4-71 優しい人
エアリエル号の
夕方の16時だというのに、先程急に泣き出した空にまだ雨雲が残っているせいで、周囲はなんとなく薄闇に覆われているような暗さを感じる。
下甲板から上甲板に上がって来たジャーヴィスは、当直の交代のため、船首の
アスラトルを出港してから36時間あまりがすぎた。エアリエル号は後方からずっと吹き続ける北風を受けて、その大きさと重量からは想像できないほどの恐るべき速さで帆走を続けている。
三本の黒いマストは、船がバランスを崩すぎりぎりの高さまで建材を継ぎ足され、そこには快速船並みに各々五枚の横帆が張られていた。
だがそれだけでは満足しなかったアドビスが、
船首の槍を思わせる舳先にも四枚の
ジャーヴィスはそれらの光景に圧倒されながら、風下の左舷側を歩き海図室へと向かっていた。
その途中、前方の
「何だってこんな急に、海賊退治なんか出かけることになったんだろうな?」
そう言ったのはジャーヴィスと同じ階級だが、四十前の年かさの男。茶色の顎ヒゲを蓄えたリュイットという名の中尉。
「さあ……。しかもやけに急いでるのが気になる。一時間ごとに船の進み具合を、士官候補生のバレルがグラヴェール中将に報告してるぜ」
そう答え、細身の体に両腕を巻き付けたのは、神経質そうな小難しい顔をした、同じく中尉のサーブルだった。
エアリエル号には水兵250名と海兵隊100名が乗っていて、艦長と副長以外の尉官はジャーヴィスとあの二人を含めて3名。尉官の手足となり、甲板を走り回る士官候補生は4名いた。
ジャーヴィスはリュイットとサーブルに当直の引き継ぎを受けようと二人に近付いた。しかし、二人は談笑していたので、何となくその話に割り込むことができずに、そのまま遠目から様子をうかがっていた。
だが当直をさぼっているわけではない。時折マストに張られた帆が弛んでいないか目をやり、海にも視線を向け、丸太など、船を傷つける漂流物がないか気を配る。そんなことをしながら、ジャーヴィスはすでに非番になっているあの二人の士官の話を聞いていた。
「海賊退治ならノーブルブルーにやらせればいいものを。まだ2等軍艦のウインガード号があるじゃないか。なんだって俺達が、こんな……」
サーブルはぐるりと辺りを見回し軽くため息をついた。
「そんな顔するなって。これはチャンスだぞ」
リュイットのヒゲ面には喜色が浮かんでいる。なぜそんな顔ができるのか、サーブルはよくわかっていないようだ。
「考えても見ろよ。参謀司令のグラヴェール中将自ら海賊退治に出かけるんだぜ? それをよくアリスティド統括将が許可したよな。つまり今回捕まえる海賊は、よほどの大物ってことだ」
「大物……か。だがそんな海賊はこのエルシーア海にいなくなって久しいぜ。他ならぬグラヴェール中将が、昔ノーブルブルーを率いていた時にあらかた駆逐してしまって、海賊と言う連中はみんな逃げ出したんだから」
リュイットは否定的なサーブルの言葉に舌打ちした。
「そんなことわかるもんか。現にジェミナ・クラスでは小物の海賊が最近また出没してる。とにかく、グラヴェール中将は、因縁のある海賊を見つけてそいつを捕らえたがってんだ。サーブル、今回はたんと拿捕賞金がもらえるかもしれねえぞ」
拿捕賞金ときいてサーブルは組んでいた腕を解いた。その両手が力を込めてぐっと握られるのをジャーヴィスは見ていた。
「そ……そうだな。それは考えてなかったぜ!」
「だろ? 上手くグラヴェール中将に恩を売って、手柄を立てれば昇進にもつながるぞ」
リュイットとサーブルは顔を見合わせ、小さく忍び笑いをはじめた。そしてこちらを見ているジャーヴィスに気付くと、急に真面目な顔つきになってそそくさと脇を通り過ぎた。
「……」
ジャーヴィスは黙って二人の背中を見送った。話しかけられなかったのは、別に大した引き継ぎもないからだろう。もしも何かあれば、海図室に置いてある航海日誌に記入してあるはずだから、それを読めばわかる。
それにしても。
ジャーヴィスは緊張感のないリュイットとサーブルに内心怒りを覚えていた。確かに今は戦時ではないゆえ、金や縁故が無い限り、昇進なんてとても望めない。それはわかるが。
ジャーヴィスはゆっくりと首を振り、自らの内に湧いた怒りを鎮めた。
あの二人は知らない。
いや、この船に乗っているほとんどの人間は、今回の任務が海賊退治としか知らされていない。
『この内容は私とお前、そしてリオーネと艦長ブランニルしか知らぬ。他言無用だぞ』
エアリエル号に乗りこみ、艦長室にいたアドビスと挨拶を交した時、見せてもらったヴィズルの手紙が脳裏に浮かんだ。
『この手紙を託した日より数えて一週間以内に出港すること。貴様が乗る船一隻でくること。そのどちらかが破られた時には、貴様にとって一番大切なものの命を奪ってやる。心当たりがないのなら、同封の指輪に目を止めよ』
ジャーヴィスはヴィズルの手紙の内容に動揺したものの、それを見せてくれたアドビスが、自分を信用してくれたことをうれしく感じた。その後アドビスは考える事があるからと、ジャーヴィスが質問する時間を与えずに退出を命じた。
短いアドビスとの会見を思い出しながら、ジャーヴィスは海図室に向かいつつ、メインマストの前で足を止めると、波飛沫の上がる左舷側の船縁に手をついた。
雲に覆われた空のせいでいつもは深い青緑をした海が灰色を帯びて濁っている。まるで不安を感じる自分の心境が、そのままそこに映し出されているようだ。
ジャーヴィスは水平線を見つめながら、そっと右手を上げてかさついてきた唇に触れた。
『必ず私の所へ帰ってきなさい。生きて――』
リーザの声が北風に乗って聞こえたような気がした。
◇◇◇
「まったく! 自分の事は棚に置いといて、他人の事ばっか気にしやがって。人の事を言う前に、まず自分の足で、ちゃんと立ってみろってんだ」
ヴィズルは左手に持っていたクトル酒の空きビンを、調理室の中にある保管庫に放り込んだ後、下甲板から上甲板へ出た。
空はまだ灰色の曇で覆われていたが雨はやんでいた。雨雲の合間から射す陽の傾き加減から察するに、おそらく16時をすぎたところだろうか。雨雲と一緒に来た風が北から弱く吹き付けてきて、ロワールハイネス号の舳先に上げられた
「……」
北風に銀灰色の髪を揺らしながら、ヴィズルはふと背後を振り返った。
後部甲板の舵輪の前に、ロワールが立っていてこちらをながめている姿が目に入る。
「お疲れさま、ヴィズル」
目が合うとロワールははにかんだ笑みと共に、ヴィズルが予想もしていなかった言葉を発した。それを聞いたヴィズルは、体をぶつけてびりびりと刺激が走るような、奇妙な衝撃を感じて肩をすくめた。
「何だよ、気味悪ぃな」
ぶるっと体を再び震わせながら、ヴィズルは後部甲板へまっすぐ歩いて行き、ロワールが立っている舵輪の側まで近付いた。
ロワールは何か面白いものでも見るように、ヴィズルを頭のてっぺんから足の先まで、実に良く動く水色の瞳を光らせてながめている。
「ありがとう」
「は?」
意味の分からないヴィズルは面喰らって頭をかいた。ロワールには嫌われているはずだから、どうして礼を言われるのかわからない。そんなヴィズルを見ながら、ロワールはくすりと小さく微笑してつぶやいた。
「シャインのことよ。あなたたちの話、聞いてたの。私」
ヴィズルは一瞬目を見開き、さらに頭をかいて、手すりに両腕を乗せた。
「俺は別に礼を言われるようなことなんか、何にもしてないぜ」
ロワールはゆっくりと首を振った。
「ううん。シャインはずっと一人だったから、あんな風に言ってくれる人が周りにいなかったの」
何時の間にかロワールがヴィズルの隣に来て、同じように手すりに腕を乗せた。夕焼け色のウエーブした髪がふわりとなびき、乱れ髪がほんのり赤味を帯びた頬にかかる。ロワールは自然な仕種で片手をつと上げ、それを払う。
風にあおられて舞う髪を見るロワールの横顔が、その時だけヴィズルの目には艶めいてみえた。
「へっ……俺は別に、奴の事を思って言ったわけじゃねえよ」
彼女から目を離せずにいたことに、内心舌打ちしながらヴィズルはふと感じた。船の精霊も年を重ねれば成長する。初めて会った時に思った通り、あと数年もすればロワールは、ヴィズルが子供扱いできないくらいの容姿になれるだろう。きっと。
「それでもいいの。シャイン、やっと自分の気持ちと向き合う事ができたみたい」
「そうか、そりゃよかったな」
そっけなく返事を返したのに、こちらを見るロワールはうれしそうだった。
「ヴィズル。あなたの事、いろんなことで好きにはなれないけれど、本当は優しい人なのね」
「ぶっ!!」
ヴィズルは両腕を手すりから離し、体を走り抜けた悪寒を追い払うため、そのまま両手で腕をさすった。
「嫌いなら嫌いなままでいい。だから、そんな事を言うのはやめろ」
くすくすとロワールが笑う。くるくると水色の瞳がきらめく。
「なによ。褒めてあげたのに、素直に喜びなさいよ」
ヴィズルはむっとした。
優しくなどない。
たが、シャインほどではないが、お節介な面が自分にあることをヴィズルは意識していた。
「うるせえな。俺はただ……」
「ただ、何よ」
ヴィズルは一瞬だけロワールと目を合わせると、再び手すりに腕をのせて、顔は正面を向いたまま口を開いた。
「俺はいろんな人間――いい奴、悪い奴ごったまぜにして、付き合ってきたからな。それに、いつも誰かが俺の周りにいたから、自分が一人だと思った事はなかったぜ。アドビスと互角に戦える力を得るために、あくせくしたこの十年間は本当に楽しかった」
ヴィズルは目を細めて虚空をながめた。
「けど、シャインのような奴は初めてだぜ。なんであそこまで自分の気持ちを殺さなくてはならないのか、俺にはわからねえし……わかりたくもねえ」
「ヴィズル……」
ロワールがうなだれたが、ヴィズルは彼女を慰める言葉をかけなかった。
ロワールが黙り込んでしまったので、ヴィズルもまた口を閉ざした。
風は相変わらず北寄りの方向から吹いている。
正直、この海域に留まるのはもう飽きた。
「ロワール、そろそろ船を動かそうぜ。俺は帆を張ってるから、あんたはちょっくらシャインを呼んできてくれよ」
ロワールは一瞬むっとしてヴィズルを睨んだ。
「私をパシリにするなんて、いい度胸してるじゃない」
ヴィズルは思いきり口元を歪め、できうる限りの意地悪い微笑を浮かべた。
「シャインは今いじけてるから、あんたの方がいいんだよ。なんなら下で乳繰りあっててもいいんだぜ。俺は邪魔しな――」
「あなたって、やっぱり最低ーー!!」
ロワールが電光石火のごとく右手を振り上げて、まさにヴィズルの左頬へ平手を放とうとした時だった。
「……船だわ」
ロワールは弾かれたように右手を振り上げたまま、前方を見つめていた。
「へっ?」
ヴィズルも同じように、目の前の青い水平線の彼方に視線を向けた。灰色の雲より少しだけ明るめの、白い帆を張った船が確かに見える。
「大きいな。ひょっとして、
ヴィズルは唇を舐めて近付きつつある正体不明の船を睨み付けた。海賊の本能がここに留まり続ける事の危険を伝えている。そんなヴィズルの不安を感じ取ったのかロワールが叫んだ。
「シャインを呼んで来るわ」
「ああ。頼んだぜ」
ロワールの姿が舵輪の前から瞬時に消え失せた。
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