5-6 実家の味
重要な用事はあと一つ残っている。今回の仕事で航海士として手伝ってもらったヴィズルへの給金だ。
シャインの鞄の中にはもう一つ鉱石が入っている。
マリエッタに製作を頼んだブレスレットにつける石を探して、シャイン自らつるはしを握り、掘り当てたものだった。
『宵の明星』――エルシーアの古語でいうと『エレーネ・エンディミラ』。夕月の君、とも称されるこの石は、鉱山の暗い闇の中で一筋の淡い光を放っていた。探しているのは自分だろうといわんばかりに。
マリエッタの工房を後にして、通りを一つずれた鉱石専門の問屋街へと訪れる。
けれどマリエッタの見立ての通り、原石が小さすぎたため5万リュールにも満たない値だった。それでもないよりはましなので、シャインは鉱石を売り払った。
ごめん、ヴィズル。君が望む額の給金には足りないと思うから、その分は次の仕事の報酬を充てさせてもらうよ。
商売で稼ぐのは難しいことだ。ヴィズルが「お前は商船に向いてない」って叫んでいたけれど、全くその通りだと思う。
強いて言えば『雇われ船長』としてなら生きていける気がした。
マリエッタの依頼ではないが、どんな遠い海でもロワールがいてくれたら行ける気がする。
シャインは一度商港のロワールハイネス号へと戻った。
『船鐘』を後部甲板にある鐘楼へ再び取り付ける。
そうすると今まで聞こえなかったロワールの声が聞こえてきた。
「ああ……なんだかとっても疲れたわ。やっぱり『船鐘』を船外に持ち出すと、動きが制限されるみたい」
「そうなんだ」
シャインは向かい合う波を真鍮で象ったデザインの鐘楼を見つめた。
ロワールは鐘から外には出ずに、自ら中に留まっているようだ。
「でも『船鐘』が何処で作られたのか、手がかりを得ることができた」
「そうね……あの職人の
「ロワール、ひょっとして何か思い出したのかい?」
「……どうかしら」
ロワールは迷うように声を潜めた。その口調は小さい。
「まあ焦らなくてもいいよ。俺は……『今』の君がここにいてくれるだけで十分だ」
くすりと笑うロワールの声が聞こえた。
「ありがと、シャイン。じゃあ、今度は本当に私、船でお留守番ね」
次の予定をぐるぐると考えていることをロワールに悟られた。
「ごめん。来月でアリスティド閣下からもらった休暇も終わるし、経過報告も入れなきゃならない。
「わかってるわよ。じゃ、一週間だったかしら? それでちゃんと船に戻ってきてよ?」
「ああ」
シャインは『船鐘』にそっと手を伸ばした。
マリエッタは鐘――その正体は魔鉱石『ブルーエイジ』の巨大な塊を加工したとされるもの――を触るのも嫌がったが、シャインは今までちっともそんな風に思ったことが無かった。
鏡のように光る鐘の向こう側から、水色の瞳を細めてこちらを見返すロワールの視線を感じた。
「一週間で戻るから、約束する」
◇◇◇
それから一時間後。
馬車に乗ったシャインはグラヴェール屋敷の黒い門扉の前でそれを降りた。外には白髪を背中で一つに束ねた執事エイブリーが、馬車の音を聞き付けてシャインを待っていた。
「お帰りなさいませ、シャイン様」
「ただいま。エイブリーさん」
今夜家に帰る事は、港に着いた時に「使い走り」(こちらが本家)の少年に手紙と小銭を渡してグラヴェール家に届けさせていた。シャインは鞄を運ぼうとした老執事の手をさえぎった。
「これだけだから、自分で持っていきます」
老執事は残念そうに一瞬青い目をシャインに向けた。
彼はシャインが生まれた時からこのグラヴェール家に仕えていた。正確にはそれからあと二十年前まで遡らなくてはならないが。
グラヴェール家の男子はほとんどが海軍に入ってしまうので、家の中の事は彼等の留守を守る夫人や娘達で事足りた。だから今、グラヴェール屋敷の使用人はエイブリーと彼の細君の二人だけである。
玄関から二つ先の部屋――居間に入ると、赤々とした暖炉の前でリオーネが立っているのが見えた。
リオーネは淡い緑のドレスと同色のケープを肩から羽織っていた。
日の光のような白金の髪を左右に分けて、耳元で軽くウエーブしたそれがふわりと揺れる。
室内の蝋燭の数が今日は多いせいか、その光に照らされたリオーネはいつもよりずっと神秘的に見える。
彼女は若くして早世したシャインの母リュイーシャの妹であった。
そして、赤子の時からシャインの面倒をみてくれた育ての母でもある。
「お帰りなさい。シャイン」
柔らかな音質のリオーネの声を聞くと心が安らぐ。
両手を広げて自分を出迎えてくれたリオーネの元へ、シャインは歩いていった。
「ただ今戻りました。リオーネさん」
女性特有のなだらかな肩に手を回すと、リオーネが抗議するようにシャインの背中を軽く叩いた。
「ちょっと、また背が伸びたんじゃない? シャイン」
「え?」
「屈んでくれないと、あなたの肩に手が届かないわ」
冗談とも本気とも言えない口調で、リオーネが微笑みながら訴える。
「あ、すみません」
シャインはリオーネの肩から手を放した。
リオーネは相変わらず柔らかな微笑を浮かべながら首を振った。
「航海から戻ったばかりで疲れてるでしょう。目の下に隈ができてる。上着を脱いで座りなさい。じきにエイブリーがお茶を持ってきてくれるわ。それから、ズドール洋菓子店のスコーンもね」
「リオーネさん……」
黒の上着を脱ぐとリオーネがそれを壁際の洋服掛けにかけてくれた。
あれこれと世話を焼こうとする様は母親のようであった。
リオーネはシャインの帰宅を心から楽しみに待っていたのだろう。
相変わらず自分を子供扱いするのはいただけないが、現在はともかく、彼女にはいろいろ心配をかけたこともあるので、ある程度は仕方がない。
暖炉に近い濃紺の長椅子に腰を下ろすと、エイブリーがお茶とズドール洋菓子店のスコーンを持って部屋に入ってきた。この店のスコーンがシャインのお気に入りで、航海に行く前は必ずまとめ買いをしていく。
リオーネがお茶のカップをシャインの前に置いた。
シルヴァン・ティー。
船で飲む時はそのままか砂糖を少し入れるが、実家のそれには濃厚な山羊の乳と独特な香辛料が入っている。
「お食事はいかがいたしますか? リオーネ様」
「アドビス様がまもなく戻られるはずだから、夕食はその時にしましょう」
エイブリーはリオーネとシャインに向かって一礼した。
「かしこまりました」
執事が居間を出ていってから、シャインは懐かしい自分の家の味がするお茶を飲んだ。ぴりっと香辛料の辛味がきいている。
「当主――いえ、あの人は出かけているのですか」
リオーネの新緑の色をした瞳がとがめるように細められた。
「シャイン。……無理もないと思うけれど、そんな他人行儀な言い方、そろそろおやめなさい。アドビス様は寡黙な方だけど、誰よりもあなたのことを思っていらっしゃるのですから」
「……すみません」
シャインは目を伏せた。
頭ではわかっているが、どうもアドビスのことを父と呼ぶにはまだ抵抗がある。抵抗というか、面と向かって言うのが気恥ずかしい。
一年前までアドビスのことを「父」と呼ぶなんて――シャインにはありえないことだったからだ。
「すみません。わざとではないのです。俺は……」
シャインは長椅子の背にもたれた。
揺れていない部屋で過ごすのは本当に久しぶりだ。
いや、揺れてない事が不思議だ。シャインが船上で過ごす時間は陸のそれよりもずっと長い。
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