4-36 焦燥

「アルバールの奴にしては……よくやったというべきか」


 複雑な幾何学模様を浮き彫りにしたグラスに真紅のワインを注ぎながら、ツヴァイスは神経質で青白い頬にかすかな笑みを浮かべた。


 ツヴァイスの乗ったウインガード号は今、アスラトルから南に一日下った海域――正確に言えば小さな無人島――にその身を潜ませていた。


 シャインをヴィズルに託した後、ツヴァイスは船の針路を反転させ、アスラトルの沿岸警備船に気付かれないようにこの島へ来たのだった。


 先程、商船に偽装したツヴァイスの部下が、ウィンガード号へ知らせを運んで来た。アルバールがツヴァイスの指示通り、アスラトルの警備艦に火を放ち、すぐには出港できないような状態にしたのだ。


 ツヴァイスは艦長室の大きな窓から暗い夜の闇を眺めながら、手にしているグラスの酒を味わうように口へ含んだ。


 物事が思い通りに進んでいる時の酒は、格別に美味だと思う。しかし。

 その酒の味は何時の間にか、錆びた鉄のように劣化してしまった。


 ツヴァイスは執務机の上に置かれた封書を手に取り、それをいまいましく睨みながら文面を読んだ。


 アスラトルの人事部を仕切るアルバールの報告書。

 そこには手の者を使い、警備艦に火をかけたことが記載されているが、よくない知らせものっていた。


 ツヴァイスの薄い唇がなんとか笑いを浮かべようと、いや、その努力を途中で放り出して、ぎりっときつく結ばれる。


「私とした事が……王都の陛下の護衛船の存在を忘れていたよ。それに目をつけるとは流石だな――アドビス」


 ツヴァイスはアルバールの報告書を片手で握りつぶした。

 ヴィズルの為に、アドビスが多くの軍艦を引き連れて海に出ないよう、アスラトルの警備艦に火を放つよう指示したのに。

 アルバールの筆跡は動揺しているのか、後半部分がひどく乱れている。


 明朝アスラトルを発つため、アドビスから海兵隊200名と熟練水兵の手配を頼まれた事が書かれている。すでにコードレック王から護衛船を使用する許可は得ていて、エルドロイン川を下って、5時間後にはアスラトルに到着するという。


 川を遡って王都へ侵入する船を取り締まる護衛船は、ツヴァイスのウインガード号と同じ2等軍艦クラスの船だ。その気になれば、一隻だけでも海賊船をそばに近寄らせない程の火力を持つ。


 だからこそヴィズルは、同じ船種で構成されたノーブルブルーの船を沈める時、真っ向から攻めず内から崩す方法をとった。

 時間はかかったが、確実な手で。


「さて……どうするかね、ヴィズル。お手並み拝見といこうか。アドビスが外洋艦隊の帰りを待たず、不利な状況と知ってこれほど早く行動を起こしたのは、君があれを送ったせいだと思うが……」


 シャインが身に帯びていた、亡き母親の形見の指輪。

 彼の白い指からそれを引き抜いた事を思い出し、ツヴァイスは物憂げに頬杖をついて、グラスに注がれた真紅の酒をながめた。


 波のように表面がさざめく酒を見つめていると、静かにこちらを見返す彼のまなざしが浮かんでくるようだ。

 ちくりと胸に不快な感覚が走る。今更だと思う痛みが。


「ヴィズルの所へ行くのを望んだのは君だ。けれど、その気持ちを利用した私を、君はきっと許さないだろうね……シャイン」


 ツヴァイスはグラスを取り上げると、それを一気に飲み干した。

 今夜はいくら飲んでも酔えない自分に腹立たしさを覚えながら。



  ◇◇◇



 ヴィズルが根城として使っている、島の中央部にある小さな城塞に連れてこられたシャインは、その三階にある牢へ入れられた。


 大人が五人横になって寝転べば狭いと感じる程の広さで、この城塞自体が石を積み上げて作られているため、床や壁も冷たい灰色を帯びた同じ石で組まれている。天井の高さは約二リールぐらいで、その四隅には雨が降れば漏ってくるのか、黒い染みと緑の苔がこびりついている。


 この牢には西側に四角い小さな窓がついていた。昔も囚人を入れるための牢として使われていた事を示す、指二本分はある太い鉄の棒がきっちりはめられている。


 シャインが背伸びをしてそこから外の景色をうかがうと、果てしなく広がる青い水平線が見えた。その窓から潮の香りと共に水分を含んだ重い風と、押し寄せる波が磯場に当たって木霊する、咆哮のような音が聞こえてくる。


 この牢の下はきっと崖だろう。

 南側の石壁に背を預けて座り、シャインは窓から差し込む弱い陽光を見ながら思索にふけっていた。


 ここに入れられた最初の夜は、折られた右手首の痛みとヴィズルと会話する機会を逃した悔しさで一睡もできなかった。昨夜は覚醒と微睡みを繰り返した。


この牢の下にヴィズルの手下達が憩う部屋があるのだろう。複数の人間がたてる声や金属音が夜遅くまで響き、元々眠りが浅いシャインの目を幾度も覚まさせたのだ。


 シャインは首の後ろで一つに束ねた、洗いざらしてまだ少し湿っている髪を、左手でからめては解く動作を繰り返していた。


 シャインに欠かさず三度の食事を運ぶ十三、四才ぐらいの少年が、昨夜水差しを二つ持ってきてくれたので、沐浴までいかないが、体についた汗とほこりを落とすことができたのだった。


 ちなみにシャインの入れられている牢の扉は、水差し程度なら入る間隔を開けて、窓枠と同じ太い鉄の棒が格子状にはめられている。だから鍵を開けて扉を開けずとも、食事等の受け渡しができるのだ。


 牢に閉じ込められてから見かけた海賊は、この少年ただ一人。彼は水差しの他に清潔な白いシャツも置いていってくれた。ヴィズルの趣向かどうかは知らない。が、彼の手下達はいかつい顔や刀傷、二の腕に彫り込んだ入れ墨のせいで人相の悪い者が多いけれど、それなりに皆小奇麗な格好をしていた。


 シャインはそれに着替えたものの、今まで着ていた青い海軍の航海服のほこりを丹念に払い再び袖を通した。これがないと何故だか自分でいられないような不安に駆られて。


 シャインは髪を触る手を止め、唇を噛みしめた。

 こんな所にいつまでもいるつもりはない。だが今置かれた自分の現状は、かなり厳しいと言える。


 船倉にいたときのように、船の精霊から情報を得ることができないし、食事を運んでくる少年にも問題があった。褐色の肌に金の髪、紫の瞳をした少年は、シャインの話すエルシーア語がわからないし、シャインもまた、どうやら東方連国の一部地域で話される、少年の言葉を理解できなかった。


 シャインは何度か彼にヴィズルと話ができないか言ってみたが、やはり言葉がわからないせいで、少年は困惑した表情を浮かべると足早に立ち去ってしまうのだった。


 自分が焦っているのがわかる。

 ロワールハイネス号がこの島にあるのを、グローリアに教えてもらったせいで、いてもたってもいられない高揚感がずっと体を支配している。


 それに加えて、寝不足のせいで神経がいらだっているのだろうか。

 鉄格子に浮く赤いサビを眺めていると、少し強く蹴っ飛ばせば枠ごと外れるのではないかと狂気じみた考えが浮かぶ。


 そんな馬鹿なと思いながら、けれど可能性を思ってシャインは立ち上がっていた。

 この部屋の湿気の多さは天井に生えた苔を見ればわかるし、嵐の時はあの窓から塩分を帯びた水が入り込み、鉄格子の扉を内部まで腐食させているかもしれない。


 シャインの青緑の瞳は鉄格子を熱っぽく見つめる。左手をゆっくりと伸ばしそれを握ると、赤サビに触れてざらざらする感触が手のひらに広がる。

 シャインは鉄格子を握りしめ、息をつめた。


 馬鹿なことは、やめろ。


 握りしめてゆすった鉄格子は、シャインの左手を汚しただけで微動だにしなかった。シャインは目を閉じ鉄格子に頭を垂れてうつむいていたが、何とか自制して左手をそれから離した。肩を抱いて再びその場に座り込む。


 自由に行動できない囚われの身がもどかしい。

 こうなる可能性は覚悟していたが、結局何もできないまま終わるかもしれないという現実を、意識せずにはいられない。


「ロワール……」


 その名を唇にのぼらせて、シャインはもう一月以上会っていない彼女の姿に思いをはせた。この島のどこにいるのか。グローリアはヴィズルがロワールを捕らえたと言っていたが、彼女はロワールハイネス号と共にあるのだろうか。


『船長に捕まった以上、遅かれ早かれ、元の船から離されて私のように売られるのが運命――』


 グローリアの憂いを帯びた緑の瞳が、闇の中からじっと見返している。


「……」


 ――嫌だ。

 ロワールをそんな目にあわせたくない。


 海原を駆ける鳥のように自由で、自分の思いに正直で、真っ白な雲のように純真な魂を持つ彼女を、無理矢理力で縛りつけるなんてことをしたら、きっとその負荷に耐えきれず壊れてしまうだろう。


 そうなる前に、必ず取り戻す。

 そのためなら何だってやる。

 シャインは左手で前髪をかき上げ、その手を眉間に添えたまま虚空を睨んだ。


 コツコツコツ……。

 全身に一瞬震えが走る。壁に頭をもたせかけていたシャインは、突如響いてきた高い足音に耳をそば立て、思わず息をつめた。


 食事を運んでくる少年のものではないとすぐにわかる。少年は素足だったから、いつもぺたぺたという音を立てていた。


 しかしこの石床を響かせる足音は、ブーツの類いを履いた時に立てるものだ。

 徐々に大きくなったそれと共に、腰を下ろしたシャインの上を大きな黒い影が落ちて来た。足音が止まり、その主はシャインの牢の前に立っていた。


「……こんなところで会うとはね」


 ちょっと鼻にかかっただみ声。

 シャインは信じられない思いで顔を上げた。


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