4-73 護衛船
北風が一段と強くなったようだ。
艦長室からロワールハイネス号の後部甲板に出てきたシャインは、風になぶられ乱れる髪を左手で押さえながら辺りを見回した。
「左舷側……正面だ、シャイン」
前方の
灰色の低くたれ込めた雲が驚く程の早さで南に流れ、その切れ間から薄い水色の空がのぞく真下の海面に――白い帆に風を余す事なく受けて走る大型船の姿が見える。
まだ距離が離れていて親指の爪ぐらいの大きさだが、それでも快速船並みに高いマストが目につく。
エルシーアの商船だろうか?
速度を必要とするためより多くの帆を張れるように、季節物を運ぶ商船のマストは軍艦のそれよりかなり高く作られているが。
シャインはその可能性を打ち消した。
商船にしてはものものしさを感じた。そして国旗を上げていないのが気になる。だからといって、アドビスの乗っている海軍の船にしては小さいようにも思えた。
シャインは目が痛くなる程、刻一刻と近付いて来る船を睨みつけるように眺めた。
「エルシーアの船だと思うけど……遠くてよくわからないな。海図室に行って望遠鏡を取って来る。だからヴィズル、君は舵を頼む」
メインマストの
「方角は?」
何の違和感も覚えずにシャインは口を開いた。
「東へ。船の正体がつかめないうちに、こちらに近付かれるのは嫌なんだ」
「わかったぜ。シャイン――」
船首の海図室に行こうとしたシャインの背中に、そっと含みを帯びたヴィズルの声が響いた。足をしばし止め、シャインはけげんな表情で振り返った。
ヴィズルの紺色の瞳が冷ややかに、けれどしっかりとシャインの姿を捉えている。
「それがお前の覚悟ってやつか。結局、本当の自分を隠しちまっただけのようにも見えるけどな」
シャインは黙ったまま目を細めた。アドビスに会うのだから服装を改めただけのことだが、ともすれば萎えてしまいそうになる自分の気力を保つためでもあった。
自分の成すべき事から逃げ出さないように。
ヴィズルはそれを見抜いている。見抜かれている事が、さらに自分の弱さを指摘されたようで、シャインはたまらないほどの気まずさを覚えた。
「だとしたらどうだっていうんだい? そう思うのは君の勝手だ」
シャインはさっさときびすを返し、無理矢理ヴィズルから視線を引き剥がすと、望遠鏡を取りに海図室へと向かった。
ロワールハイネス号は北東寄りの針路で船を進めていたが、ヴィズルが舵輪を回して東へ方向転換をした。海図室に入ったシャインは、まったく片付けられていない吟味台の上に、海図が置きっぱなしになっているのを気にしながらも、引き出しを開けて折り畳み式の望遠鏡を取り出した。
海図室から飛び出して、左舷後方から近付いて来る国籍不明の船を望遠鏡で覗く。上下に揺れる甲板の上で、シャインはふと脳裏をよぎった記憶に思わず息をつめて、再び望遠鏡の中に映る船の姿をながめた。
商船より横幅が広めで、ずんぐりとした船体。真珠色の塗料で塗られており、その船体の側面には二層にわたって、砲門蓋らしき窓が幾つも並んでいる。
上甲板にもおそらく近距離用だろう。大砲の黒い砲身がいくつも突き出ているのがわかる。あの船は二、三等級の軍船に相当する大きさだが、海軍の船ではないとシャインは確信した。
海軍の船にしては無骨で地味すぎる。高めのマストはエルシーアの船に多く見られる特徴であるが、あの船は一本のマストに五枚も帆を上げている。五枚も上げると、ちょっとした突風でも船はバランスを乱して転覆しかねない。
だから海軍の船は船体を安定させるため、一本のマストに上げる帆の数は四枚までと決められているので、あの船は規定外の設計の船だとわかる。
シャインは望遠鏡から目を離し、先程よりぐっと近付いて来た船に、体中の毛が逆立つような違和感を覚えた。
速すぎる。
親指の爪ぐらいの大きさだったその姿が、一気に距離を詰めて、今は握り拳ぐらいにまでなっている。まだ数分しか経っていないのに。
そう――ロワールハイネス号を向こうも見つけ追跡にかかったのだ。
船を一瞥して、シャインは急ぎ後部甲板で舵輪を握るヴィズルの元へ戻った。ヴィズルの左隣にはロワールも立っていて、シャインの心境を察したのか幾分不安そうな眼差しでこちらを見つめている。
「ヴィズル、あの船は多分……エルシーアの護衛船だ」
「護衛船?」
おうむ返しに繰り返すヴィズルに、シャインは軽くうなずいてみせた。
「ああ。何度か見た事がある。いつもはエルドロイン河で、河に侵入する船舶を監視するのがあの船の役目なんだが……」
ヴィズルが小さく舌打ちする。
「なんだってそんな船が、海をうろついてやがるんだ」
ヴィズルの言う事はもっともだ。それをまさにシャインも考えていたが、口に出した言葉はまったく別の物だった。
「そうだね。だからヴィズル……逃げよう」
「逃げる?」
拍子抜けたヴィズルの声が甲板に木霊した。
紺色の瞳を見開き、わずかに口を開けたままぽかんとシャインを眺めている。
シャインは勘違いするな、といわんばかりにヴィズルを睨んだ。
「なんで護衛船が海にいるかわからないけど、ひょっとしたら海軍の要請を受けて、エルシーア海を捜索しているのかもしれない。ヴィズル、君は知らないだろうけど、ロワールハイネス号は海賊に
「こ、攻撃されるのー! 私」
ロワールが両手を血の気の失せた頬に添えて叫んだ。
「確かに……そいつはやばいな。あんな大きな船に攻撃されたら、この船は一貫の終わりだぜ」
軽くため息をついたヴィズルの側で、ロワールがさらにさらに顔を青ざめさせてわめいた。
「嫌ー! なんで海軍の船である私が攻撃されなくっちゃならないのよ!? 冗談じゃないわよ。逃げるんなら何が何でも逃げ切ってやるわ。私とシャインを引き裂こうったって、そうはいかないんだから」
ロワールはひしとシャインの腕にすがりついた。それを見たヴィズルが冷やかすように目を細める。シャインは軽く頭を振り、自分を見上げるロワールの視線を受け止めた。
ロワールに言われるまでもない。
彼女をこんなことで失うなど、あってはならないことだ。
「ロワール、しばらく君に舵を頼みたい。俺はヴィズルとこれから全部の帆を上げてくる。針路は北東で、なるべく風に切り上がって進んでくれ」
「わかったわ! 任せて!」
ロワールは大きくうなずき、ヴィズルに目線で場所を代わるように訴える。
ヴィズルは仕方なさそうに頭を手でかきながら舵輪の柄から手を離し、シャインの隣へ移動した。
「敢えて風上へ逃げるのか?」
シャインとヴィズルはまだ上げてなかった、
「風上へは縦帆で構成されているロワールハイネス号の方が有利だ。追い風だと、あっちの船の方が横帆の枚数が多いから一気に追いつかれてしまう」
「だろうな」
シャインとヴィズルは瞬く間にミズンマストの帆を上げた。ロワールハイネス号は針路を東から北東へと変更して、後方から追跡してくる護衛船との距離を離しにかかる。風上へ向かっているというのに、護衛船はロワールハイネス号の船尾方向からぴったりとついてくる。
方向転換したので、
「シャイン! 風向きが変わったわ!」
ロワールの声が聞こえたかと思うと、北寄りから吹いていたそれが、西風に変わった。ロワールハイネス号の船首が風下に落ちる。各マストの帆が一斉にばたばたと耳に響く音を立てて鳴り出した。
「くそっ!」
シャインとヴィズルは再びマストに取り付いて、帆が風を受ける角度の修正をするため上げ綱の結び目を解く。
シャインは小さく毒づきながら後方を振り返った。西風をすべての帆に受けて、はちきれんばかりに膨らんだ護衛船が、肉眼でもはっきりと甲板の上で動く人の姿が見えるくらいの距離まで近付いている。
船首が上から波を押しつぶすように、白い泡をたてて迫ってくる。
横付けされるのは時間の問題だ。
「シャイン」
シャインの懸念を察してか、ヴィズルが同じように後方を睨みつけながら口を開いた。先程まで余裕を浮かべていた浅黒い顔に緊張が走り、頬がぴくぴくと引きつっている。
「あの船……術者が乗ってるぜ。術者が風向きを変えやがった」
「本当なのか?」
きっとリオーネだ。
シャインはヴィズルに問いかけつつ、確信をもってそう思った。
「聞こえたんだよ。あの船に乗ってる術者が、『停船しろ』って言ってきやがった。どうする?」
ヴィズルの瞳は静まり返った夜の海のように、暗くて感情が読めなかった。
ヴィズルが何を考えているのかわからないが、この場の判断はシャインに任せるつもりなのだろう。
護衛船の船首の甲板には、水色の服を着た人間が十数人集まっている。きっと海兵隊の連中だ。ロワールハイネス号に追いついて、横に並んだ所で停船勧告をするつもりなのだ。勿論、それを無視すれば容赦なく発砲してくるに違いない。
「ヴィズル」
シャインはヴィズルに呼びかけた。視線は護衛船の船首に向けたままで。
「停船したら、君はこのままロワールハイネス号の船倉に隠れてくれ」
「なんだと?」
ヴィズルの声はシャインの言う事が理解できないせいで怒気が含まれていた。
シャインはゆっくりと振り返り、ヴィズルの不機嫌な顔を見つめた。
「アドビス・グラヴェールがあの船に乗っているとは限らない。海軍の依頼でロワールハイネス号を探している連中なら、君の素性を知っていて拘束されるかもしれない」
ヴィズルはへらへらと薄笑いを浮かべた。
「アドビスが乗ってたって、俺は捕まえられるかもしれないんだぜ。何だよ、お前は俺を守ってくれるんじゃなかったのか?」
シャインはうつむいた。
「すまない。だからこそ
シャインは自分の不甲斐なさに唇を噛みしめた。
その時は、ヴィズルとアドビスの戦いを止められないのだ。
護衛船の連中に自分の素性を明かして島に向かっても、すでに二人の戦いは始まって、どちらかが
「……ま、最初っから乗り気じゃなかった話だ。そん時は俺が逃げても文句言うなよ、シャイン」
「ヴィズル!」
ヴィズルが長い銀髪を翻して後部甲板の方へ向かって駆けた。その動きを目で追っていたシャインは、ふとロワ-ルハイネス号の上に濃い影が覆い被さってきた事に気付き、左舷側の海上に視線を向けた。
大きく波飛沫を上げて護衛船がロワールハイネス号から数十リールという近い距離で並走している。甲板にずらりと長銃を構え、いつでも撃てる体勢で待機している海兵隊の姿も――。
シャインはメインマストから離れ、左舷側の船縁へ近付いた。
エルシーア海軍の外洋を模した、鮮やかな青色の軍服をまとった恰幅の良い男が、両手を口に当てて叫んでいる。
「そこの船! ただちに停船しろ!! 勧告を無視すれば砲撃するっ!」
シャインはメインマストを両側から支える、格子状に組まれた
マストの下で待機している白いシャツ姿の水兵達。右舷側の大砲は、こちらに照準を定めて、いつでも攻撃可能な事を示している。側に立つ小柄な年若い士官候補生が、水兵達に指示すれば、十数発の鉄の玉がロワ-ルハイネス号を打ち砕くことだろう。
「止まれ! おい、聞こえないのかっ!!」
「シャイン、どうするのっ!?」
ロワールの声にシャインは軽く息をつい、眉間をしかめた。
わからない。
アドビスがいるかどうか、今の時点ではわからない。
シャインは舵輪のある後部甲板をみやった。
ヴィズルの姿は甲板のどこにもない。どうやら身を潜めたようだ。
「ロワール、船を止めてくれ。君を失うわけにはいかないから」
「シャイン」
舵輪の前に立つロワールに、シャインは薄く笑みを浮かべた。
ロワールが一瞬だけ、憂いを帯びた表情でこちらを見た。だが次の瞬間、彼女はロワールハイネス号を自分の意志で風上へ向けて船の行き足を落とした。
ロワールハイネス号が停船する気配を感じてか、それまで強く吹いていた西風が徐々に弱まってくる。
「シャイン、いいの? 本当にこれで」
帆から風を抜き、ロワールハイネス号を完全に止めて、ロワールがシャインの傍らにふわりと飛んで来た。
シャインは甲板でじっと見つめていた。
護衛船が上陸用のボートを下ろし、武装した海兵隊をそれに乗せて、こちらへやってくるのを。
「ヴィズルに連絡したいことがあったら君を呼ぶ。俺がいつまでたっても戻らなかったり、君に海軍の人間が乗り込んだ時は、構わず船を動かす者の指示に従うんだ。いいね、ロワール」
「シャイン……どういうことなの? 一体どうなるの? 私は……」
ロワールが左腕をつかんで引っ張っている。彼女はシャインがこれからどういう立場に置かれるのか、よく理解できていないのだ。だからこんなにも、胸が苦しくなるほどの不安をシャインに直接ぶつけてくる。
「ロワール、俺もこれからどうなるのか、よくわからないんだ。でも……」
シャインは身を屈めてそっとロワールの肩を引き寄せた。
あの時――ヴィズルに囚われていた時と比べて、ロワールはすっかり元の力を取り戻している。ロワールの肩が透けていないことに安堵を覚え、彼女の柔らかな紅髪の感覚を、冷たくなった頬に受けながら、シャインは惜別の言葉を口にした。
「また後で会おう」
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