3-6 人事主任アルバール
シャインはエイブリーにアドビスと会った事を告げなかった。
今度来る事があれば、気の利いた手土産を持参する事を冗談混じりに言って、グラヴェール屋敷を後にした。
エイブリーが呼んでくれた馬車に乗り、再びシャインはアスラトルの街の方へと戻った。戻ったといっても、海軍の施設や商業地の集まる<東区>の手前、エルドロイン河にかかる石橋を渡った所で下りた。
そしてすぐ歩き出すわけでもなく、欄干にひじを付き、川面をじっとながめた。
この大河だけは何年たとうが、いつも淀みなく流れ続けている。
「……エルドロインに小石を投げ込んでもその流れが変わらないように、俺がいくら抗ってもあの人は……あのままなんだろうな」
アドビスとのやり取りを思い出し、シャインの顔は迫りくる夜の闇のように暗くなった。
河岸の方から湿った風がそよいできて、首筋に当たるその冷たさに、シャインは航海服の襟を立てた。
何時までもこんなところにいてどうなる。
アドビスの言い方を真似れば、どうにもならない事をいじいじ考えた所で時間の浪費でしかない。
川面から馬車の行き交う橋上に視線を向けると、外灯に灯りをともす十二、三才ぐらいの少年がいた。火種のついた長い棒を器用にランプの傘の下へ突っ込み、芯に火をつけていく。
「……帰るか」
シャインは軽くため息をついて、石畳の道を一人歩き出した。
◇◇◇
シャインは再び海軍の港がある<東区>の通りを歩いていた。
日が暮れてすっかり辺りは夜の闇に包まれたが、港の中にいる警備艦の停泊灯の灯りが煌々と照っていた。
各マストや、船尾の洒落た船尾灯に掲げられた白い光は、海面にも映ってきらきらと輝いている。
シャインは軍港から数ブロック行った通りに、部屋を間借していた。歩いて十五分といったところだろうか。
ロワールハイネス号が修理ドックに入っていなければ、街に出ようとは思わなかった。休暇といえど、たかが一週間。しかも次の命令を待つ身ゆえ、何時呼び出しがかかるかわからないのだ。
なら、間借している部屋よりもはるかに落ち着ける、ロワールハイネス号ですごす方がいい。話し相手もいる事だし。
そこまで考えてシャインは眉をひそめた。
そしてくすりと笑った。
「今までいろんなレイディに会ったけど、あそこまで破天荒なのは初めてだな」
くるくる変わる表情、あけすけな感情。そして自力で船を動かしてしまう強靱さと、その想いの純粋さ。
どれをとってもロワールには、驚かされっぱなしだ。
だが彼女のおかげで、今までどれほど勇気づけられただろう。
処女航海を終えるまで、多くの不安があった。
父アドビスの力を誇示するかのように、決められたロワールハイネス号艦長の辞令。士官候補生から任官試験に合格して、一士官として配属されると思っていたシャインにとって、寝耳に水な話だった。
さすがにいきなりそれは恐れ多く、知識を深める為に、かの船の建造に携わる事を条件に承諾した次第だ。
航海術や船を自在に動かす事に自信はあったが、だからといって後方支援といえど、艦長が勤まるかは別の問題だ。
それを危ぶんでか、アドビスと仲の悪いジェミナ・クラス軍港の司令官ツヴァイスに、実力を試されるような扱いを受けたのはつい先日のことだ。
シャインはめぐらせた物思いが、アドビスの事に戻り、心にずっしりとのしかかる憂鬱さを感じた。
「……いっそどこかへ消えてやろうかな」
できもしないことをつぶやきながら、シャインはちらほらと水兵や、士官達が出入りする酒場の前を通りかかった。薄い水色と白色の石で組まれた
おそらく海軍の払い下げられたそれを、安く買い取ったのだろう。
青の女王は聖母のような慈悲深い笑みを客に振るまい、招くように両手を前方へ差し出していた。
「これはグラヴェール艦長!」
その時背後から親し気に肩を叩かれ、シャインは内心驚きながらも、努めて顔に出さないようこらえた。
嫌々ながら振り返ってみると、そこにはシャインよりやや低い背丈の小太りな男が立っていた。
後ろにぴったりとなでつけた茶色の髪の上に、濃紺の円筒形の軍帽を被り、同じ色の外套にすっぽり身を包んでいる。
年齢は五十を少し過ぎたぐらいで、丸みを帯びた赤ら顔が、嬉しそうに輝いてこちらを見ている。
シャインの脳裏にひとつの名前が浮かんだ。
「……人事部のアルバール主任」
すると男は、さらに嬉し気にシャインへ微笑みかけた。
ただでさえ頬と頬の肉にはさまれ、細い目が線のようになっている。
シャインは自分の愛想笑いがひきつっていないことを祈りながら、軽く微笑を返した。
「いやあ、アスラトルへ戻っているときいたので、お会いできてよかった」
エルシーア海軍の人事部に所属するアルバールは、丸々とした指でシャインの右手を取った。
「ジェミナ・クラス軍港で言付かっていた、ロワールハイネス号の航海長の件でぜひお話したいと思っていたんです。どうですか、あちらで一杯やりながら」
シャインは正直、今日は人と話す気分ではなかった。
アドビスとのやり取りが自分の中で尾を引いていて、食事を済ませたらさっさと眠ろうと思っていたのだ。けれども用件が用件である。
「いろいろ候補がおりますので、立話はなんですから……」
アルバールは気味の悪い微笑みを浮かべながら、強引にシャインの袖を引っ張った。嫌とは言えない自分に腹立たしさを感じつつ、シャインは彼に連れられて、酒場『青の女王』亭へ入った。
◇
店内のカウンターに置かれた色とりどりの酒ビンは、さながらステンドグラスのように美しい光を周囲に投げかけていた。
その光に照らされながら、白いシャツを着て鮮やかな青色のバンダナを頭にかぶった店の主人が、水兵達へ麦酒のジョッキを配っている。
基本はカウンターでの立ち飲みだ。
太い腕に入れ墨を施した水兵が、何人もカウンターへ肘をつきながら、酒をあおりつつ、世間話を咲かせている。
部屋の奥には食事ができるよう、何組かの机と椅子が並んでいる。
そこには士官達が座って、食後のパイプをくゆらせていた。
軍港から一番近いこの酒場は、エルシーア海軍軍人達の、かっこうのたまり場であった。
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