2-20 約束
それから三十分後。
シャインはジェミナ・クラスへ上陸するため、甲板でボートの準備を待っていた。
「……あ、艦長。もうご気分はいいんですか?」
相変わらずくせっ毛を赤い布で押さえたクラウスが話しかけてきた。
その声を聞き付けてか、甲板にいた当直の水兵達もこちらへ集まって来た。
「副長が艦長は寝込んじまった、なんて言ってたんで……」
「またお一人で出かけるんですか? 俺達にできることがあったら、何でも言って下さい。昨日はおごってもらったし……」
シャインは目を見開いて水兵達を見回した。
まさかジャーヴィスがそんなことを乗組員に言っていたとは。
動揺を努めて顔に出さないようにしながらシャインは答えた。
「君達に心配をかけるつもりじゃなかった。もう大丈夫だ。少し眠ったから平気だよ」
クラウスがほっとしたように胸をなで下ろした。水兵達も同じように顔を見合わせている。
「おいおい、艦長の言う事を鵜呑みにするなよ。まだ顔色が良くないぜ」
シルフィードは例の海賊衣装――素肌の上から赤い皮のジャケットに同じ素材の黒いズボンを着ている。シルフィードの緑の垂れ目がシャインの姿を捉えると、彼はにんまりと笑った。
「俺の特製シチューを食えば、がぜん元気になりますぜ。ほら、副長みたいに」
「……いや、俺は……」
シャインは顔をしかめた。
ごくりと生唾を飲み込んで、白い手袋をはめた手を口元へもっていく。
「悪い……目玉は苦手なんだ……」
「おい、さらに青ざめさせてどうするつもりだ、シルフィード」
冷たく突っ込むジャーヴィス。あたふたと戸惑うシルフィード。
辺りはどっと笑いで溢れた。
「シルフィード、艦長をちゃんと送り届けてくれよ」
「任せて下さい」
右舷の船縁からジャーヴィスが眉間に縦ジワを刻んだまま、ボートに乗り込んだシャイン達を見下ろしている。
クラウスや甲板へ出て来た水兵達十数名も手を振っている。
ボートを漕ぐのはシルフィードと同じく筋肉体型のスレインだ。
「じゃ、行って来る」
シャインは自分も片手を上げて水兵達に手を振った。
ジャーヴィスが頭を軽く下げた。
◇◇◇
スレインが櫂を漕ぐ早さは素晴らしかった。
筋肉に物を言わせたおかげで、商港には十五分と経たずに到着した。
桟橋へ降りたシャインとシルフィードは、街の大通りに出て二頭立ての流し馬車を拾った。それに乗り、隣の軍港へ向かう。
海沿いの石畳を大体十分ぐらい揺られていくと、軍の検問所が見えて来た。検問所といっても、道の脇に白い石積みに、橙色の鮮やかな陶器で屋根を拭いた建物があるだけである。
道の真ん中で水色の軍服を着た士官が二人立っている。
がらがらという馬車の車輪の音で、彼らは一応に振り返った。
「止まれ。……用件は?」
馬車の窓の下に、30代ぐらいの金髪の男が近付いて、こちらを見上げている。
制服の襟に引かれたラインは1本で黒色。
――中尉。ということは、ここの検問所の責任者か。
シャインは馬車の窓から顔を出し、紺のマントを少しずらして自らの階級を明かした。
「これは、ご苦労さまです」
口振りは丁寧だが、自分よりずっと若いシャインの方が佐官だったので驚きを隠せない様子だ。
「ツヴァイス司令に呼ばれています」
シャインは召喚状を取り出した。その鮮やかな赤色の封筒を見ただけで、中尉はさっと顔色を変えた。
「もしかして、ロワールハイネス号のグラヴェール艦長ですか?」
「ええ」
彼は検問所から水兵をひとり呼んだ。
一言ささやくと、その水兵はきびすを返して左の道を走って行った。
おそらくシャインの到着を知らせるためだろう。
「司令は執務室でお待ちです。南側の別館は御存知ですか?」
中尉が右手を上げて、左の道の先にある白っぽい二階建ての建物を指し示す。
シャインはうなずいた。
「歩いて行ける距離だね。じゃ、俺は馬車を降りるよ。シルフィード、ここでお別れだ」
「はい、艦長。お気を付けて」
図体がでかいため、シルフィードは背中を丸めて座っていた。
シャインは微笑し、その太い腕を軽く叩いた。
だが次の瞬間、真顔でシルフィードに言い聞かせた。
「無理だけはしないでくれ。身の危険を感じたらすぐ引き上げて帰るんだ。いいね?」
「わかってますぜ。それは俺が一番よく」
「じゃ、行くよ」
「あ、艦長」
シャインは振り返った。シルフィードが背中を丸めたまま白い歯を見せて笑う。
「船に戻ったら、今夜の夕食はちゃんと食って下さいよ。俺が心を込めて、朝から仕込みをしたんですからね」
シャインは一瞬戸惑った。
まさか彼からそんな言葉をかけてもらうとは思ってもみなかったからだ。
「ちなみに『目玉』は入ってませんから」
シャインは思わず吹き出した。
「……ああ。航海長が帰ってきたら、一緒に夕食をとることにする」
「約束ですぜ」
「わかった」
御者が扉を開けてくれたので、シャインは馬車から降り立った。
海からの湿った風が、羽織ったマントと華奢な金髪を撫でるように通り過ぎた。
轍の音と共にシルフィードが乗った馬車が検問所を出ていく。
それを一瞥し、シャインは白亜の建物が見える、左の道をゆっくりと歩き始めた。
◇◇◇
一方、シャインと別れたシルフィードは、ジェミナ・クラスの大通りへ戻ると流し馬車を降りた。そのまま広場がある中心部へと向かう。
赤っぽいレンガ造りの建物の下で、色とりどりの日よけの布が張りめぐらされている。行商人たちのものだ。
ここはジェミナ・クラスの台所で、青果や海産物、民芸品などあらゆる物が揃う。
シルフィードはそこでリンゴを少女から買った。
クラウスのような真っ青な瞳に、くるくる巻いた金髪を肩まで垂らした可愛い子だ。年は十才ぐらい。
「どうせ子供ができるなら、あんな女の子がいいなぁ……」
シルフィードはぼやきながら、リンゴをほおばり、瞬く間に平らげた。
シルフィードも幼い頃、ここで魚を売る手伝いをさせられていた。
リンゴの酸っぱさは、その頃の記憶をわずかばかり思い出させた。
「ちょっとまだ青いぜ、このリンゴ……」
シルフィードは市場から裏通りへ入った。
複雑に入り組んだ建物の間を、迷いもせずに悠然と歩いて行く。
ジェミナ・クラスは坂道の街で、へばりつくように建物が立っている。だから初めて来た人間は大抵迷ってしまうのだ。
目指すルシータ通り<通称・盗っ人通り>への行き方は二通りある。
一つ目は広場を通って裏道をいくつか通り、真正面から入る方法。
もう一つはジェミナ・クラスの歓楽街・カンパルシータを通って入る方法である。
どちらが安全かというと、当然カンパルシータを通る方法である。
ルシータ通りと隣接していて、実はシルフィードが目星をつけている酒場はその界隈にある。
水先案内人として仕事をしていた頃、真っ当な商人ではない船員に声を掛けられたことがあった。今思い返してみれば、彼らの正体は海賊だったり、不正な手段で海軍の積荷を横領した軍人だった。
彼らは仕事の打ち合わせや、盗品等を金に換えるためにその店を利用している。
『九尾の猫』亭。ここまで案内してくれ。
その店が重宝されるのは、立地のせいである。
シルフィードはまだ宵の口で、ぽつぽつと店の明かりが灯りだした花街――カンパルシータへ入った。
海賊たちは港へ上陸することなく『九尾の猫』亭に行く。
そう、海から小船に乗り換えて、水路でルシータ通りに入るのだ。
『九尾の猫』亭の入り口は二つあり、表はカンパルシータ。裏はルシータ通りから入れるのだ。
もっとも、シルフィードが水先案内人をしていたのは十年以上も前で、今もその酒場があるかどうかわからない。しかもいつも小船で水路から来るので、歩いて行くのは初めてだ。
「ありっ? ここじゃなかったか」
カンパルシータを通り過ぎたが、水路が見当たらない。
通りを一つ間違えたようだ。
路地を間違えたが、ここはもうルシータ通りだ。
盗みはもちろん、人殺しや海賊など。向こう傷のあるわけありの者達が、時には身を潜めたり、仕事を求めて来る、まともな人間なら絶対に近付かない危険地帯。
それを意識したせいか、じわりと額に汗が浮く。
きょろきょろすれば新参者として目をつけられ、どんな言いがかりをつけられるかわからない。
シルフィードは上着のポケットから二個目のリンゴを出してかじった。
目つきの悪い男女と、何人もすれ違う。
立てつけの悪い雨戸が風にあおられ、ばたんばたんと不快な音を地上に響かせている。足元は太ったネズミが走り回り、住人が窓から投げ捨てた残飯を漁っている。
「どこだったかなー」
「誰かを探してるのかい?」
その時、建物の影から腕が突き出て、背後からシルフィードの口を覆った。
同時に首筋へ刃物が押し当てられる感触がしたので、シルフィードは全身を硬く強ばらせた。
「動くなよ。丁度あんたに会いたかった所だ」
その声は低く暗澹とした響きを伴っていた。
「モゴモゴモゴ……! (人違いじゃねーのか!)」
覚悟はしていたが、こうもあっさり目をつけられていたことに驚き、シルフィードはパニックに陥りかけていた。相手は手際良くシルフィードを後ろ手に縛った。
「あんた、このジェミナ・クラスにやってきた新参者だろ? そう話していたのを数日前に聞いたぜ。だからうちの頭が訊きたいそうなんだ。お前の事を。逆らわなけりゃすぐにすむからよ」
シルフィードはやむを得ず、大人しく従う事にした。
ひょっとしたら、ストームに繋がる情報を得られるかもしれない。
男に腕を掴まれたまま路地を歩くと、見覚えのある石造りの建物が見えてきた。
小船を止められる小さな石の桟橋があり、カンテラの明かりが灯っている。
両開きの扉の前で、ぶらぶらと何か紐のようなものが風に吹かれて揺れている。
軍艦や商船で罪を犯した者へ罰を下すため、鞭打ちで使われるそれだ。
「『九尾の猫』亭――」
「ほう。うちの店を知ってるとは。やっぱり同業者だね」
「いや、俺は――」
答えようとしたシルフィードは頭に大きな衝撃を感じた。
唐突に辺りは一面闇に覆われた。
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