2-23 嘘
話は少し前に戻る。
ストームがシルフィードを容赦なく傷つけているのを見たシャインは、櫂を握りボートを静かに動かした。ロワールハイネス号の船首部から船尾の方へ――正確には船体の中間にあたる舷梯(甲板に上がるための足場)へだ。
「待って。今あなたが行ったところでどうするのよ! 無駄に捕まっちゃうだけだわ」
ロワールは櫂を握るシャインの腕をとった。
「ただで捕まりはしないよ」
「……えっ?」
そう答えたシャインの声のトーンがいつもと違う。
甲板に聞こえることを恐れたせいで口調を潜めているのとは違う。
ロワールはそれが気になって、シャインの顔を覗き込んだ。
夜の闇のせいでどんな表情をしているのかはわからなかったものの、彼が何らかの決意を胸に抱いていることは確かだった。
決意?
いや、そんな生易しいものではない。
彼はもうそうすることを決断して実行している。
これは覚悟だ。
だが、一体何の――?
そこまでしかシャインの心を見通せなかったロワールは、いいようのない不安に駆られた。どうしても彼を止めるべきだと、頭の中で誰かが痛くなる程叫んでいる。
「シャイン、やめて。行かないで。みんなのことは私に任せて。あなたは助けを呼びに行くの! それが、みんな助かる確実な手だわ」
「ロワール。君の言う事は正しいし、もしもの時、君なら錨を引きちぎってでも、船を動かしてくれるだろう。けれど、時間がないんだ。あの雰囲気だと、奴等はみんなをどこかへ連れていくかもしれない……君ごとね。それだけは避けたいんだ。俺は艦長だから、自分の務めを果たさなければ。部下や船が危険にさらされているのに、逃げるわけにはいかない」
シャインはロワールに語りかけながら、自分にもそう言い聞かせているようだった。いつもと同じ穏やかな口調。彼女を心配させまいと意識してのものだ。
けれどロワールは、自分にそう思わせたいというシャインの意図に気付いていた。
安心させて、結局ひとりで行ってしまうのだ。
シャインは嘘をつくのが上手だから。
海賊が船ごとロワール号の水兵達をどこかへ連れ去るなど、なんて最もらしい言い訳だろう。
誠実そうな外見とは裏腹に、シャインが時として驚く行動に出るのをロワールは知っている。彼は何かをしようとしているのだ。みんなを助けるために。
ロワールはシャインの腕から手を放した。そのまま彼の両頬へ手を伸ばし、その顔を自分の方へと向かせた。
やっぱりそうだ。
シャインは痛い程ロワールを見つめていた。辺りが暗いせいで表情までわからないと思っているようだが、彼の頬のひやりとする冷たさや、きつく結ばれた唇に触れれば、どんなに思いつめているか容易に想像できる。
「……わかったわ、シャイン。私が何百回、何千回も“行かないで”って、言ったって、あなたを止めることはできないから。だから、お願い。私から離れないで。あなたがいてくれたら、きっと逃げ出すチャンスがあるかもしれないから。あいつらが移動するために、私の錨を上げたら軍港めがけて走ってやるわ。あなたがいれば、私は簡単に船を動かす事ができる。知っているでしょ?」
シャインは笑ったようだった。
口の両端の筋肉がごく僅かに歪むのをロワールは感じた。
「十分知ってるよ。そして、君が船を動かすということは、君自身の生命力を削るようなものだという事もね」
「どうしてそれを」
「その話はまた後で」
シャインは右手を上げると、自分の頬に置かれたロワールの華奢な手へ自らのそれを重ねた。
「もう行かなくては。……じゃ、もしもの時は頼むよ。錨が上がったら、君の好きなようにしてくれたらいい」
冗談とも本気とも言えない口調でシャインが言った。
その時だ。甲板からストームのだみ声が響いたのは。
「……お頭は寛大なお方でね。あんたが反省し、エルシーア海賊の一員でいたいというなら……さしずめ、2000万リュールで手を打とうと言ったのさ。どうだい、払うかい? それで手下の命が助かるなら安いもんだよ」
◇◇◇
「俺が2000万リュール払う。だから、彼らを解放しろ」
その声でジャーヴィスは絶望の淵から奥底へ叩き落とされた気分に襲われた。
もしくは、大きな金づちで頭を割られたような。
密かに期待していたのだ。
ひょっとしたら、シャインが応援を引き連れて帰艦するのではないのかと。
シャインは船の精霊と会話できるのだ。ロワールがいち早く、彼にこの船で起きている事を伝えるはずだと、ジャーヴィスは考えていた。
けれど。
何故、こんな無謀な事を。
シャインはひとりだった。
数時間前に出て行った同じ服装で。きっと船に近付いた時にこちらの会話が聞こえたため、いてもいられず姿を現したのだろう。
優しい彼の性格が裏目に出てしまい、ジャーヴィスは思わずそれを呪った。
自分の感情を優先させるなんて――指揮官として最低の判断だ。
甲板に上がったシャインは、真っすぐジャーヴィス達がいるメインマスト(中央)へ歩いてきた。その両脇を、鈍く光る白刃を持ったストームの子分がすばやく取り囲む。
シャインは鋭い眼差しでこちらを見るジャーヴィスを、ちらりと一瞬だけ一瞥した。その視線はすぐ、両腕を縛られてストームの足元へ倒れている、傷ついたシルフィードへと注がれたからだ。
見る間に彼の端正な顔が曇る。シルフィードが自ら言い出した事とはいえ、こうなった原因を作ったのは、自分のせいだと思ったのだろう。
シャインはシルフィードへ手を伸ばそうと、その場へ膝をつきかけた。
「おっと。こいつは人質だ。触るんじゃないよ」
ストームの長剣がシャインの首筋へ突き付けられていた。
やや上を向く格好で、シャインはゆっくりと立ち上がった。
「何か武器を持ってないか、早く調べるんだよ」
小さいがまったく隙を見せないストームの目が光った。
彼女の隣に居た中年の、がっしりした男がシャインに近付いてきた。
彼も他の子分のように灰色の布で口元を覆っていたが、着ている服やマントは黒色で、おそらく、副頭領といった手合の者のようだ。
その腰には古びてはいるが、由緒正しそうな立派な造りの短剣を帯びている。
彼の痩せたしわの目立つ指がシャインの薄手のマントを掴み、その右肩へ裾をひっかける。
「あんた……海軍じゃないか」
副頭領は驚きの声を隠す事無くつぶやいた。
ツヴァイスに呼び出されたシャインは普段の青い航海服ではなく、純白の礼装姿だった。海賊の老いた目にはそれが夜の闇の中で眩しかったのか、彼はしきりにまばたきを繰り返した。
「はぁ!? 海軍だってぇ?」
少し動揺した声でストームがつぶやいた。
副頭領はざっとシャインを鋭く眺めると、彼が何も武器を携行していない事を示し脇へ下がった。
「一体どういうことだい。しかもこの坊やは、ずいぶんとお偉いさんだよ?」
彼女はさも訳がわからない、といった様子で、シャインとその背後で睨み続けているジャーヴィスの不機嫌な顔を見比べた。
「ジャヴィール……あんた、まさか海軍の犬だったのかい?」
「彼は海賊じゃない。俺の副官だ」
ジャーヴィスが口を開く前に、シャインがその問いに答えていた。
ジャーヴィスを庇うように、彼の前に立ちはだかって。
『ああ……どうしてストームに素性をばらすんです……』
ジャーヴィスは歯ぎしりしながら、シャインの小柄な背中を睨み付けた。
もう自分達の命運は尽きたと感じた。
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