3-4 想いはエルシャンローズと共に

 一方シャインが海軍省から出たのはジャーヴィスより一時間後のことだった。

 ロワールハイネス号の修理申請の書類はともかく、航海日誌やその他の報告書も本部へ提出しなければならない。


 何分処女航海を終えたばかりである。艦長として新任であるシャインは、まだわからない業務も多い。

 戸惑いつつもそれらの用事を済ませ、シャインは日の光がオレンジ色に強まった屋外へと歩き出した。


 人気が少なくなった海軍省の通用門をくぐると、石畳に轍の音を響かせながら流し馬車が通りかかった。一人乗り専用の小型の馬車で、客は御者の隣に座るタイプのものだ。片手を上げ、シャインは馬車を呼び止めた。


「どちらへ参りましょうか?」

 黒い帽子に黒い外套をまとった壮年の御者は、愛想良くシャインに話しかけてきた。


「西区のグラヴェール邸へ行ってくれないか」

「かしこまりました」


 御者はシャインが隣に乗り込んだのを確認してから、白い馬にひと鞭当てて馬車を走らせた。


「……海軍さん、グラヴェール家のお知り合いで?」


 シャインは話しかけてきた御者をうっとおしく感じた。が、そんなことはおくびも出さず、前を見たままうなずいた。


「ちょっと用事があってね」

「ふーん……」


 御者はまじまじとシャインの顔を見つめた。


「何か?」

 少し刺を感じるその言い方に、御者はあわてて愛想笑いを浮かべた。


「いえ、今日はグラヴェール家のお屋敷は、観光客出入り禁止なんですよ。だから、一族の方々がお集りになるのかな~と思いましてね」


「観光客?」

 シャインは御者の問いには答えず、反対に聞き返した。


 馬車は古都アスラトルの街を<東区>と<西区>に分けている、エルドロイン川の石橋へ差しかかった。川岸沿いにある造船所からはうっすらと白い蒸気が上がって、黄昏の空へ雲のようにたなびいていた。

 石橋を渡り終えた馬車は居住区を抜け、がたことと小高い丘を登っていく。左手には夕日に染まるエルシーアの海が見えている。


「おや? 海軍さんは御存知ない? アスラトルへ来たばかりですか?」

「いや、ずっと船に乗っていたから……」


「ああ、そうですね。ご苦労さまです。で、観光客の件ですが、ほら……この七の月は、エルシャンローズが咲く時期じゃないですか。グラヴェール家のローズ園は隠れた名所でね。初代当主の造った物らしいが、それは見事な花が見られるんですよ。現当主のアドビス樣は心の広い方で、ローズ園に限り、どんな人でも花を見られるよう、解放していらっしゃるんです。昨日なんか三十人ご案内したんですよ、私」


 シャインの顔は前髪が落とす影のせいで幾分青ざめていた。だがおしゃべりな御者はそれに気付く気配がない。


「あのグラヴェール中将が、花を愛でているとは知らなかった」

 御者が意味ありげに含み笑いをした。


「ふふ……初めにローズ園へ人々を招いたのは、奥方のリュイーシャ様さ。エルシャンローズを、大層気に入っていらっしゃったそうですよ。もう亡くなられたのが残念ですが」


 シャインは思わず膝の上で両手を固く組んだ。

 突然出てきた母親の名前に、胸の奥が疼くような痛みを感じた。

 御者はあれこれとローズ園の事を話してくれたが、シャインはほとんど上の空で聞いていた。


 母親のことをシャインはほとんど知らない。 

 知っているのは、丁度今の自分の年齢――二十という若さでこの世を去ったという事だけだ。

 

 絵姿の一枚でも残っていれば、その顔を知ることもできただろう。

 しかしアドビスはもとより実妹のリオーネですら、在りし日の彼女の事を思い出させるようなものを何一つ見せてくれない。


 幼心に、母親の話をこのふたりに聞くのは禁忌だとシャインは感じていた。

 アドビスが彼女を死に追いやったことを知ってから。


 あの男は……どんな手段もいとわないのだ。

 目的を達成する為なら、愛した者ですら……その手にかけられるのだから。


 シャインは右手の人差し指にはめたブルーエイジの指輪をなでた。

 唯一、母親を忍ぶ形見の品だ。

 母親の事を何一つ知らないシャインを不憫に思ったのか。

 驚いた事にあのアドビス自らが渡してくれたものだ。


 後日それを知ったリオーネが、指輪にまつわる逸話を教えてくれた。

 この指輪は純度の高い『ブルーエイジ』という魔鉱石で造られており、リオーネ曰く、特別な『術者』であった姉――シャインの母の事だが、彼女しか身に帯びることができなかったらしいのだ。


 通常ならその指輪に触れただけで、気持ちが悪いとか、強烈な恐怖感に襲われ、崖から身を投げて死んだ人もいるという、とても強い『負』の作用がある石らしい。

 その『ブルーエイジ』の特性のせいか、この石を身に帯びる者には『破滅』がもたらされる、とも言われている。


 シャインの母が早世したのはこの指輪のせいだったのかはわからない。

 しかしシャインは、今まで自分が不幸だと思った事はなかった。

 けれど強いて言えば、もう自分の人生は終わるかもしれないと思った瞬間がある。


 先日海賊ストームに捕われた部下を助ける為、シャインは自ら虜になる事にした。

 それは副長ジャーヴィスの横ヤリが入った為、未遂になったのだが。


 シャインはアドビスが自分の為に、海賊に身代金を払うかどうか試してみたいという気持ちがあった。九割がた、絶対に支払うわけがないとわかっていても――心の中で思っていた。

 自分が捕われている証拠に母の形見の指輪を突き付けて、もう一度彼女を殺せるのか……試したかったのだ。


 これが本心だったなんて、ジャーヴィスには口が裂けても言えないが。

 真面目な副長はその切れ長の目を悲し気に細めて、自分を非難するだろう。


『あなたって人は、どうしてそう勝手な事ばかりするんです!』

 そんなジャーヴィスの罵声が聞こえそうで、シャインは思わず出た失笑を堪えながら肩を竦めた。




「海軍さん……ほら、お屋敷が見えてきましたぜ」


 肩を御者に軽く揺さぶられ、シャインは閉じていたまぶたを開いた。

 目の前に茂る林の緑の影から、瑠璃のように輝く青い屋根の母屋が見えた。

 個人の家としては大きいが、邸宅の部類から見ればこじんまりとした建物だ。

 馬車は林を抜け、背の高い鉄の門扉で閉じられた玄関前で止まった。

 シャインは乗車代を支払うと、馬車から下りてしばし感慨深げに屋敷を眺めた。



 実家に帰ってきたのはかれこれ六年ぶりだ。

 十四才で海軍の士官学校へ入れられて、それを機に家を出たのだ。


 と、右手奥の通用門が、ガチャリと音を立てて開くのが見えた。

 そこから真っ白な白髪を首の後ろで一つに結んだ、六十代ぐらいの執事が出てきた。銀縁の丸い眼鏡をかけ、髪と同じくらい白い口ひげを生やしている。


 体つきはふくよかだが、その立ち振る舞いは洗練されており、すこしも無駄な動きがない。背筋をぴんと正し、こちらをみる表情はやわらかく、とても品があった。


 だがシャインと目が合った途端、老執事の顔は驚きに変わった。

 息を飲んで大きく身を震わせている。


「これはっ……シャイン様ではありませんか!」

「お久しぶりです……エイブリーさん。お元気そうでよかった」


 シャインはにこやかに微笑しつつ、軽く頭を下げた。


「なんとまあ……随分背も伸びて……ご立派になられました。当主から、時々お話だけはうかがっていましたが……」


 執事・エイブリーは、急に目頭を押さえて顔を背けた。

 彼は四十年以上グラヴェール家の執事を務めており、滅多に帰らない現当主アドビスやシャインのかわりに、この屋敷を守ってくれていた。


「エイブリーさん、大丈夫ですか?」

 シャインはそっと執事の肩へ手をかけ、覗きこむように顔色をうかがった。


「は、はい。申し訳ありません。あまりにも突然シャイン樣がお帰りになりましたから……胸が一杯になってしまって。どうぞ、お入り下さい。すぐお茶をご用意いたします――あ、お荷物は?」


 シャインは首を横に小さく振った。


「すまない。今日はちょっと寄っただけで、家に帰ってきたわけじゃないんだ」


 エイブリーは一瞬、その穏やかな顔に落胆の表情を浮かべた。

 さぞかしがっかりしただろう。

 そんな彼の気持ちを察したシャインは、何か気の利いた手土産でも持って来るべきだったと後悔した。


「いえ、それはそれで残念ですが、こうしてお姿を拝見できただけでも、私はうれしいです。シャイン様は海軍の船を任されていらっしゃるのですから、お忙しいのは仕方ありません」


 執事は微笑みながらそう言うと、シャインを敷地内へ導いた。

 通用門をくぐり、ふたりは並んで石畳を歩いた。




「エイブリーさん」

「はい」


 シャインはふと立ち止まった。執事もそれにならう。


「ローズ園のエルシャンローズを少し……花を数輪欲しいのだけれど、当主には断っていないんだ。今、無断で手折ってしまうけれど、あの人が帰った時に……そう伝えといてもらえますか」


 シャインの視線の先には、青みがかった白い花を咲かせたエルシャンローズを這わせた庭園への門があった。意味ありげにエイブリーは、ふむ……と首をかしげた。


「どなたかへの贈り物ですか?」


 シャインは眉をひそめて、額にかかる前髪をかき上げた。


「ちょっと持って行きたい所があるだけです」


 アドビスに続いてシャインと親子二代に仕えているエイブリーは、シャインの感情の籠らない言い方で自分の失言に気付いたようだ。


「勝手なことを言ってしまい申し訳ありません。必要であれば当主もお許し下さるでしょう」


 エイブリーは同情を込めた目でシャインを見た。

 だがシャインは執事の視線を冷ややかに受け止めると小さく嘆息した。


「それはどうかな。俺にはあの人の考えている事が……よく分からない。ま、気に入らなければ、向こうから怒鳴り込んでくるだろうしね」

「……シャイン様」


 咎めるようなエイブリーの声に、シャインは諦めたような笑みを浮かべた。


「当主の機嫌はいつも気分次第だ。お叱りを受けるかどうかなんて、エイブリーさん……あなたにだってわからないでしょう?」

「はぁ……それはそうですが」

「兎に角、花をもらったら帰ります。今日は当主に来客でもあるんでしょう? ロ-ズ園を閉めていると聞きましたから」


 執事は軽くうなずいた。


「まもなく戻られると思います」

「では急がなければ。俺を見れば、当主は機嫌を損ねるだろうから」


 シャインは何か言いたげな執事を残し、さっさとローズ園の門をくぐった。



 ◇◇◇



 十四才までの記憶では、もっと広い庭のような気がしていた。

 花も自分の背丈よりずっと高くて、うっそうとした感じだった気がする。

 けれど現在のローズ園は、専属の庭師が手入れしているせいか、おとぎ話に出てくるような美しい庭になっていた。


 アスラトルでエルシャンローズの隠れた名所、といわれるようになったのは、その花の見事さもあるが、品種の多さも要因しているのだろう。

 従来種の青から白のグラデーションを描いた大輪の花はもとより、赤や紫、薄い黄色などの花をつける亜種もたくさん咲き乱れているのだ。


 あたりは楚々とした花の香りに包まれていた。

 シャインは従来種の花の株に近付くと、その場に屈んで右足のブーツの口に手を入れた。そこからいつも隠し持っている銀色の細剣を取り出す。


 これほど見事な花だ。無断で手折れば、アドビスは烈火のごとく怒るかもしれない……。

 そう思ったのは、花の茎に細剣の刃を入れる一瞬の間だけだった。


 シャインは他の株からも合わせて十数輪、エルシャンローズを切り取った。

 そして庭の奥にある肩までの高さの木戸を押して外へ出た。

 この木戸は屋敷の裏手に回れる裏門だった。


 かすかに潮の香りがする風が前方からそよいできて、白いエルシャンローズの花を優しく揺らした。

 グラヴェール屋敷はエルシーア海に面した岬のふもとに建っている。

 シャインは緑の下草を踏みながら緩やかな上り坂を登り、岬の突端を目差した。


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