4-72 想いの行方
◇◇◇
シャインは長椅子の背に左腕をもたせ掛け、そこに頭をのせ目を閉じていた。
今まで目をそらし続けてきた物事と、いよいよ向き合わなければならない。
本当は逃げ出したくてたまらない。その思いが強く胸の内に広がるのを意識しながら、シャインは何時まで正気を保っていられるだろうかと考えた。
何はともあれ、まずはアドビスに会って、ヴィズルと話をしてくれるように働きかけなければならない。
シャインは自分の成すべき事を思いながら、それがとても難しい現実に気付いて大きく体を震わせた。
アドビスは今までシャインに母リュイーシャの死の真相を語ろうとしなかった。問いつめてもアドビスが答える事はなかった。
そのアドビスが――。
リュイーシャが命を落とす事になった二十年前のスカーヴィズ殺しについて、ヴィズルに真相を話してくれるのだろうか。
「……」
もう何度目になるだろう。数える事を止めてしまったため息をつき、シャインはのろのろと体を長椅子から起こした。
疲れてしまった。
あれこれ考えることに。
ここで脳味噌が溶けるほど考え込んだって、目の前の現実が変わるわけではない。変えられるとすれば、それは自分の行動次第なのだ。
「俺は……馬鹿だ……」
シャインはうつむきながら、気弱な笑みを唇に浮かべた。
さっきそれをまさにヴィズルが指摘したのに。
答えはすでに出ていた。
けれど自分は素直に受け入れることができず、逃げ道ばかり探していたのだ。
シャインは左手で顔にかかる前髪をすくいながら面を上げた。
いい加減、覚悟を決めなければ――。
シャインは、ようやく長椅子の肘掛けに手を伸ばした。
ヴィズルを見送った時に肩から滑り落ちた航海服をそこにひっかけておいたのだ。
航海服と右手を膝の上に置き、シャインはティレグに折られた右手首の包帯――肘まで巻いてあったそれを半分ほど解いた。今のままでは包帯が厚すぎて、まくったシャツの袖を下ろす事ができないからだ。
手首を折ってから一週間ほどしかたっていないので、腫れは引いたが動かすとまだじんわり鈍痛が走る。
シャインはそれに顔をしかめながら、膝上まであるブーツの中に左手を入れ、何時も忍ばせている細剣を抜いた。
解いた包帯をそれで切り取ってから再び端を結び、まくっていたシャツの袖をゆっくりと下ろす。なんとか袖口のボタンを掛けてから、シャインはようやくケープのついた航海服を着込んだ。
十四才で海軍に入れられたので、七年着続けた軍服は普段着のような存在だ。
首にできた傷が薄紫の飾り襟に当たって少し痛むが、きちんと服装を整えることで、シャインは心が落ち着き、いつもの自分を取り戻しつつあるのを感じた。
右手が使えないので、ざんばらの髪をまとめることができないのが不満だが。
「シャイン! 船が見えるの。早く甲板に来て!」
椅子から立ち上がったシャインの目の前に、大きく水色の目を見開いたロワールが現れた。
『あの人が来た』
そう感じた。そうだと思った。
行かなければならない。
アドビスの所へ。
「……わかった。行くよ」
シャインは心配そうに自分の顔をのぞくロワールへ、小さく微笑してみせた。
◆◆◆
どんな傷も、時が経てばそれが癒えるのだろうか。癒してくれるのだろうか。
どんな悲しみも、時が経てばその記憶が薄れていくのだろうか。
薄らいでしまうのだろうか。
ツヴァイスは執務机の上に置いている海図から視線を外し、ウインガード号の四角い艦長室の窓から外の光景を眺めた。
急に曇ってきた空の灰色が海の色を濁らせ、鮮やかな緑で覆われたあの島さえも、今はたれ込めた薄闇のせいで黒い影のようにしか見えない。
アドビスがどの方向からやって来るのか。それを探るためにツヴァイスは、ウインガード号を島の北側の海域へ走らせていた。
それにしても、こうも段取りが狂ってくるとは。
ツヴァイスは外の光景をながめたまま、無意識のうちに薄い唇を噛みしめた。
まさかヴィズルがシャインと行動を共にするとは思ってもみなかった。
じつに、信じられない事だ。
ティレグ――あの骨の随まで酒が染み込んでいる、むさ苦しい男。あの馬鹿が、シャインにスカーヴィズ殺しの真相を白状していなければ、すべてはまだツヴァイスの思惑通りに進んでいると思えたかもしれない。けれど真実を知ったヴィズルは、このままアドビスと戦う事を望むだろうか。
ツヴァイスは軽く息をつき、再び執務席に腰を下ろした。
ヴィズルはあてにならないにしろ、彼はあらかたアドビスと戦うための準備を整えていた。今ティレグを使って、最後の仕上げにかからせているが間に合うかどうかが心配だ。
何しろアドビスの船には、風を自由に動かせるリオーネが乗っている。
よって、二日以内に必ずこの海域へ姿を見せるはずなのだ。
ツヴァイスは右手を肘掛けに当てて、物憂げに頬をのせた。
どんな傷も、時が経てばそれが癒えるのだろうか。癒してくれるのだろうか。
どんな悲しみも、時が経てばその記憶が薄れていくのだろうか。
薄らいでしまうのだろうか。
静かに閉ざしたまぶたの向こうで、華奢な体の人物が朧げに浮かび上がった。
陽の光が踊っているように長い金の髪が輝き、たおやかな彼女の動きに合わせて、ふわりとそれが舞っている。
その煌めく一筋、一筋が、こんなにもはっきりと見えるのに――。
逆光のせいか顔がよく見えない。
形を成さない。
ツヴァイスは焦れて右手を彼女へと伸ばす。
もう一度その顔を見たかったのかも知れない。
幸せそうに微笑むやわらかな笑みを。
深い深い碧海色の瞳の中を覗き込み、そこに映し出される想いを、もう一度だけ確かめたかった。
『あなたはそれで、本当に満足だったのか?』
『あの男はあなたの心を傷つけた。それを恨んだことはなかったのか?』
ツヴァイスは両目を見開いた。
薄暗い艦長室の中で、ざわざわと潮騒の音だけがはっきりと聞こえて来る。
「リュイーシャ……」
問いに答える声はいつもこの耳まで届かない。
ただ、あれからいく年月もの長い時が、すぎていったことだけはわかる。
彼女の声を思い出せなくなっていたから。
時が無情にもその印象を薄れさせていくのが、たまらなく辛かった。
忘却という名の癒しはいらない。
欲しいのは……。
ツヴァイスは執務椅子に体を沈めたまま、問いに答える声を求め、じっと耳をすませ続けた。
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