5-7 アドビスの復帰
「アドビス様は先週、海軍に復帰されたの」
「えっ」
暖かな部屋で暖炉の火が爆ぜる音を夢見がちに聞いていたシャインは、リオーネの一言で閉じかけた目蓋を開いた。
「アリスティド統括将閣下の強い要望もあって、その補佐役に就任されたの。しかも誰もその人事を知らなかったみたいだから、海軍省は大騒ぎだったみたい」
「……」
シャインは驚きのあまり、しばし黙っていた。
アドビスは一年前、海賊との戦闘でシャインを庇い銃弾を受けた。弾はアドビスの左足の神経を傷つけ、医者にはそれを動かす事は二度とできないと宣告された。
けれどアドビスは諦めなかった。
医者の診断を笑い飛ばし、起きあがれるようになったその日から、杖を頼りに歩行訓練を始めた。
シャインは知っている。
軍艦のマストのように長身のアドビスが、地べたを這いずり回りながら、青灰色の鋭い瞳で常に前を見据えていた事を。
努力の甲斐あって、傷を受けてから二週間後には杖を頼りにひとりで歩けるようにはなったが、その足取りはおぼつかなかった。まして船など到底乗れる状態ではなかった。
アドビスは海軍に迷惑をかけないため退役を願い出たが、アリスティドは却下し休職とした。だが軍参謀司令官が不在になるので、軍籍は残していても休職中の間は役職がなく一将官としての扱いであった。
シャインの目には、アドビスの執念もここまでのように見えた。
やはり医者の言う事は正しくて、杖をついて歩けるようになった事自体、すごいことだと思わなくてはならない。だがアドビスはやってのけたのだ。
シャインがロワールハイネス号で遠い海や異国に航海している間。
想像を絶するような歩行訓練を重ね、手負いの鷹は再び古巣へ舞い戻った。
「今は杖がなくても歩いていらっしゃるわ。用心のために持ってはいらっしゃるけど」
「そうですか。それは、あの人……いえ、父にとってはいいことでしょうね」
なんだかんだいって海軍はアドビスがアドビスでいられる場所なのだろう。
アドビスから海軍を取り上げてしまったら、一体何が残るだろう。
軍人ではないアドビスをシャインは想像することができなかった。
それぐらいあの男は強く、偉大であった。
彼の父親(シャインの祖父)が求めた、グラヴェール家の当主として完璧な男だった。今も。
シャインはリオーネが何か言っている事を意識しながらも、自分自身の思いに浸っていた。
俺はどうなのだろう。
どうあるべきなのだろう――。
個人の感情を優先させて気ままに航海へ出る暮らし。
グラヴェール家を継ぐ者として歴代当主たちに倣い、その務めを果たすべきなのか。
◇◇◇
「シャイン」
「……」
リオーネは訝しみながら、けれど優しくシャインの名を呼んだ。
話しかけてもシャインが相槌すら返さなくなったからだ。
シャインは長椅子に背中を預けたまま眠っていた。
暖炉で燃える赤い炎の灯が、一年前より大人びて見えるシャインの横顔を照らしていた。
シャインが椅子で寝てしまうのは、ロワールハイネス号の船長室の長椅子で仮眠をとる習慣のせいだった。長い間舵輪を握らず、風の方向に常に意識を傾けず、眠る事に集中できて、かつ暖炉が疲れた体を暖めてくれる――。これで眠くならないはずがない。
リオーネは静かに立ち上がると、羽織っていた自らの淡い緑のケープを脱いでシャインの肩にそっと被せた。同時に居間の外で、ばたばたとエイブリーが廊下を走る音が聞こえた。
どうやらアドビスが帰ってきたらしい。
リオーネはシャインの寝顔を一瞥して、食事は後で部屋に運んでくるわと囁いた。
その時、気配をリオーネは感じた。
いや、その存在はずっと以前から知っていた。
心の奥が冷え込んで凍り付くような。それに触れていると気が狂って海に飛び込みたくなるような――だから普段は意識しないようにしていた。
亡くなった姉リュイーシャから、『風』を操る『力』を受け継いだ時から。
透き通った青い光がシャインの右手にはめられた指輪から発せられていた。
それはリオーネの視線を拒否するように、きらりと一度だけ瞬いて消えた。
リオーネは何の装飾もなされていない、ただの古風な指輪にしか見えないそれを、畏怖の気持ちを抱きながら見つめた。
こんな風にあの指輪が光る事はなかった。
少なくとも、姉が身につけていた頃は。
◇◇◇
翌朝シャインは居間の長椅子で目覚めた。
正確には――誰かに肩をそっと揺り動かされたのだ。
体を包む気だるい眠気を振り払い目蓋を開く。
また、寝過ごした?
だがシャインの顔を見下ろしているのは、怖い顔をしたロワールではなく、久方ぶりに会う父アドビスの寡黙なそれだった。
「あ……」
シャインは一瞬目が合ったアドビスの視線にたじろぎながら、昨夜彼の帰りをここで待ちつつ、いつの間にか眠ってしまった事に気付いた。
それを詫びようと思って口を開きかけると、アドビスは黙ったままシャインの側を離れ、窓際に近付きカーテンを引いた。明るい朝の光が居間にさっと差し込む。
「朝食の時間だ。支度をして食堂に来るのだ。リオーネが待っている」
「は、はい」
三か所あるカーテンをすべて開けてから、アドビスは再びシャインの方に振り返った。
「13時になったら出かける。それで……いいな」
「わかりました」
アドビスの顔は窓から差し込む朝の光のせいで逆光になりよくみえなかったが、シャインの返事を聞いて小さくうなずくように深い金色の頭が動いた。
アドビスはそのまま黙って居間を出ていった。相変わらず軍艦のマストのように高い長身を見送ってから、シャインは自分が息をずっと潜めていたことに気付いた。
「……びっくりした」
長椅子に腰掛けたままシャインは肺に溜まった空気を吐き、目にかかる前髪を手で払った。
アドビスが自分を起こしに来た。
ありえない。
今までそんな事一度もなかった。
でも、これは大きな変化だ。
アドビスの態度は、傍目、今までと同じように寡黙で他者に関心をもたないように見える。
けれどシャインの肩を揺り動かしたその手は優しかったし、以前のように遥か高みから小さな子供を見下ろすような厳しい目つきでもなかった。声色も至って普通だ。
シャインは安堵感を覚えた。
久方ぶりに会ったアドビスが、昔の冷徹なそれに戻っていたらどうしようかと、ほんの少しだけ不安に思っていたからだ。そしてリオーネの話通り、アドビスは杖をついていなかった。負傷して以来、まもなく一年。アドビスの左足はかなり機能を回復している。
シャインは長椅子から立ち上がった。
ここはロワールハイネス号ではない。天井を殴る(ロワールを殴る)心配がないことを確認して伸びをする。
「何か、久しぶりによく眠った気がするな」
無謀な航海を終えたせいで気が抜けたのだろう。夢もみなかった。
シャインは長椅子の側においてあった鞄を取り上げた。
本当なら昨日の夕食の時に渡そうと思った、ささやかな土産がそこに入っている。ちょっと遅くなったが、朝食の席でアドビスやリオーネ、そして執事のエイブリー夫妻に手渡す事にしよう。
シャインは身支度を整えるため、居間を出て二階の自室に向かった。
朝食を済ませたら急いでマリエッタの店に行かなければならない。
そして今日はアドビスと一緒に出掛ける大事な用事がある。
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