2-22 海賊の掟
「事態は最悪だよ」
シャインはそっと目を開けて、不安げにこちらを見るロワールにつぶやいた。
「今から軍港へ戻って応援を呼びに行っても、45分は軽くかかってしまう。その間にみんな――やられるかもしれない」
「シャイン、私、船を動かすわ。軍港まで移動するの。そうすればあいつらを捕まえる事ができるじゃない!」
だがシャインは目を伏せて、小さくかぶりを振った。
「ありがとう。でも駄目だ。錨が副錨も下ろしてある。いくら君でも、錨を二つも引きずっていく事はできないだろう?」
「それは、やってみないとわからないわ!」
「俺は反対だ。しかも奴らはシルフィード航海長を人質に取っている。まずは彼の身の安全を確保しないと――」
ロワールはぷっと頬をふくらませてうつむいた。
「じゃあ、一体どうするつもりなの? このままじゃあ、みんなやられちゃうわ!」
「……何か、手立てがあるはずだ。何か……」
静かだった甲板から、がなりたてるような大声が聞こえてくる。
シャインは焦る気持ちを抑えながら頭上を見上げた。
「ジャヴィールっていうのはどいつだい? あたしはそいつと話があるんでね」
シャインはじっと耳をそばだてた。
ロワールも甲板の方へ頭をめぐらせた。
「ジャーヴィス副長が……連れていかれたわ。見て」
ロワールが再びシャインの額に自らの手のひらを押し当てた。
◇◇◇
「あんたかい? ジャヴィールっていうのは」
ミズンマストの前に水兵達と一緒にいたジャーヴィスが、一歩足を踏み出した。
「こっちへ来い」
ジャーヴィスをふたりの背の高い海賊が、両脇から剣をつきつけ、メインマスト前にふんぞりかえっている、白い帽子を被った人物の元へ連れていく。
「ジャヴィールは、私だ。貴様は一体何だ。しかも私の航海士を……。まさか使い物にならなくしたんじゃ、ないだろうな?」
ジャーヴィスの声は落ち着いたものだったが、その言葉尻には明らかに怒りがこめられていた。
「ははは、それはどうかね。この男……軽そうだと思ったんだが、なかなか強情な奴でね。腕の一本でも折らなきゃ、あんたの船の居場所を吐かなかったんだ。まあいい、やっとあんたに会えたからね。ジャヴィールさんよ。あんたにはちょっと、エルシーア海賊としての“掟”ってやつを教えに来たのさ。ここをまかされている私……ストーム様が直々にね」
ストームだって?
ジャーヴィスは息を飲んで、目の前にいるふてぶてしい女を見つめた。
それはロワールの視線を通して見ているシャインも同じだった。
「ストーム? 昨日、アバディーン商船の貨物船を襲った……あのストームか?」
女――海賊・ストームは、それを褒め言葉と受け取ったのか、にんまりと微笑した。
この女が探し求めていた“海賊ストーム”とは。
彼女はお世辞にも美人ではない。軽く四十才を過ぎたおばさんもいい所だ。
左右に分けられた黒髪は、前髪から順に三段にくるくると巻かれている。目はきれいな緑色だが、豆のように小さい。そして、ジャーヴィスの親指ぐらいあるぽってりとした唇が、憎らし気に笑っている。
全体的にがっしりとした骨格で、背もジャーヴィスより頭半分程高い。それは、ブーツのヒールのせいでもあるのだが。
彼女は自ら頭であることを誇示するように、大きな白い帽子をかぶっていた。
帽子の右側から巻き付けた黄色い、絹のような飾り布が肩まで垂れ下がっている。
彼女は抜き放った長剣を軽々と手にしていた。ジャーヴィスを挑発するかのように、顔の前でそれを振ってみせる。
「ジャヴィール、あんた……もう“お頭”に挨拶したかい? えっ? ここらで海賊したいなら、あの方の許可がまずいるんだよ」
「……そんなこと、知るものか」
突然船に乗り込まれたうえ、シルフィードを人質にとられ、そして海賊の頭領と思われている状況が悔しくて、ジャーヴィスはぶっきらぼうにつぶやいた。
「ふん、偉ぶってるんじゃないよ! ひよっこが!」
ストームはブーツのつま先で、足元に倒れているシルフィードの肩をけとばした。彼女が部下に折らせた右腕の肩だ。
「ぐうっ!」
痛みに一瞬目を見開いたシルフィードが、ぶるっとその身を震わせた。
「やめろ! これ以上シルフィードに手を出すな!」
ジャーヴィスは真っ向からストームを睨みつけた。大抵の者ならその眼光の冷たさに、身を竦ませる程の威圧感があった。
だがストームは唇の端をゆがめて、せせら笑っていた。
今まで踏んだ修羅場の数は、この女の方が多いらしい。
「人をにらみ殺せるんならやってみな、お兄さん。だが、そういう反抗的な態度は嫌いでね。あんたがそれを改めない限り、責めはこの大事な航海士にとってもらうよ」
ストームは表情ひとつ変えず、今度はシルフィードの腹を蹴りつけた。
あらたに沸き起こった痛みに、シルフィードは身体を縮めてうめき声を上げた。ところどころ紫色に腫れた痛々しいその顔に、どっと脂汗が吹き出している。
「……やめろ……。わかった。お前の話を聞く」
ジャーヴィスはうなだれて、怒りを押さえるべく両手をしっかと握りしめた。
そうしなければ今にもあの女に向かって殴りかかってしまいそうになるからだ。
ジャーヴィスが大人しくなったことにストームは機嫌を直したようだった。
「聞き分けのいい奴で安心したよ。なに、話ってやつは、さっきも言ったように、あんたにエルシーア海賊としての“掟”ってやつを教えにきたのさ。あんたは、やっちゃあならない事をふたつもしてしまったからね。ひとつは、お頭の許可なくこの海域で海賊をしようとしたこと。もう一つは、真っ当な海賊を襲ったことさ」
海賊が、真っ当だと?
口先まで出かかったその言葉を、ジャーヴィスはやっとの思いで飲み込んだ。
こんなことを言えば、あのデカ女はシルフィードを傷つける。
ストームはふふん、と鼻で笑った。
「ジャヴィール、あんたはこれらの罪を償わなきゃならない。特に、海賊を襲ったことは大罪だ。本来なら万死に値するよ」
「だが、そのつもりはないんだろ? 殺すならとっくにそうしていたはずだ」
ストームはジャーヴィスの読みの鋭さに、舌を巻いたようだった。彼女の瞳がジャーヴィスを嬉しそうに見つめている。ジャーヴィスはじっとそれに耐えた。
「そうだよ。お頭は寛大なお方でね。あんたが反省し、エルシーア海賊の一員でいたいというなら……さしずめ、2000万リュールで手を打とうと言ったのさ。どうだい、払うかい? それで命が助かるなら、安いもんだよ」
ジャーヴィスは眉をひそめた。そんな大金ここにあるはずがない。
しかもあのデカ女は昨日1000万リュール相当の金塊をアバディーン商船から奪ったくせに、更に自分の私腹を肥やすためだろうか、その倍の金を要求するとは。
ジャーヴィスはストームの申し出を検討しているふりをしつつ、反撃する機会をうかがった。けれどそれはかなわない状況だった。船がひっくり返ることがないかぎり。
相手は倍の人数の上、武装している。
こちらは武器を取り上げられ、しかもシルフィードを人質に取られている。
ジャーヴィスはため息をついた。
ひとつだけ可能性がある。
それはロワールハイネス号を離れ、軍港へ行ったシャインだ。
だが彼は何も知らない。この船で起こっている事を。
戻ってきたところでどうなる。その時点でストームにつかまるだけだ。
……あるいは、彼が最初に自分達の死体を見つける事になるだろう。
「どうするね、ジャヴィールさんよ。あんたは子分思いの、いい頭だと見たんだが、あいつらの命は惜しくないのかい?」
ジャーヴィスは迷っていた。
一か八か、2000万リュールあると嘘をついて、機会を見て反撃すべきだろうかと。武器は短剣でも、メインマストの前にある。そこまでたどりつけば……。
だがその間に何人やられるだろう。ミズンマストの前には15人のストームの子分が剣を構え、水兵達を見張っている。
自分の身がどうなろうと構わなかったが、こんな無謀な事をしかけて、部下たちの命を危険にさらすのは抵抗があった。
『どうすればいい?』
ジャーヴィスは、握りしめた自分の両手をじっと見つめた。
『一体、どうすれば……』
「俺が2000万リュールを払う。だから、彼らを解放しろ!」
左舷の海上から、ゆらりと吹いた風に乗って澄んだ声が響いた。
ジャーヴィスは考えるよりも先に、頭を声がした方へ向けていた。
「誰だっ!」
ストームに指示されて、ミズンマスト前で見張っていた子分のひとりが、剣をきらめかせて、左舷の船縁から下をのぞきこんだ。
そこには一隻のボートが船に横付けされ、明るい色の髪をした青年が立っていた。
彼は船縁からのぞいているストームの子分をちらりと一瞥して、ロワールハイネス号の舷梯に手をかけた。
「おい……何者だ!」
そう誰何した海賊の声を無視して、青年はロワール号の甲板へ上がった。
彼の紺色のマントが、その動きに合わせてはらりと舞う。
停泊灯の明かりに照らされた青年の顔は、ミズンマストの前で自由を奪われているロワール号の水兵達にとって良く知ったものだった。
彼らは隣同士、すばやくお互いを見合わせて、一応に複雑な表情を浮かべた。
『ああ……やっぱりこうなるのか……』
ジャーヴィスは、黙ったまま見つめていた。
両脇を長剣でつきつけられながら、こちらへ向かって歩いて来るシャインの顔を――。
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