3-5 声にならない言葉
グラヴェール岬。
家名で呼ばれる岬の先には、一本のまっすぐな幹をした大きな木が生えている。
どんな種類かは知らないが、その樹齢は百五十年、いや、それ以上だと、亡くなった祖父が語っていたのを思い出す。
木は潮風に葉を傷めることもなく、青々と茂って地に影を落としていた。
顔を上げたシャインは、ふとその傍らで佇む人影を見つけ、思わず足を止めた。
隣の木に負けない程、すらっと伸びた背の高い黒服の男……。
後ろ姿でも、威風堂々とした気迫が感じられる。
シャインは立ちつくし、戻るべきか一瞬考えた。
だがその間が、シャインに選択すら与えられない結果を招いた。
黒服の男が、振り返ったのだ。
未だ色褪せず金色の獅子のように潮風に髪をなびかせた、アドビス・グラヴェールが。
シャインは唇を噛みしめ、苦々しくその顔を見つめた。
そして、意を決して再び歩き出した。
威圧するように高みからこちらを見るアドビスは、青灰色の瞳を細め、その表情はとても険悪だった。
彼の側に行くくらいなら、いっそこの岬から海へ飛び込めと、命令される方がましかもしれない。
「何故ここに?」
その声色を聞かなくても、シャインにはアドビスの機嫌が最悪だと分かった。
だから何も答えず、シャインは黙ったままアドビスの脇を通り過ぎて岬の突端へ歩を進めた。
磯場から岬の上まではロワールハイネス号のメインマストと同じ高さ――約30リールぐらいあるだろうか。磯場に砕け散る波頭の白い泡と、深い碧青色の水が激しく渦巻いている。
そこから舞い上がる風に前髪を揺らし、俯いたシャインは、短い祈りの言葉と共に、手にしていた花束を海へ向かって投げ入れた。
束ねていないエルシャンローズは散り散りに広がって落ちていき、夕暮れの光を宿す水面へ漂っていった。
「――俺にもその権利はあるはずですが」
波間に飲まれていく花をじっと見ながら、シャインは静かに言った。
赤や黄色。白に水色。
もう黄昏が迫る。薄闇に呑まれ花の色はすべて灰色にしか見えない。
「……リオーネから聞いたのか。余計な事を」
「余計? 自分の母親に花を手向ける事が、何故いけないのです」
胸の内に高まってきた感情を飲み下し、シャインはたまらず背後を振り返った。
大樹の側に立つアドビスの突き刺すような青灰色の目が、真っ向から光っていた。
「それが、余計だと言っているのだ」
相変わらずかすれ気味の、無感情な声。
自分の行為が余計というならば、アドビスはここで何をしているのだろう。
少なくともエイブリーに屋敷へ戻ったことを隠し、想いに浸るように水平線を眺めていた彼は――。
シャインはアドビスから視線を逸らせた。
会話を続けることにはや、嫌気がさしてくる。
「あなたの言われる意味がわかりません」
「……わからぬなら、わかる必要がないということだ」
――いつだってそうだ。
吐き捨てるように呟くアドビスの声を聞きながら、シャインは思った。
「帰れ。ここはお前の来る所ではない」
胃がきりきりと痛んだ。
無意識の内に歯を食いしばってしまう。
機嫌の悪いアドビスとはいつもこうなのだ。
彼はいつだって、一方的にすべてを否定するのだ。
自分の存在さえも。
「理由を教えていただくまで、帰りません」
いつもは話にならないアドビスの態度に嫌気がさして、自らその場を去るシャインだったが今日は違った。どういう心境かはわからない。
けれどここでアドビスと出くわしたのは、ひょっとしたら母のおかげではないだろうか。
大樹に寄り掛かり、じっと水平線の彼方を見るアドビスに向かって、シャインはゆっくりと近付いた。
アドビスはいつも以上に眉間に影を落としていた。
引き締められた口が開くと、そこからは感情の籠らない言葉が発せられる。
「お前には関係ない事だからだ。だから、わざわざ言う必要もない」
「――中将殿」
アドビスとシャインは向かい合った。
アドビスは下から見上げるシャインの視線を一瞥し、呆れたように唇を歪めた。
「くどいぞ、シャイン。いつまでもいない人間のことを考えて、時間を浪費するのは愚者のすることだ。こんなところで油を売っていないで、お前は海軍の船を預かる者として、やるべきことがあるはずだ」
「話をすり替えないで下さい! それに母の事をそんな風に言うなんてあんまりです。……母はあなたのせいで!!」
たまりかねたシャインが、そう言い終わらないうちに、アドビスの長い腕が目にも止まらぬ速さで伸びてきた。
鷹が鋭い鈎爪で獲物を捕らえるように、それはシャインの喉元をがっしりと押さえつけていた。
「……!」
そしてアドビスはシャインの首を掴んだまま、身体を大樹の幹に押し付けその顔をのぞきこんだ。
動けない。
アドビスには右手一本で首を掴まれているだけなのに。
自由になろうとシャインはアドビスを睨み付けたまま体を動かそうとした。
「私にどうしろと言うのだ? シャイン。泣いてリュイーシャに謝れとでも言うのか? えっ?」
溜息と共にアドビスが囁く。
声を封じられて、反論できるわけがない。
それがわかっていて問いかけるアドビスに、シャインは一層暗い感情を込めた目で、彼を睨み返すことしかできなかった。
分からない。
理解できない。
何故、自分は彼の息子なのだろう。
アドビスが自分を避けていることは知っている。
必要以上に関わりを持たないようにしていることも、気付いている。
いつも高みから小さな子供を見下ろすような、蔑みの目で見られていることにも。
瞬き一つしないアドビスの瞳を見た途端、シャインはふと半年前のアイル号の襲撃事件を思い出した。
殺されたヴァイセ艦長の言葉が本当なら――アドビスはシャインがアイル号に乗っていることを知っていて、敢えてかの船を襲撃したのだ。
それはつまり、シャインが戦闘に巻き込まれ死んでも構わないということだ。
自分の目的を達成するためならどんな手段も犠牲も厭わない。
それが、アドビス・グラヴェール――自分の知る、目の前にいる男の本性。
何が一体望みなのか。
どす黒い感情が胸の内でざわめいている。
それに身を任せるようにシャインは昏い目でアドビスを見据えた。
アドビスが唇を歪ませ、満足げに笑みを浮かべる。
初めて見た、アドビスの微笑――。
「そう、それでいい……。お前は私を憎めば良いのだ。それで気が済むのならいつまでも……な」
アドビスのがっしりとした樫の木のような指が、シャインの喉元へ更に強く食い込んでくる。
この男は一度自分の愛した者を殺した……。
だからきっと、もう一度だってできる。
シャインは目を閉じた。
そして、声にならない言葉を唇にのぼらせた。
「……なんだと?」
アドビスの指の力が、ふっとゆるめられた。
解放されたシャインは、大樹の幹に手をついて空気を求める為に大きく喘ぐ。
その様子をじっとアドビスは見下ろしていたが、やがてシャインに背を向けつぶやいた。
「帰れ。ここで、あのひとの魂が憩うことはないのだ。だから……」
シャインは右手で首をさすりながら、うなだれるアドビスの背中を見た。
そそり立つ壁のような彼が、驚く程小さくなった気がした。
「二度と此処へ来るな。来れば……その時は望み通りにしてやる」
アドビスはずっと水平線を眺めていた。
先程の彼の言葉からして、この件に関してもう話す気はないという意思表示の現れだろう。シャインは黙ったまま踵を返し、振り返ることなくその場から立ち去った。
『――殺して下さい』
首にかけた手を、放した時のアドビスの目。
なんと深い苦悩に満ちていた事か。
真実を知られるくらいなら、一身に憎しみを受ける方が安心するのだ。
心の闇に葬ったその想いを……何時の日か知る事ができるだろうか。
シャインにはわからなかった。
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