【第4話・序章】20年前(3)

 最後にヴィズルに会ったのはいつだっただろう?

 半年前……いや、三ヶ月前か? ……それとも数週間前?

 アドビスは思わず記憶の糸をたぐった。


 スカーヴィズのふかふかの寝台に寝かされているヴィズルが、以前会った時よりも目に見えて、大きくなったような気がするのだ。


 背丈も随分伸びているし、筋肉がうっすら目立ちだした細めの腕からして、外見だけなら十才ぐらいに見える。


 ――そうだ思い出した。一ヶ月前だ。


 ゆっくりうなずいたアドビスは、子供の成長する早さに驚きつつ、目を覚まさないその顔を静かにながめていた。



の子供か?』

『馬鹿言うんじゃないよ。髪の色でそう思ったのなら仕方ないけどね』


 海賊船に幼児がいることに驚き、その素性をスカーヴィズに尋ねてみた所、彼女はしれっとした笑みを浮かべこう答えた。


『あの子は赤子の時拾ったのさ。今にも沈みそうな樽の中に入って漂流していた所を見つけてね。東方連国の領海近くだったんだけど。可哀想に……おそらく海賊に襲われた客船の子供だろうよ……』


 スカーヴィズはそのあと、物憂気に瞳を伏せてつぶやいた。


『私も海賊だけどね――こんなやり方をする連中を、いつまでも海にのさばらせやしない。絶対にね』


 スカーヴィズは海賊の中でも寛大な方だ。無条件で降参し、積荷を渡せば乗組員の命を無用に奪わない。彼女は常日頃、海賊は“海の貴族”と言い放ち、その場しのぎの仕事はしない主義だ。


 だからこそ一部の横暴な同業者のせいで、ヴィズルのような子供が次々と命を奪われていく現実を見ていられなかったのだ。


 ――最も、これからが大変なのだろうが。

 お前なら自らの理想を貫き通せるだろう。お前は……強い女だ。



「うう……」


 喉の奥から絞り出すような、小さなうめき声がした。

 アドビスは物思いから我に返り、身じろぎするヴィズルを見つめた。


 彼はサファイアのような夜光石の瞳を見開き、口元をわずかに噛みしめて、じっと見下ろすアドビスに驚いたような表情を浮かべている。


「大丈夫か? どこか痛い所はないか?」


 わずかに眉間をしかめたヴィズルに優しく声をかけ、アドビスは寝ぐせのついた銀髪をそっとなでた。


「やっぱり……来てたんだ、アドビス」

「ああ」


 ヴィズルは二、三度目をしばたくと、スカーヴィズに扉で殴られた鼻へ手をやり小さくうなった。


「くっそーー船長ったら、加減なしだぜ! 思いっきり鼻うった……」


 のろのろと寝台から起き上がり、未だ涙目のヴィズルを見て、アドビスは思わず微笑した。


「お前が――生意気にのぞき見なんてするからだ」

「ちがうよ! オレは……その……」


 ヴィズルは全身で反論しつつ、やはり心当たりがあるのか、褐色の肌のうえからでも容易に分かる位、頬を赤らめている。


「もうしないよ……でもアドビス。オレ、船長にどうしても言いたい事があって、それで外にいたんだ。ティレグ副船長が、酒飲んでたから……だから」


 アドビスはヴィズルの瞳を見ながら、ゆっくりとうなずいた。


「そうか。副船長は―――私を嫌っているからな。それで荒れてたんだろ」

「でもオレはアドビスのこと、嫌いじゃないよ」


 ヴィズルが濃紺の軍服のすそをつかんだので、アドビスは寝台の縁にそっと腰を下ろした。


「それにさ、アドビスは船長のこと好きなんだろ? だから海軍なのにここへ来るんだろ? だったらそんなものやめて、ここにいればいいじゃないか!」

「ヴィズル……」


 アドビスはしばし声を失って、身をすり寄せるヴィズルを凝視した。


「嫌いじゃないって言っただろ? そりゃ船のみんなも好きだよ。わけもなく俺の事怒鳴ったりしなけりゃ、いつもはにぎやかで楽しいんだ。でも……」


 ヴィズルは小さな体をふくらませて、大きくため息をついた。


「ただそれだけなんだ。あいつらは金を積んだ船のことや、酒の事しか頭にない。オレはもっといろんなことを知りたいのに。海賊以外の――いろんな事」


 アドビスは感嘆していた。幼いながらもヴィズルの向上心に。

 確かにスカーヴィズを含め、彼のまわりの大人達は自分のことで忙しい。

 ほんの六才の子供にすぎない、ヴィズルに構っている時間はあまりないのだ。


 そのかわり、甲板掃除とか船鐘を鳴らすとか、ロープの整理とか、彼でもできる雑用はしっかり押し付けてやらせていたけれど。


 アドビスがヴィズルに声をかけたのは一年前。

 誰にも相手をしてもらえず、彼は船首の舳先の上に乗って、じっと波間を見ていた。


 始めはただの時間潰しだった。アドビスはヴィズルを呼び寄せて、ポケットに入れていた簡易コンパスを彼に見せてやった。そして、どうやって船が針路を決めて航海するのか話してやったのだ。


 金色に輝くコンパスの針に、ヴィズルは同じように瞳を輝かせて、アドビスの話に聞き入った。それがヴィズルに物事を教えるきっかけとなった。


 せがまれてアドビスは、ヴィズルへコンパスをやった。一ヶ月たって、再び密会の為にやってきたアドビスへ、ヴィズルは以前アドビスが教えてやったことを、コンパスを使って正確に実践してみせた。


「ヴィズル、お前はすごいな」


 すっかり驚かされたアドビスは、ガグンラーズ号に来る度に、ヴィズルに少しずつ船のことや、外の世界のことを話してやるようになった。

 当然のごとく、ヴィズルはそれをとても楽しみにしていたのだった。



「アドビス、オレ、ちゃんと読めるようになったんだぜ。この間置いていってくれた、『ツェイツリプスト=ツウェリツーチェのあごひげ』っていう本」


 アスラトルへ帰港した時、ふらりと立ち寄った古本屋でみかけた、東方連国の神話の絵本である。世界を半周はするという、大長虫の名前にひかれて、思わずヴィズルの為に買ってしまったのだった。


「初めは読めない字とかあったけどさ、絵を見て、こんな感じかなーって想像したんだ。アドビス、読むからさ、あってるか聞いてくれよ」


 ヴィズルは寝台から飛び下りて、本を取りに行こうとした。


「ヴィズル、待ってくれ」

「アドビス?」


 アドビスは微笑みつつ小さく首を横に振った。聞いてやりたいのはやまやまだが、そろそろスカーヴィズが朝食の支度を整えるだろうし、ここにいる時間も残り少ない。だから、言うのは今しかなかった。


「ヴィズル。お前は賢い子供だ。きっと確かめなくても、あっているさ」


 ヴィズルは頬をふくらませた。口をすぼめ、不満げに目を細める。

 あやふやにされるのが嫌いなのだ。


「でも――」


 アドビスはヴィズルの肩に両手を添えて、その場に膝を付いた。ヴィズルは不思議そうに、じっとアドビスの顔を見つめ返す。もともと勘の良い子供である。嫌な予感を察知したのだろう……その素直な眼が不安にきらめいた。


「私はもう船長の側についてはやれない。だからこれからはお前が、私の代わりに船長を守ってやって欲しいのだ――ヴィズル」


「……どういう……ことだよ……それ……」


 ごくりとヴィズルが生唾を飲む。


「私がここにいれば、いずれ船長やお前達に迷惑をかけることになる。だから、今日を最後に、私は二度とここへは来ない」


 アドビスがそう言い聞かせると同時に、ヴィズルの瞳が見開かれた。

 子供ということを忘れさせるほどの力で、肩に置かれたアドビスの手を振り払う。


「迷惑って? どんな? なんで急にそんなこと言うんだよ! なんでだよ!」


 アドビスは膝をついたまま、どう答えるべきか悩んで目を伏せた。

 いつかは来るべき時だ。それが早いか、遅いか……ただそれだけの事。


 小さな拳を握りしめて身を震わせていたヴィズルが、ぱっとアドビスの首筋に飛びついてきた。


「……やだよ。そんなの、やだよ。オレを置いていくなよ! アドビス……」


 ヴィズルはアドビスにしがみついてつぶやいた。やがてその声がすすり泣きに変わっていく。


 アドビスは黙ったまま、ヴィズルの体に腕を回してしばし、嗚咽が止むまで抱きしめてやっていた。ヴィズルの涙と鼻水が、ブラシをかけた濃紺の艦長服へ、染み込んでいくのも構わずに。


「アドビス……もう来ないなんて言うなよ……。オレ、あんたにもっといろんなことを、教わりたい。、船乗りになりたいんだ」


 アドビスはともすれば指にからみつく、ヴィズルの髪をいていた。

 が、その動きが一瞬止まった。


「お前には……大勢の仲間や船長がいる」

「だけど……!」


 ヴィズルはアドビスの胸に埋めていた顔を上げた。


「船長はすごいさ。だけど、オレはもっと船のことを知って、早く船長の役に立てるようになりたいんだ。だから、あんたみたいな船乗りになりたい」

「ヴィズル」


 ヴィズルは右手で鼻をこすった。赤く腫れた目と頬を伝う涙の筋がくっきりついて痛々しげな顔だが、口元はぎゅっとひきしめられていて決意の深さがはっきりとうかがえる。


「――私のような……船乗りにか?」

「そうだ」


 アドビスはその場に膝をついたまま、じっとヴィズルの藍色の瞳を見つめていた。やがて手を伸ばし、目の縁からこぼれ落ちそうになった涙のしずくを、人差し指でそっと払った。


「お前にやろうと思って……これを持ってきた」


 アドビスは軍服の内ポケットに右手を差し入れ、そっとヴィズルの目の前に差し出した。アドビスの大きな手の中に収まるぐらいのサイズの本。


 元は緋色の皮表紙だったそれは、アドビス自身が長年使っていたため、年月と共に艶のある茶色へと変わっている。


「何の本だい?」


 すっかり泣き止んだヴィズルは、吸い寄せられるようにそれを凝視した。

 アドビスは本をヴィズルの方へ向けて、ページをめくってみせた。


 ややクリームがかった紙に小さな活字がびっしり印刷されていて、所どころ、ヴィズルでもわかるような図解や絵が入っている。


 ヴィズルは絵より文字の分量が多い事にだんだん眉をしかめたが、とあるページの絵を見て、この本が何であるか理解したようだった。

 思わず彼は褐色の指をのばし、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「コンパスだ! これは舵輪!」


 アドビスはゆっくりうなずきながら、目を細めた。


「ああそうだ。こいつには船乗りに必要な知識が、ぎっしり詰まっている。私の宝物だ」


 瞳を宝石のようにきらめかせ、はや期待に胸を踊らせるヴィズルに本を手渡す。

 ヴィズルは両手にそれを持ったまま、うっとりとした微笑を浮かべた。


「ありがとう」


 アドビスはヴィズルの肩に手を置いた。


「難しい所やわからない言葉は船長に教えてもらうんだ。彼女もまた、優秀な船乗りだからな」


 ヴィズルはうなずきつつも、瞳を伏し目がちにしながら、手にした本とアドビスの顔を交互に見比べていた。


「やっぱり――行っちゃうのかよ」

「ヴィズル、我々が海にいるかぎり、今生の別れになることはあるまい。いつか自分の船を持ったお前と、会う事ができるのを楽しみにしている」


 ヴィズルはひしと本を胸に抱いた。

 アドビスは軽くその肩を叩きながら、少し声のトーンを落としてつぶやいた。


「海賊になるかどうかはお前の自由だが、私と会う前に、海軍に捕まるなよ?」


 ヴィズルの顔に満面の笑みが広がった。


「もちろんだ! アドビス。待ってろよ。オレ、自分の力できっと海へ出る。そしてあんたよりすごい船乗りになってやるからな!!」


「ああ、お前ならなれるさ……必ず」


 アドビスは再び目をうるませたヴィズルの体を引き寄せた。

 短い間だったが、この子供を愛おしいと感じ始めた、自分の気持ちにやっと気が付いて。

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