いつかない」
「別に治して下さる必要はありません」
「じゃあ、私はどうなるのです? あなたが治って下さらないと、同じ病を抱える私もきっと治らない」
「ディアナ様」
「……なんて、冗談に決まってるじゃない」
ディアナは一人くすくすと、口元に両手を当てて笑った。
「ちょっとあなたを困らせてみたかっただけです。シャイン様ったら、本当に変わらない。今もあなたの心は船と海にしか開かれない。私の入る隙間は、海水の一滴すらないのですから」
シャインはどういう表情をしてよいものか思案に暮れた。
「ディアナ様。俺は、そういうつもりでは……」
「じゃあ約束して下さいます? もしもアノリアに来ることがあったら私を訪ねて下さるって? もちろん、大切な友人として」
シャインはほっとして頷いた。
ディアナは単に寂しくて不安なのだ。
生まれ育った故郷を離れ、見知らぬアノリアという未知の土地へ行くことを。
「約束します。ぜひお屋敷を訪ねます」
ディアナは嬉しそうに微笑んだが、その微笑みにはどこか悲しみを堪えるような影があった。
「約束の言葉を交わすのは簡単。この場限りですから」
「嘘はつきません。南に行くことがあれば、必ず」
ディアナの表情は再び雲に隠れた月となった。
そこでシャインは懐に手をやり、濃紺の
今の今まで渡そうかどうしようか実は迷っていた。
「なんですの? それは」
シャインは小箱をディアナに差し出した。
「ご婚約のお祝いにと思って、金属加工職人の『マリエッタ・フェイシェル』に作ってもらった品です」
「マリエッタ・フェイシェル……まあ、女性でしかも最年少で『職人』の称号をおとりになった方ですわよね。知っていますわ。父が先日、母の誕生日に彼女の手で鍛えた懐剣を贈ったのですが、とても見事な細工と意匠が凝っていて、出来栄に見愡れたものです」
ディアナはシャインが差し出した小箱を受け取った。
顔を上げて目で問いかける。開けて良いかと。
「どうぞ」
ディアナが気に入ってくれるかどうか。不安に思いつつシャインは頷く。
白手袋をはめた細い指に力が入り、小箱の蓋が開かれた。
「まあ……なんて綺麗」
「どうぞお手にとってみて下さい」
シャインにうながされるまま、ディアナは小箱の中に入っていた『聖純銀のブレスレット』をそっと右手で取り上げた。
ブレスレットの形状はディアナの美しい銀の髪をイメージしたものだ。マリエッタにしかできない、聖純銀を髪の毛のように細く加工し、それを三つ編みのように編み込んで、薔薇の形に加工した銀の留め具がついている。
薔薇の留め具には淡い紫色をした『
「このような石はみたことがありません。紫はあまり好きな色ではありませんが……この内部に輝く星をみていたら、とても心が落ち着いてきます」
ディアナは銀の睫毛に縁取られた瞳を細め、シャインの顔を見上げた。
「ありがとうございます。これがあれば……私、アノリアに行っても何とかやっていけそうな気がしてきました」
「気に入っていただけて嬉しく思います」
「早速身に付けますわ」
ディアナは留め具を外して右手首にブレスレットをつけようとした。
シャインは手を伸ばしてそれを手伝った。
片手でブレスレットの留め具をはめるのは難しいからだ。
「本当にありがとうございます」
きらきらと日光に輝く自分の髪と同じそれを眺めながら、満足そうにディアナは微笑んだ。シャインもまた微笑した。
「シャイン様ったら、ひょっとしたらこのために、私に会いたいとお手紙をわざわざ下さったのかしら」
ディアナのその一言でシャインの笑みは凍り付いた。
うっとりとブレスレットを眺めるディアナに話し掛ける。
「え? 俺はここで待っていると、ディアナ様から手紙をいただいたので来たのですが……」
ディアナは訳がわからないという風に頭を振った。
「いえ私はそのような手紙は……」
シャインは背後に気配を感じた。
ディアナがはっと息を飲む。
「……驚かせて申し訳ない。婚約者どの」
聞き慣れない男の声が静かな庭園の中に響いた。
シャインは振り返った。いつの間にか広場の入口に、エルシーア海軍の黒い将官服を纏った若い青年が立っている。その軍服はシャインにとって見慣れた階級のものだった。黒いマントに金の飾り紐を三本つけることができるのは、かつて参謀司令官だったアドビスと同じ中将位にいる者だけだ。
青年はシャインより遥かに年上だが、その軍服を纏うにはあきらかに若い。
「ノイエ様……私は」
「ディアナ様。貴女は何も仰らなくていい。そっちにいるのが、貴女の大切な御友人であることは私も知っている」
中将の軍服を纏った青年――ディアナの婚約者でもあるノイエ・ダールベルクは、漆黒の髪に冷たい光を宿す氷の瞳をシャインに向けた。彼が一歩歩くと金と銀で縁取られた佩剣が小さな金属音を響かせた。
「尤も、このような場所で密会とは感心しないがな。いくら友人とはいえ、少しはディアナ様の立場も考えたらどうだ? シャイン・グラヴェール」
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