4-37 騙し討ち

「――どうして……」


 シャインの親指を二つ重ねたような、ぷるんとした厚い唇がにんまりと不敵な笑みをたたえている。


「お前は今ジェミナ・クラスの留置所にいるはずだぞ? ストーム」


 鉄格子の扉の外には、白い帽子を被った大柄の中年女が立っていた。くるくる三段に分けられて巻いた黒髪に、色白だがのっぺりした顔に、緑色の小さな瞳が憎たらしげに光っている。


「そうだね、坊や。でも頭に保釈金を支払ってもらったから、出てきたのさ」

「頭って……ヴィズルか」


 中年女――ストームはゆっくりとうなずいた。


「本当に、あんたのおかげで酷い目にあったよ」


 シャインを見下ろし、あわれっぽく光るストームの瞳。シャインはまだ腰を下ろしていたが、彼女からさり気なく視線をそらせると、口元をぐっとひきしめた。


 今から二ヶ月以上も前のことだが、シャインは初めて海賊退治の命令を受けた。

 その時の相手が、この女海賊ストームだったのだ。

 ストームに先手を打たれ、ロワールハイネス号の乗組員を人質に取られたシャインは、彼等を解放してもらうために身代わりになることを決めた。

 しかし……。


「ストーム。結果的に俺はお前との約束を破った。逃げないと言ったのに、お前をだまし討ちにした」


 ストームは太い二の腕を胸の前で組んで、「そうだね」とつぶやいた。

 シャインを見る彼女の瞳は、その時の悔しさを思い出したのかぐっと細められている。


「海軍に捕まった恨みでも晴らしにきたのか?」


 シャインはストームに話しかけながら、曲げた膝――航海服の長い裾の下から左手を滑らせ、左足のブーツの口を探る。何時もこの中に小さな細剣を忍ばせているのだ。そこにある確かな手ごたえを感じ、シャインはさり気ない仕種で立ち上がった。鉄格子ごしにストームと向き合う。


「恨み……ね。そうしてやりたいところだけど、頭の命令であんたに手を出すのは禁じられてる」

「……」


 シャインは押し黙った。意外と言えば意外な答えだ。

 そんなシャインに構わず、ストームはきょろきょろと四方の様子をうかがっている。そして、誰もいないことを確認してから再び口を開いた。


「ま、あたしはあの時のこと、今は根にもっているわけじゃないんだよ」

「ストーム?」


 まだまだ油断はできないと思いつつ、シャインは信じられない思いで彼女を見つめた。


「ちょっと邪魔するよ。頭に言われてあんたの腕の具合を見に来たのさ」

「……」


 ストームは腰のベルトに通してあった鍵の束から一つを外して、それを鉄格子の鍵穴に入れると扉を開いた。すばやくその大柄な体を隙間に滑らせ、後ろ手で扉を閉める。シャインのすがるような目を見たストームは、その考えを看破して厚い唇に微笑をのぼらせた。


「警告するけど、逃げようなんて気は起こさない方がいい。頭はあんたをすぐに殺しはしないと言ってたけど、ここから一歩でも出たら命の保証はできないよ。アドビスの息子であるあんたに、昔の恨みをぶつけたいと思っている連中は沢山いるんだからね」


 ストームの言葉が脅しでないことを、シャインはすぐさま理解した。この牢に連れてこられる前にヴィズルの船で、それを嫌と言う程実感したからだ。

 アドビスに対する敵意は想像以上のものだった。

 大義の為とはいえ、海賊達にとってアドビスは、多くの同胞を殺した敵なのだ。


「……あの時も思ったけど、あんた相変わらず無茶してんだね」


 ストームが肘まで包帯を巻いたシャインの右腕をじっと見つめていた。


「海上勤務が長かったから、偏った食事しかできなくてね。これから魚は骨ごと食べることにするよ」


 自分でもショックだった。回転をきかせたティレグの重い足蹴りの威力は手が痺れるほどだったが、まさか手首の骨が耐えられなかったなんて。

 シャインは首から吊っていた白い布を外し、胸の前で右腕を見せるように肘を曲げた。


「じゃ、ちょっと……」


 ストームがシャインの腕を見ようと右手を伸ばす。

 だが腕を掴む前に、シャインはそれを彼女に押し付けるように前へ突き出した。

 体重乗せ右足を素早く一歩前に踏み込む。


 ガシャン!


「ちょっと! 何だい!?」


 ストームの悲鳴と背中を鉄格子にぶつける鈍い音が響く。

 シャインの右腕はストームの首に食い込んでいて、息苦くて暴れる彼女は、それを外そうと両手で握りしめる。


「……くっ」


 力ではストームに負ける。シャインは左足のブーツの中に隠し持っていた小さな短剣を引き抜き、それをストームの首筋へぴたりと当てた。


「じっとしていないと手元が狂って、頸動脈を切ってしまうがいいのかい?」

「うう……」


 ぎろりと見下ろすストームの額に冷や汗が浮かんでいる。


「坊や、あんたって奴は……!」


 首を押さえ付けた右腕の下で、ストームが大きく身じろぎするのを止めた。

 だがシャインは右腕にこめた力を抜かず、口の端にだけかすかな微笑を浮かべた。

 左右に分けている前髪が乱れて、熱っぽい光をたたえている青緑の瞳の上にいく筋か影を落としている。


「俺はいつまでもここにいるわけにはいかないんだ。すまないな、ストーム」


 右腕が痺れてきたのをこらえてシャインはつぶやいた。そう長くストームを押さえておくことはできないのがわかっているので、早くけりをつけなければならない。


「ストーム、鍵を渡してもらおうか」


 有無を言わさないシャインの瞳がストームを捕らえる。


「うう……わかったから、早く、腕を、外すんだよ!」


 息苦しさに負けたストームが、鍵を握りしめた右手をゆっくり自分の顔の前まで上げる。両手がふさがっているため、シャインは差し出されたそれを口にくわえると、まずはストームの首に押し当てていた右腕の力を抜いた。

 そして首筋に短剣を突き付けたまま、目線で右手の壁際に移動するよう、ストームに命じる。


「……」


 ストームが首を横に振り、小さな瞳を精一杯すがめてにらんだ。


「早く」


 シャインの要求に嫌々ながらストームは従った。ゆっくり鉄格子から背中を離すと、右手方向に後ずさり、壁際に立つ。


「ホントにあんたは……やることが無茶苦茶だよ!」


 喉をぜいぜい言わせてストームはつぶやいた。シャインはストームの首からようやく短剣を離し、それを彼女の前に突き付けて牽制しながら、開いた扉の前まで後退する。口にくわえていた鍵を短剣を持つ左手でつかみ、シャインもまた肩で息をしていた。 


「悪く思わないでくれ……俺は行かなくてはならない。なに、夕食時になったらあの子が来て、あんたをここから出してくれる……」


 シャインはちらりとストームを一瞥すると、背中で扉を押し広げ外に出た。


「そしてまた、捕まるために出ていくのかい!」


 シャインが牢の扉に鍵をかけた時、壁際に立っていたストームが怒気混じりにつぶやいた。口調は怒っているが、その顔には不思議な笑みが浮かんでいる。

 まるでシャインの行為が無謀だといわんばかりに、あざ笑うような笑み――。

 ストームが続けて口を開いた。


「不意をついて見張りを倒すのも、その腕一本と細剣じゃ限度があるよ」


 シャインは牢の扉の前に立ったまま、だらりと垂らした右腕に視線を向けた。

 無理して動かしたそれは、鉄の塊のようにずっしりとした重みを伴っていて、今はまったく力が入らない。シャインは軽く息をついて頭を振った。


「……それでも行かなくては。彼女は俺が来るのを待ってる」

「ちょ、ちょっと待ちな!」


 シャインがきびすを返したその時、ストームが部屋の奥から走ってきて、牢の扉の鉄格子にすがりついた。


「あんた、自分の船がどこにあるのか、知らないんだろう?」

「……」


 シャインは黙ったまま足を止め、扉越しにストームの顔を眺めた。

 その沈黙を肯定と受け取って、ストームはにやりと笑みを浮かべる。


「坊や、取引といかないかい?」

「……」


 シャインはうんざりとした面持ちで髪をかき上げた。ストームの取引は過去手痛い経験をしているため気が乗らない。だがストームは精一杯満面の笑みを浮かべて、そんなシャインの機嫌をなおそうと愛想笑いを続ける。


「ま、そんな顔をしないで話を聞いておくれよ。あんたがあたしとの取引に応じてくれたら、あんたが無事に船の隠し場所まで行けるよう、手助けをしてあげる。だから――」


 シャインは青緑の瞳を細めて首を振った。


「その手は喰わない。せっかく自由を手に入れたこのチャンスを、ふいにはできないんでね」


 ガシャン!

 ストームが鉄格子を両手で握りしめて抗議する。


「あたしがあんたをだますっていうのかい!? だましたのはいつだって、あんたの方じゃないか! 違うかい!?」

「……それは……」


 シャインはストームを見ることができずうつむいた。

 悲しいかな、ストームの言うことは正しい。

 ストームが気落ちしているシャインを諭すように、穏やかな口調で話し掛けてきた。


「坊や。あんたは気にしていたんだね。正確に言えば、確かにあんたはあたしをだます気などなかった。あのきっつい目をした、あんたの副長が出しゃばってこなけりゃ、すべては上手くいってたんだ。安心おし、わかってるから。だからあたしは……その時の事を今は根に持ってないってさっき言ったんだよ」


 シャインは戸惑ったようにストームの顔を見つめた。


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