4-69 本音と建前

 穏やかで絹糸のような雨がしとしとと降っている。まだやむ気配はない。

 ロワールハイネス号は舵輪が勝手に動かないようロープで固定されて、未だ一時停船を続けていた。


「急ぐ必要はない。アドビスはこっちに向かってるからな」


 そう言ったヴィズルの言葉を、シャインは驚きを隠しつつも信じた。

 以前囚われの身であった時、ストームからそんな話を聞いていて覚えていたからである。ヴィズルはシャインを囮にして、アドビスを島へおびき出すのだと。


 最も、アドビスが島にやって来るまでに合流しなくてはならないのだが、シャイン達はそれぞれ思い思いにひと時の休息をとっていた。ロワールもしばし人の姿をとることをやめて、今は船尾の船鐘で眠っている。



 約一日半ぶりに出たロワールハイネス号の後部甲板で、シャインはヴィズルが並べた10個ほどの樽を眺めた。中身を覗いてみると、少しだが雨水が溜まっていた。

 シャインはそれを一つの樽に集めて量を確認した。

 大体樽の六分の一ぐらいだろうか。節約すれば、飲料水として数日は持つだろう。


 船上で真水は貴重だ。今は体を洗う事には使えない。

 シャインは手早く服を脱いで曇った空を映す灰色の海へと飛び込んだ。

 アスラトルを離れて一週間になるが、その間体を清められたのは、牢に入れられていた時の一回だけだった。


 海にひとしきり浸って肌にべたつく汗の感覚と、すえた体臭からやっと解放されたのを感じる。

 シャインは黒ずんだ金髪から水滴を滴らせながら船に戻った。後部ハッチの扉へ行き、足元に置いていた乾いた布を拾い上げ、手早く体の水分を拭き取る。震えだした体を布で巻きつけて、シャインはそのまま階段を下り、自室である艦長室に入った。


 クローゼットから洗濯ずみの衣服を着込み、外洋の青を模した航海服を肩に羽織ると、やっと人心地がついた気分になった。

 シャインは執務机の前の長椅子に腰を下ろし、まだ湿る髪を乾いた布でごしごしと拭いた。

 

 その時、空腹はあまり意識していなかったが、シャインはよく知っている香りが漂っていることに気付いた。はっと我に返り、顔を上げた時、艦長室の扉は開いていて、そこにヴィズルが立っているのが見えた。


「なんだ、いたのか」


 ヴィズルは大きめの口を斜めに歪め、ふっと微笑した。手袋をはめている彼の手には、左手にクトル酒のビン、右手に白いティーポット。ティーポットからは、お馴染みのシルヴァンティーの香りが漂っている。


 ヴィズルはずかずかと部屋の中に入ると、それらを応接机の上に置いた。恐らく彼が用意したのだろう。ダフィーの入った鉄の箱が一つと、調理室にあったグラスと白いカップがすでに机の上にのっている。


 ヴィズルはシャインの向かい側の応接椅子にどっかと座り込み、クトル酒の茶色いビンを手にすると、琥珀色のそれをグラスに注いだ。


「俺はクラウスじゃないから、お前好みの茶は入れられないが、それでいいのなら飲めよ」


 シャインはティーポットを指差したヴィズルに、少し驚きつつうなずいた。

 一時休戦したとはいえどういう風の吹き回しだろうか。ヴィズルの親切な態度がちょっと薄気味悪い。


「ありがとう」


 シャインは取りあえず礼を述べ、ヴィズルが作ってくれたシルヴァンティーを、ティーポットからカップに注いだ。白い湯気から甘酸っぱい香りが立ちのぼり、胸一杯にそれを吸い込む。疲れきった心が癒されるようだった。


 そんな香りに誘われるまま、シルヴァンティーを飲む一瞬、シャインはふと思い出していた。ツヴァイスに一服盛られた時のことを。

 だが口に含んだ茶は、いつものそれとさほど変わらない味だった。ヴィズルはそんなシャインには興味がないらしく、まったく気付かぬ素振りで、すでに酒を干したグラスに再び酒を並々と注いでいた。


「あーもう生き返ったぜ! まったく!」


 銀髪を振り乱し、調子良く膝を打つ。

 ヴィズルは心の底から酒を楽しんでいるようだ。


「さてと、こいつを食うか。こんなもの、いつもならとても食えたもんじゃないんだけどよ」


 ダフィーは非常食のため、味よりも保存がきく事を優先されて作られている。

 固い、味がない、腹一杯にならない、と三拍子揃った最悪の食料。

 シャインもこればかりはヴィズルの意見に賛成だった。


 けれど背に腹は変えられない。ヴィズルはダフィーの入っている鉄箱の封を開け、中から一口大の大きさのそれをつまみあげた。


「はー、かっちかちだぜ」


 ヴィズルは銀の眉をひそめ、指の力を抜いた。

 ダフィーが板張りの応接机の上に落ちる。耳につく硬質の音が響いた。

 途端、ヴィズルは腰のベルトに差していた、あのブルーエイジの短剣を抜くと、それを逆手に持ち柄頭を下にして、一気にダフィーめがけ振り下ろした。


 ダフィーが五、六個の破片となって砕ける。ヴィズルはそれをつまんで口の中に放り込んだ。ごりっとダフィーを噛み砕く音が響く。ヴィズルはクトル酒を喉に流し込み、もごもごと口を動かしていた。


「お前も……食えよ。腹減ってるんだろうが」

「ああ……」


 シャインは一杯目のシルヴァンティーを飲み干して、空になったカップに再び茶を注いだ。そして、ダフィーを一つつまみあげると、茶の入ったカップの中にそれを入れる。


 ダフィーは味がない上にとにかく固い。それに食べ物をとっていない胃には、ふやかした方が優しい。ダフィーが茶を吸って二倍の大きさになるという利点もある。

 シャインとヴィズルはしばし黙ったまま、遅くなった昼食を食べ続けた。

 最も、メニューは今後当分毎日ずっとなのだが。


「ヴィズル」


 ふやかしたダフィーを無理矢理胃に押し込み、シャインは気が滅入る自分にうっとおしさを感じながら口を開いた。

 ヴィズルは二本目のクトル酒のビンを空にした所だった。酔ってきたのか、心持ち呼吸が大きくなって、顔の表情から硬さがなくなっているような気がする。


「何だよ」


 ヴィズルがぶっきらぼうに返事をした。そう、本来彼の態度はそうであるべきなのだ。シャインはことあるごとにヴィズルの計画を狂わせてきたのだから。


「君が俺の言う事を聞いてくれるなんて……正直思わなかった」


 ぷっとヴィズルが吹き出した。


「ああ、お前の言う事なんか聞いたつもりじゃない。俺がそうしたいと思っただけだ」


 シャインはこちらを睨み付けるヴィズルの視線をそっと受け流した。


「それは、あの人――アドビス・グラヴェールの話を、君が聞きたいと思ったという事かい?」


 ヴィズルは太々しく寄り掛かっていた、応接椅子から上半身を起こした。紺色の瞳がすっと細くなる。


「シャイン、言っておくが、俺はスカーヴィズを殺したのはアドビスだと思っている。あの夜スカーヴィズの部屋で何があったのか、それを知っているのは彼女を殺した奴だけだ。だから、俺はその事実を俺の目で確認する」


 シャインは自分の顔から一斉に血の気が失せていくのを感じた。シルヴァンティーで落ち着いた心が、再び不安におののくのを感じた。


「ヴィズル……それは」

「いいか、シャイン」


 ヴィズルは左手に酒の入ったグラスを持ったまま、身を乗り出して、シャインの言葉を射ぬくような視線で遮った。


「俺はアドビスと話はする。だが、その後の事は好きにさせてもらうぜ」

「ヴィズル!」


 シャインは強い口調で叫んだ。

 その可能性は考えていたから。アドビスとヴィズルが和解するとは限らない。

 きっかけは二十年前のスカ-ヴィズ殺しだったにせよ、アドビスに対するヴィズルの私怨の深さは計り知れない。

 ヴィズルはこの二十年、そのためだけに生きてきたのだから。


「何だよ。すっかり青ざめやがって」


 自分への憤りと察してか、膝の上に置いた手に力が入っているのを見たせいか。ヴィズルはシャインを見てにやりと笑った。貼り付いたような感情のこもらない冷たい笑みだった。


「いいか、この世の中、話し合いなんかですべてが上手く行くと思ってやがるのは、お前ぐらいなもんなんだよ、シャイン!」


 ヴィズルはそう言い放つと、グラスの酒をあおり一気に飲み干した。

 グラスを砕かんばかりに応接机の上に音を立てて置く。


「俺はノーブルブルーの船を沈めた。エルシーア海軍を敵に回した。その俺をアドビスがみすみす逃すわけがねえ。果たして、お前のいう話し合いとやらもできるかどうか怪しいもんだよ」


 シャインはヴィズルを見据えた。それはヴィズルに言われなくとも当然の懸念だ。


「それは……さっきも言った通り、俺がなんとかあの人と折り合いをつける。あの人の話を聞いてくれるよう頼んだのは俺だから、俺は何があっても君の身の安全を守る」

「お前にはできないさ。シャイン」


 ふっと酒の臭いをさせてヴィズルが息を吐いた。

 切れ長の瞳が、けだるげに細められる。

 シャインは頭を振って言い返した。


「約束は守る。必ず!」


「それなら何故、あの時俺を撃たなかった。お前には守るべきものがあったのに」

「えっ?」


 ヴィズルの口から出た言葉に、不意をつかれたシャインは身をこわばらせた。

 ヴィズルは大きく広げた足の間に両手を軽く組み、戸惑うシャインの胸中を探るような視線で見つめている。


「忘れたのか? ロワールだよ。俺の体調がめっちゃくちゃ最低じゃなければ、俺は彼女を奪っていた。お前が本気でロワールを守るつもりだったのなら、あの時お前は俺を殺すしかなかったのさ。でも、お前はそうしなかった。できなかった。自分の手を汚す事を恐れるお前が、一体守れるって言うんだ? そんなお前に守ってもらおうだなんて――俺は最初はなから思っちゃあいないぜ」


 シャインはひび割れてきた唇を噛みしめた。乾きはじめた前髪がぱらりと目にかかってきたので、軽く頭を振る事でそれを払う。


「ヴィズル。俺は君と命のやり取りをするつもりはないと言ったはずだ。俺はただ、君が真実を知って、仲間と共に東方連国へ帰って欲しいだけなんだ」


 ヴィズルの仮面のような表情が、つと歪められた。


「誤魔化しやがって……まあいい。お前はそういう奴だからな」

「どういう意味だ」


 ヴィズルは低く口笛を吹いて、がっしりとした肩をすくめた。


「別に。卑しい海賊の身には、お前の言うことが立派すぎて理解できねぇってことだよ」

「ヴィズル……」


 そっぽを向いたヴィズルに、今度はシャインが思いのたけをぶつけた。

 どうしてわかってもらえないのか。

 なぜ、自らの身を破滅させる道を選ぼうとするのか。

 そのもどかしさに声が出る。


「そっちこそ、人の銃を奪っておいて撃たなかったくせに。君がここで不平不満をたれるのは勝手だが、そうなったのは君自身のせいだ。君が本気であの人に復讐するつもりなら、何故俺を殺してこの船を奪わない? 機会はいくらでもあったはずだ」


「ふん!」


 ヴィズルは不機嫌な態度も露わに、応接椅子へ背中を預けた。

 左手を椅子の下に伸ばして何かを拾い上げる。

 握られていたのは新しいクトル酒のビンだった。どうやら調理室の保管部屋にあった酒を、ここに数本持ち込んでいるらしい。

 ヴィズルは慣れた仕種で酒のコルクを口にくわえ、それを抜いた。

 うつむきながら鋭い視線がシャインを射た。


「本当にそうして欲しいのか?」


 押し殺したヴィズルの声が、船室の窓を叩く雨のように静かに響いた。

 先程までの、どこか人を小馬鹿にしている口ぶりが消えていた。

 いつもは感情の読めないヴィズルの紺色の瞳が、今はいらだったように熱っぽい光をたたえて、シャインを睨みつけている。


「そういうわけじゃ……」

「嫌なんだろ? ならはっきり嫌だと言えよ。当然だろうが! ああ、お前のそういう所がいらつくんだよ!」


 ヴィズルは声高にそうつぶやくと、酒ビンから直に酒を飲み下した。

 ため息を一つついてビンを机の上に置くと、再び上半身を前に乗り出す。


「お前はいつだって建前しか言わねえから、俺もで言っておく。お前は何かあった時のための人質だ。だから、今は殺さない」

「……」

「そういうことだ。わかったらとっととメシを食い終えて、そろそろ船を動かす準備にかかろうぜ」

「ヴィズル」


 シャインはカップに残った黄金色のシルヴァンティーを見つめていた。

 気になった。

 自分を人質にしておくために生かすのが建前なら、本当の理由は別にあるということだ。こんな事を考える事自体、本当はおこがましいのかもしれないが。

 シャインはシルヴァンティーの波紋を見つめながらつぶやいた。


「あの人は俺を見捨てるだろう。だから、俺には人質としての価値がない。今死のうが、あの人の前で殺されようが、結局は同じ事なのかもしれない」


 酒をビンから直に飲んでいたヴィズルが、急に喉を詰まらせて咳き込んだ。

 ぜいぜいと荒く息をつき、目だけがぎょろぎょろと異様な光を放っている。

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