4-70 止まない雨

「シャイン、お前」


 シャインは黙ったまま顔を上げた。ヴィズルの浅黒い肌が赤く上気している。

 きっと飲み過ぎだろう。クトル酒のアルコール度数はワインの三倍と高い。


「苦しいのなら水を持ってこようか。君、顔が赤いし」

「馬鹿野郎。これはのせいじゃねえ」


 ヴィズルがぶるっと体を震わせて、再びシャインを睨んだ。


「お前のそんな、物事に流されるままの生き方に腹が立ってるんだよ、俺は。お前、それで本当に満足してやがるのか? それでいいと思ってんのか? 他人に利用されて、他人のために殺される事を本当に望んでやがるのか?」


 シャインはヴィズルの口から出る言葉の奔流に、ただ圧倒されていた。酒の勢いがついたヴィズルは、さらに口調激しくまくしたてる。


「いいか、俺はお前のように陽の当たる場所で、安穏と今まで生きてきたわけじゃねえ。15になる前まで、いつも海軍や賞金稼ぎの追っ手の影に怯えてた。絶対に捕まりたくねえし、死んでたまるかと思っていた。アドビスに復讐するまではな。


 そうだ、俺はいつだって自分の気持ちに正直に生きてきた。アドビスへの復讐だって、何年かかってもやりとげると自分で決めた。たとえ奴にかなわなくて、命を落とす事になってもな。俺はそれを少しも後悔などしないし、それでも構わない。俺が自分で決めたことだ。自分でそうしたいと思ったことだからだ」


 ヴィズルは大きく肩を揺すらせて、そこで荒くなった呼吸を整えた。

 口を湿らせるために、酒をビンから一口あおる。


「お前にはないのか? えっ? 自分のために何かをしたいと思った事はないのか?」

「それは……あるさ」


 ヴィズルの気迫にやや押されながらシャインは口を開いた。


「少なくとも今は、君の誤解を解きたいと思っている。スカーヴィズを殺したのはあの人じゃないから。だけど」


『そういう意味じゃない』といいたげなヴィズルの顔をながめつつ、シャインは言葉を続けた。


「君は君なりの理由で、あの人と戦う準備をしてきた。気持ちはわかる。しかし、君が起こそうとしている戦いに、巻き込まれる人達のことを考えた事はあるのかい?」

「何」


 喉の奥で唸りながらヴィズルがつぶやいた。


「あの人も海賊には容赦しない。君達だって必死になって戦う。双方――無意味な戦いで、多くの犠牲を出すだけだ」

「無意味なんかじゃねえ!」


 ヴィズルの左拳が応接机を激しく打った。


「俺の手下の中には、親をアドビスに殺された奴もいる。そいつらが仇をとることは立派な戦う理由だ。俺は頭として、そいつらのために力を貸し、命のある限り奴と戦う」

「ヴィズル……」


 シャインはきりと痛んだ胃に左手を添え、長椅子の背に寄り掛かった。

 どうしても避けられないのか。


 ヴィズルとアドビスが戦う理由は一つだけではない。

 ストームの顔が浮かんだ。

『真実を知ったところで、うちの頭を止める事はできないよ』

 そう。二十年前、エルシーア海賊を駆逐したのは、他ならぬアドビス自身なのだから。



 黙りこくったシャインを見ながら、ヴィズルは三本目のクトル酒を飲み干した。空になったビンを机の上に無造作に置き、ふうと軽く息をつく。


「――シャイン、お前の言いたいことはそれだけか?」


 激情にまかせたままのそれより、幾分落ち着き払った声だった。


「……」


 シャインは目を伏せてヴィズルから視線をそらせた。

 これ以上の話し合いは無意味だとわかっていたから。

 自分にはヴィズルの決意を思い留まらせるだけの力や手立てなどない。


「ま、お前はお前なりに考えたんだろうが――俺にも譲れない思いがあるからな。黙ってやがるが、本当にもう、はないのか?」


 シャインはうつむいていた面を上げた。


「ヴィズル。君達の辛い過去や、大切な人達を失った悲しみは当然だと思う。それでも俺は――」


 ぴしゃりとヴィズルが机を叩いた。再び憤怒の形相でシャインを睨む。

 胸の中がもどかしいように、その顔が引きつっていた。


「お前、俺の言っている意味がわかってねえな! 俺は、『言いたい事』はないかときいているんだ」


 シャインはまばたきを繰り返した。


「どういうことか、意味がわからない」

「がーっ!!」


 ヴィズルが両手で頭をかきむしった。

 何が彼をそれほどまで苛立たせているのか。

 シャインは理解できず、ただその様子を黙って見つめていた。

 紺色の瞳を見開き、ヴィズルは応接机に両手をついて身を乗り出した。


「俺はな、お前の気持ちをきいてるんだよ。シャイン。やれ双方が多くの犠牲を出すとか、そんな他人事今は放っておけ! 建前じゃなくて本音をきかせろって言ってんだ! お前は自分の気持ちに、正直になることすらできないのか」


 シャインは身動きできないまま、ヴィズルの深い紺色の瞳に映る、自分の顔を凝視していた。


 胸の奥で何かがざわめく。

 深く深く沈ませた感情が、再び込み上げてくるような感覚。

 今にもそれが這い出してきそうだ。

 ――抑えないと。


 思わずうつむいたシャインの肩をヴィズルが掴んだ。否応なくそれを揺さぶられ、シャインはヴィズルの突き刺さるような眼差しに思わず目を逸らせた。


「ヴィズル、手を放してくれ。君は酔ってるんだ」


 ふんと鼻で笑うヴィズルの低い声がした。


「だったらどうした。お前が言えないのなら俺が言う。お前のまどろっこしい言い方にはもう飽きた。お前は、俺がアドビスを殺すのを止めたいんだ」


 シャインを睨むヴィズルの目が、満足げに細くなる。

 シャインはそれを見ながら、自分の体が一切機能をするのを止めてしまったかのように、指一本動かせないのを感じた。思考すらも止まり、ヴィズルが何を言ったのか、その意味をよく理解できないのを感じた。


 本当に止めたかったのは――。

 再びヴィズルがシャインの肩を揺すった。


「アドビスはお前の父親だ。そう思うのは当然――」

「そんなこと、わからない!」


 シャインは自分の肩からヴィズルの手を振りほどいた。胸に込み上げる熱いものを何とか飲み下し、自分の荒い息遣いで我に返る。


「どういう意味だよ、それは」


 シャインの態度に戸惑っているのだろう。驚いているヴィズルの顔が見えた。


 ――どういう意味かって? 

 シャインはこめかみが激しく脈打つのを感じて左手を添えた。


「わからないんだ。俺はあの人のことが……。あの人の気持ちがわからない。あの人と、どういう風に接すれば良いのか、全然わからないんだ!」


 ヴィズルはその場に立ち尽くしたまま、シャインを見下ろしていた。

 少し冗談混じりに、軽い口調でつぶやく。


「わからないって、アドビスはお前の父親で血の繋がった家族だろうが」


 シャインは頭を垂れた。その両肩にはまだ湿った髪が、濃い光沢を放ちながらうねっている。シャインは華奢な肩を震わせていた。


「そんな風に……あの人のことを思うことなんて、俺にはできなかった」


『何故?』

 口を少し開き、じっとこちらを見つめるヴィズルの視線はそう語っていた。


 シャインはそれに目を止め、自嘲気味に唇を引きつらせると、左手でそっと自分の首を押さえた。どくどくと脈打つ鼓動が指に伝わってくる。

 己が生きていることを、それが否応なくシャインに教えている。


「……俺はある日、死んだ母の眠る岬であの人と出くわした。あの人は俺が母に花を手向けることを、余計な事だと言い捨てた。その理由を問いただしても、あの人は何も答えてくれなかった。反対に、俺の首に手をかけて、こう言った。


『そう、それでいい……。お前は私を憎めば良いのだ。それで気が済むのならいつまでも……な』


母をないがしろにしたあの人を、俺は本当に許せなかった。そして、俺もあの人に殺されるんだと思った」


「シャイン」


 シャインはため息を一つついて、首から手を放した。


「俺はあの人が自分の都合のために、母を死に追いやったのだと思っていた。でも、やっと本当の事を知ったんだ。二十年前、スカーヴィズが殺されたあの夜。海賊船に追われるあの人を助けるために、母は術者の禁忌を冒して大嵐を呼び、命を落としたのだと」


 ヴィズルは何度か大きくまばたきしてシャインを凝視していた。


「噂じゃなかったのか……俺のガグンラーズ号を飲み込んだ嵐を起こしたのは、本当に……お前の母親が?」


 シャインはゆっくりとうなずいた。


「あの人が教えてくれたんじゃないけどね。だけど俺はすべてを知った。あの人が、自ら母を手にかけたのではなかった。そして今は、母を死に追いやったことを、恐らく悔やんでいるかもしれないと思う」


 シャインは椅子に腰を下ろしたヴィズルを戸惑いがちに見つめた。


「だから俺はあの人を憎む事もできず、かといって慕うこともできず……どう接すればいいのかわからないんだ。あの人は……俺を避けているから」

「何故お前をアドビスは避けるんだ?」


 当然のように聞いてきたヴィズルへ、シャインは肩をそびやかした。つと左手で、肩から滑り落ちた金の髪を梳き、それが白い指の間から落ちていくのをじっと見つめた。


「俺は母に良く似ているそうだ。あの人がもし――俺の存在で死んだ母への罪を思い出すのなら……それが苦しいのなら……あの人はずっと俺を避け続けるだろう」

「……けっ!」


 ヴィズルが舌打ちして、応接椅子の背にひっくり返った。


「だからお前はって言ってるんだよ」


 シャインはむっとするよりも、胸の内をえぐられたように痛みを感じて眉をしかめた。


「君には俺の気持ちなんかわからないさ」

「そういう意味じゃねえよ。でもな、シャイン」


 ヴィズルは両手を組んで、軽く息を吐いた。こちらを見る紺色の瞳には、シャインを責めるような光は浮かんでいなかった。


「お前がどんなに母親に似ていようが、お前はお前だ。死んだ人間は戻って来ねえ。だから、お前は母親とは違うんだって、なんでアドビスの野郎にわからせようとしない?」

「……わからせるって、どうやって」


 気を抜けば行き場のない感情が堰をきって溢れだしそうになる。

 シャインは唇を噛んで自分を抑えた。


「ま、ちょっと意味合いは違うんだがよ。お前、前にこんなこと言ってたな。

『俺はあの人に縛られている』って。

 だけどそれは、お前がそう思い込んでいることなんだよ。お前はアドビスに頼らなければ生きていけないのか? そんなことはないはずだ。


 俺はロワールハイネス号を操るお前の腕を知っている。変に知識をひけらかず、そして目的地にたどり着くため、敢えて危険な海域を通る勇気を持っているのも知っている。お前次第なんだよ。留まるのも、もっと広い世界を自分の目で見るのも。だから、甘ったれるのもいい加減にしろよな。シャイン」


 ヴィズルは再び立ち上がり、銀髪を翻してシャインを見つめた。


「何もしないくせに、すべてを諦めるなんて一番最低だぜ!」


 ヴィズルは鋭く言い放つと、机の上に置いていたクトル酒の空きビン三本を左手で握りしめた。そのままシャインに背を向けて艦長室の扉へと歩いていく。


「ヴィズル」


 シャインは立ち上がり、その背に向けて呼びかけた。肩に羽織っていただけの航海服が、小さな音を立てて床に滑り落ちる。

 だがシャインはそれに構わず、ヴィズルの背中を見つめていた。

 今まで誰に頼る事なく、自分の力のみを信じて生きてきた、彼の言葉の重みを噛みしめながら。


「酔った。甲板に出る」


 ヴィズルは振り返る事なく部屋から出ていった。

 一人残されたシャインは、それをただ呆然と見送ると、再び長椅子に腰を下ろした。背中を預け、目を閉じると、今まで窓に打ちつけていた雨音がしなくなったことに気付いた。

 ――雨はやんでいるのに。

 頬を伝う温かな雫は、いつまでも止めどなく流れ落ちていくのだった。


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