【第4話・序章】20年前(2)

 一時間後。ガグンラーズ号船尾にある船長室。


「お前は本当に変わった女だ――そして、とても強い」


 少しかすれたその声は実に落ち着いていて、知的な感じ。

 スカーヴィズは部屋の奥にある豪奢な寝台に身体を長々と横たえたまま、先に起きだして外洋の青を模した軍服に袖を通す、アドビス・グラヴェールの横顔を見ていた。


「私は自分の望みを実現したかったまで……あんたと同じようにね」


 ざっと身支度を終えたアドビスは、その鋭い水色の瞳を細めて微笑した。

 そして寝台の縁に腰掛けると、船長室の奥の窓から差し込む光で、まるで浜に寄せては返す波のように、輝く彼女の銀髪を優しく手ですいた。


 二度、三度。繰り返されるそれをやっと手で制しながら、スカーヴィズはようやく自らも寝台から抜け出した。


 均整の取れたしなやかな肢体を惜し気も無く光のもとにさらし、傍らの肘掛け椅子に置いてあった絹のブラウスを手に取る。


 アドビスに背を向けた時、彼の視線を意識していた。

 ゆるいウエーブがかかった銀髪がその背中を覆う前に――アドビスはすでに知っているのだが、右肩からくびれたウエストにかけて走る刀傷をいつも彼は一瞥する。


 軽く息を付いて、スカーヴィズは機敏に身支度をしていった。

 黒い細身のパンツに、やや高めのヒールがついたブーツの中へその裾を入れ込む。仕上げに短剣が吊された、同じ黒色の皮のベルトを締める。

 それは柄の部分を銀で植物のつるのように巻き付けた、青く光る曲刀だった。


「きれいな短剣だな……細工からして東方連国のものか?」


 アドビスの手がスカーヴィズの腰に向かって伸びた。

 だが彼女はふふふ、と小さく微笑して腰を後ろへ引いた。


「代々受け継いできた頭の証、ってやつでね。悪いが私の次の頭になる者にしか、触らせられない」


 スカーヴィズの紫の瞳――アドビスは曇った日の夕闇色だと思っている……それが、きらりと油断なく光った。

 アドビスは観念するかのように首を振ると、額の前にかかった前髪をかき上げた。


「確かに、触らない方がいいかもな。ご禁制の鉱物ブルーエイジで作った短剣だ。その価値ははかり知れないうえに、よからぬ災いも呼び寄せる。どこか、目に付かない所へしまっておくのが得策だと思うぞ」


「おや。もっと物騒なものを私に使わせようとしたのはどこの誰だい?」


 スカーヴィズは意味ありげに、寝台の傍らにある箪笥の上へ視線を向けた。

 紺碧のベルベットで覆われた、人間の頭部が入るぐらいの箱が置いてある。

 そこには頑丈そうな銀の錠前がついていた。

 アドビスもスカーヴィズの視線をなぞるように、かの箱へ青灰色の瞳を向けていた。


「『エクセントリオンの船鐘』。詳しくは知らないが、この鐘を扱えるものは、操船の人間を全く必要としなくなるそうだ。船の精霊(レイディ)を模して造られたらしいが――」


「でも、私には反応しなかった」


 スカーヴィズは肩を竦めた。


「確かに念じるだけで船を動かせたらすごいけどね。だけどこの鐘は大事そうに鍵付きの箱に入れられて、しかもエルシーア海軍の参謀司令官が、代々門外不出として守っている代物。この鐘の正体をあんたは知ってるのかい?」


 アドビスは箱を見つめたままだった。

 その表情がつと、曇った。


「詳しくは知らない。だが……噂では、この鐘を作るために多くの人間の命と「ブルーエイジ」が使われたと聞いたことがある。ブルーエイジは触れるものに、多大な『負』の感情を呼び覚まし心狂わせるという……」


 スカーヴィズは唇に不敵な笑みを浮かべた。


「アドビス――あんた、もしかしてブルーエイジの『呪い』、ってやつを信じているのかい?」


 スカーヴィズはからからと小気味良い笑い声を上げた。

 アドビスは大きく表情を崩す事なく、淡々とつぶやいた。


「信じているわけではないが……ブルーエイジは持ち主に災いを招く。その価値ゆえにな。いや、本当にこんな物騒なもの、お前に使わせようなんて私がどうかしていた」


「確かに。私も使えなくてほっとしているよ。だけどこの三年、無我夢中だったからね。呪いのことなんて考えた事もなかったよ」


 スカーヴィズは寝台の隣に設えてある戸棚から、酒のビンとグラスを取り出していた。部屋の中央に置かれている食事兼執務用の長机にそれらを置く。


 手慣れた仕種でコルクを齒でくわえてビンから抜く。

 ほどよく熟成されて琥珀色になった酒をグラスに注ぎ、スカーヴィズはアドビスに差し出した。芳醇な酒の香りに、強ばっていたアドビスの表情がゆるんだ。


「さすがにこの背中につけられた傷のせいで死にかけたけどね。だがあんたに助けられた。そしてあんたのおかげで、私はエルシーア海賊をひとつにまとめることができた。感謝してるよ、アドビス」


 スカーヴィズはなみなみと酒を満たしたグラスを手にした。


「ならば私も、お前に感謝せねばなるまい。お前の情報を元に海賊を拿捕し、その成果が本部に認められた。先日アスラトル方面の守備艦隊を率いる任に、就くことができたよ」


 アドビスはスカーヴィズのグラスに自らのそれを合わせた。

 空気を震わせながら涼やかな音が、二人の間に響いていく。


「それは本当かい? おめでとう。これであんたも将官の仲間入りだね」


 スカーヴィズは微笑んで、心からアドビスを祝福した。

 アドビスもようやく自分でその事に実感が持てたのか、酒を味わうように口に含んだ。



 ◇◇◇



 アドビスとスカーヴィズの出会いは三年前。

 とあることをきっかけにお互い利害関係が一致して、海賊と海軍という間柄にもかかわらず、今まで協力して上手くやってきたのだった。


 スカーヴィズは邪魔な同業者をアドビスに売る。

 アドビスはそいつらを拿捕して、出世への足掛かりにする。

 あっと言う間の三年間だったかもしれない。


 スカーヴィズはアドビスのグラスに酒を注いでやりながら、二十六才という年の割に、老けて見えるその顔を見た。


 金色の獅子のごとく眩しい金髪を海風になびかせ、鷹のように鋭い眼で、水平線を見るアドビスは、実に見目が良い部類に入る。

 だから老けているという表現は少しおかしい。


 彼をそう見えさせているのは、いつも周りを警戒するように気を張り、眉間を無意識の内にしかめているせいでできた、深いたてじわがあるからだ。


 ――この人は……生きることに疲れている。

 スカーヴィズはアドビスの姓で、彼の上に覆い被さっている物の正体に気が付いた。


 アスラトルのグラヴェール家。古くからエルシ-ア国に住んでいた一族で、海軍が設立された時代から、多くの将官を輩出している家である。


 現当主――アドビスの父親も、実は今アスラトル地方司令官を務めていて、末席といえど、早くアドビスが将官の一員になることを望んでいた。


 海軍でより高い地位につくことを父親に望まれ、一族からも跡取りとして、過剰なまでに期待を寄せられる……。


 それらがアドビスの息を詰まらせているものの正体。

 その証拠に、プレッシャーに耐えきれず、寝言で父親の名前をアドビスがつぶやくのを、スカーヴィズはこれまで何度も聞いた。


「大丈夫、ここに奴はいやしないよ。だから安心しな、アドビス」


 耳元でそっと優しくささやき、汗ばんだ額に口付ける。

 そうするとアドビスはさも安心しきった表情を浮かべ、再び穏やかな眠りにつくのだった。



 ◇◇◇



「アドビス――あんたもなんとか自分の望みを叶えたようだし、もうここへは来ちゃいけないよ」


 スカーヴィズは三杯目の酒を空にして、机の上にグラスを置いた。

 朝食前なので胃が酒のせいで焼けるようだ。もっと飲むなら食べ物がいる。


「友人として……でもか?」


 胃の痛みのせいか、それともそう答えたアドビスのせいか。

 スカーヴィズは銀の眉をしかめ、彼を睨んだ。


「アドビス……あんたは去年、海の精のようなあの子と結婚して、かわいい跡継ぎまでいるんだよ? 忘れたのかい?」


 スカーヴィズに睨まれて、アドビスは目を伏せると、半分以上酒が残ったグラスをそっと机に置いた。


「忘れてはいない」


 そう答えたアドビスの再び上げられた面には迷いが無く、むしろ今までスカーヴィズが見た事ないほど、満ち足りた表情が浮かんでいた。


 直感した。

 アドビスは自分の心の拠り所を確かに見い出したのだ。ここではなく、あの海神・青の女王に誓約を立て、風を自在に操る――リュイーシャという娘に。



 焼けるような胃の痛みが一瞬消えた。

 ふと気が付くとアドビスがスカーヴィズの右肩をつかんで、その顔をのぞきこんでいた。


「スカーヴィズ。私は――微力ながら私の力が続く限り、お前を守ってやりたい。お前がエルシーア海賊をひとつにまとめてくれたおかげで、少なくともエルシーア海は、以前はびこっていた横暴な海賊がいなくなった。商船、客船を見境なく襲い、乗組員を殺りくする……。だから奴らが駆逐された今、海軍も少しは規制をゆるめるだろう」


 スカーヴィズはアドビスの声を聞きながら、ゆっくりと夕闇色の瞳を細めた。

 アドビスは優しい。

 今後もつつがなく、会おうと思えば会える。


 そういいながらも……。

 スカーヴィズはアドビスの手をゆっくりとふりほどいた。

 お互い分かっていて、虚しい約束を交わすのは無意味というものだ。

 そして、残酷だ。


「アドビス。あんたはホントに生真面目で困るね。私達の関係はお互いの目的を達成させるまでじゃないか? それが成就した今、私達はそれぞれの幸せのために、たもとを分かつ。――アドビス、あんたはそのためにここへ来たはずだよ!」


 スカーヴィズの言葉に、アドビスは一瞬戸惑った表情を浮かべた。

 しかし納得したように小さく首を振ると、スカーヴィズのおとがいに手をかけ、彼女の開きかけた唇に自らのそれを静かに重ね合わせた。


 スカーヴィズは背中に回されたアドビスの腕に身を預けつつ、彼がもう自分の手の届かない所へ行ってしまったのを、ひしひしと感じていた。



 人の気配がした。

 半ばアドビスの腕から強引に抜け出したスカーヴィズは、波打つ銀髪をゆらしながら船長室の扉へ駆け寄った。

 取っ手をつかみ、思いきり素早く外へ向かって押し開く。


「ふぎゃっ!!」


 何かが扉にぶつかった手ごたえをはっきり感じて、スカーヴィズは半ばあきれたように外をのぞき見た。


 足元に小さな身体がひっくり返っている。仰向けに。

 スカ-ヴィズのそれより灰色を帯びた銀髪の、子供。

 扉に顔面をまともにぶつけてしまったのか、両手で鼻を押さえ込んでいる。


「ヴィズル……あんたかい」


 スカーヴィズはむずむずするような笑いをかみ殺し、その場に膝をつくと、ヴィズルを抱え起こした。だが打ちどころが悪かったのか、鼻から血を流しながら、彼は意識を失っている。


「まいったねぇ……」


 スカーヴィズは甲板で唖然とこちらを見る手下達の視線を無視し、ヴィズルを抱き上げると船長室に入って扉を閉めた。


「どうしたんだ? 一体」


 血まみれのヴィズルの顔を見て、アドビスが心配げに寄ってきた。


「どうしたも、こうしたも……」


 スカーヴィズは毒づきながら、ヴィズルを自分の寝台へ寝かせた。

 手直にあった布を掴み、血で汚れたその顔をぬぐう。


「どこの馬鹿がのぞいているんだろうと思ったら、ヴィズルだったのさ。まったくガキのくせに――あきれたもんだよ」


 スカーヴィズは可笑しくて、くすくす笑いながらアドビスの方へ振り向いた。


「アドビス。あんた、いつまでここにいるつもりだい?」


 はっと我に返ったアドビスは、眉間を寄せつぶやいた。


「6時(四点鐘)までだな。ツヴァイスが迎えを寄越して来る」


「……そうかい。じゃあ一緒に朝食を取る事はできそうだね。私はこれから支度を命じてくるから、悪いけどそれまで、ヴィズルを看てやってくれるかい?」


「いいとも」


 アドビスは快くスカーヴィズの頼みを引き受けた。

 それに安心したスカーヴィズは、アドビスに微笑すると颯爽と船長室から出て行った。

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