2-6 女艦長

 翌朝の七時。船内を見回るためにジャーヴィスは寝床から起き出し、身支度をすっかり終えていた。ただしロワールハイネス号は商船を装っているため、軍服の着用は禁止されている。

 ジャーヴィスは濃緑色の上着を纏い、白いシャツにアスコットタイを締めた、商船の高級船員の格好をしている。 

 

 コンコン! 

 副長室の扉をノックする音がした。


「起きてるぞ、誰だ?」

「僕です。クラウスです」


 ジャーヴィスは扉を開けた。そこにはまだ眠そうな顔をしたウラウス士官候補生が立っていた。さすがにそのくりくりした大きな目をこする、なんてことはしていない。すればジャーヴィスに怒られるから。


 が、自身も悩んでいるくせっ毛の金髪が、寝ぐせでどうにもならないのを隠すため、真っ赤なバンダナを無理矢理頭に巻き付けている。

 誰かに起こされて、慌てて着替えたのは一目瞭然だった。


「で、用件は?」

「はい。あの、艦長に会いたいと、お客様が……」

「客……?」


 ジャーヴィスは眉をひそめた。

 自分達は今、商船のフリをしている。海軍の記章も旗も上げてはいない。しかもロワ-ルハイネス号は、ジェミナ・クラス港に初めて入港した。この船が海軍の軍艦であることを知る者は殆ど皆無のはずだ。


「その客、海軍の人間か?」


 クラウスはゆっくりとうなずいた。


「多分、そうだと思います。女の方なんですけど私服で。約束をしているから、“マリエステル”が来た、と言えばわかるって……」


 客の名前を聞いた途端、ジャーヴィスの緊張した表情がゆるんだ。


「わかった、私が艦長に伝えよう。お前は朝直に立っていてくれ。ただし、もう少し格好を整えてからでいいぞ」

「す、すみません……」


 顔を赤らめたクラウスは、ジャーヴィスにぺこりと頭を下げると、その場からいそいそと立ち去っていった。




 ◇◇◇




 副長室を出たジャーヴィスは、後部甲板の階段を上がって甲板に出た。あたりはうっすらとした白い朝霧に覆われていた。ぼんやりと停泊中の船の輪郭が幻影のように浮かび上がっている。


 ジャーヴィスは左舷の船縁に寄るとそこから身を乗り出し、舷梯げんてい(船の側面にある昇降用の足場)をのぞきこんだ。

 一隻の小船がたたずんでいる。乗り手は二人。櫂を持った方は目深に深緑のフードを下げていて、その体格から男ということしかわからない。


 もう片方も、幅の広い薄紫の帽子を被っていたが、ジャーヴィスの気配を感じて顔を上げた。肩に届くほどの漆黒の髪。猫のように鋭い瞳が印象的な若い女性だった。

 ジャーヴィスは、彼女に向かって声をかけた。


「リーザ? リーザ・マリエステル……か?」


 彼女はにんまりと笑った。


「そうよ、ジャーヴィス副長。今は、“マリエステル艦長”だけど。お忘れ?」

「うっ……!」


 ジャーヴィスは思わず船縁から離れて後ろにのけ反った。

 思わぬ客の登場で、額に嫌な汗がにじんでくるのがわかる。


「乗船許可をいただけるかしら」

「……どうぞ、お上がり下さい……」


 ジャーヴィスは眉間を押さえて後ずさった。その数秒後、彼女が薄紫色のドレスの裾を左手で持ちつつ、舷梯げんていを上がって来た。運動神経はかなりいい。

 甲板に立ったリーザはぐるっとロワ-ルハイネス号を見回した。


「いい船ね。うちのファラグレール号よりちょっと小さいけど……好みだわ」

「何の用件で? リーザ」


 くるっと彼女はジャーヴィスの方へ向き直った。真ん中で分けた前髪が、その勢いを示すようにさっとなびく。


「敬称をつけなさい、ジャーヴィス。あなたと私は同期の間柄だけど、今は私の方が上官なのよ」

「……し、失礼いたしました……」


 ジャーヴィスは緊張で唇が硬直するのを覚えた。彼女に視線を合わすことをためらい、床に視線を落とす。

 そんなジャーヴィスの様子を見たリーザは、密やかにふふふ、と笑った。


「確かあなたに会うのは士官学校を卒業して以来だから――十年ぶりだわね。相変わらずの様子でうれしいわ。悪いけど、ここで思い出話をする時間はないの。グラヴェール艦長に会いたいのよ。まだお休み中かしら」

「ええ、多分……」


 ジャーヴィスは口元に手を寄せ歯切れの悪い口調で返事をした。

 その様子にリーザの紅の瞳がおやと細められる。


「多分って? ジャーヴィス。あなた、副長のくせに自分の艦長の就寝時間スケジュールも知らないわけ? それに、今朝、私が来ることも知らなかったみたいじゃないの?」


 リーザのあきれる声が聞こえる。

 ジャーヴィスは否定しなかった。

 恥ずかしいことにすべてリーザの言う通りなのだ。

 返事の代わりにジャーヴィスは額に手を当てて頭を振った。


「どうしたの? いつものあなたらしくないみたいだけど」


 近づいてきたリーザへ、ジャーヴィスはやはり視線を合わせることができずにいた。


「いや……。その、グラヴェール艦長は……どうも、私を信用してくれないようなんです。あなたが今朝来るなんて、一言もいわなかったし」


 ジャーヴィスは少し寂し気に微笑した。


「ジェミナ・クラスに着いてから、正確にはツヴァイス司令との会見が済んでから、グラヴェール艦長はずっと一人で何かを考えているみたいなんです。私に情報が伝わるのは、いつも事後……」


 ジャーヴィスは腕を組んだ。

 昨日だってそうだ。

 シャインはシルフィードの組には別命令を指示していた。

 ジャーヴィスはそれを知らなかった。


「そう。それはそれで問題かもしれないけど……ジャーヴィス、あなたは士官学校の頃から、人付合いの下手さは誰にも負けなかったわよね」


 リーザははっきりと物を言う。昔からそうだ。人の気も知らないで。


「それは言わないでくれ」


 気弱に小さくつぶやくジャーヴィス。


「とんでもなく几帳面で、正直者で、頑固者。そのお硬い性格のせいで、これまで何度昇進のチャンスをふいにしたのかしら……」

「リーザ……」


 ぴくっと、彼女の眉が動いた。

 情熱的な紅い瞳が意味ありげにこちらを睨み付けている。


「す、すまない、マリエステル艦長」


 リーザはじっとジャーヴィスを見つめていた。が、目を細め、仕方無さそうに肩をすくめた。


「今のは許してあげる。あなたの友人として。だけど、久々にあなたに会えるって来たのはいいけど……。ホント、あなたって自分から進んでイバラの道を歩いているとしか思えないわ。だって、グラヴェール中将の息子の副官なんて誰だって嫌がるわよ? 彼の身に何かあってごらんなさい。中将の怒りを買って、今までの経歴が水の泡となって消えてしまうわ」


「マリエステル艦長。おしゃべりする時間はない……と言ったのはそちらではないのですか? 今日、あなたが来ることを艦長が知っているのなら、起こしても構わないでしょう。部屋へご案内いたします」


 ジャーヴィスはいつもの落ち着き払った態度で彼女をいざなった。


「じゃ、お願いするわ」


 ジャ―ヴィスは先だって歩き出した。

 十年ぶりに再会してそのせいで余計、気持ちが高ぶってしまったのだ。

 彼女に愚痴をこぼしてしまうなんて。

 自己嫌悪に陥りそうになりながら、ジャーヴィスはリーザと共に艦長室へと向かった。




 ◇◇◇




「グラヴェール艦長」


 ジャーヴィスは静まり返った艦長室の扉を二度叩いた。

 耳をすませてみる。だがシャインの返事はない。


「やっぱりまだお休みのようね」

「じゃ、起こすまでです」


 ジャーヴィスとリーザは互いの顔を見合わせた。

 ジャーヴィスが取っ手を回すと、扉は軋みながらあっけなく開いた。

 緊急時にすぐ甲板に上がれるよう、ロワールハイネス号では扉の施錠は食糧庫と武器庫だけに限られている。


「失礼します」


 部屋の中では、天井に吊るされたランプが煌々と辺りを照らしていた。

 ジャーヴィスは目を細めた。

 部屋の奥にはシャインの執務机があるが、その手前のサイドテーブルに、昨夜の夕食と思しき料理の皿が手つかずのままで置かれているのに気付いたからだ。


 肝心のシャインは執務机に自らの右手を枕にして眠っていた。

 着替えるのを忘れたのか、そのまま作業をしているうちに眠ってしまったのか。シャインは昨日の水夫姿のままだ。


 執務机には海図が広げられており、床にはジャーヴィスが昨夜提出した水兵達の報告書らしき紙が数枚落ちて散らばっている。


「夕食を摂るのを忘れて寝てしまうなんて。かなりお疲れのようね」


 リーザがくすりと笑いながらつぶやいた。


ですよ」


 ジャーヴィスがため息をついてサイドテーブルへ諦めきった視線を投げる。


「艦長は大体一日二食。けれど必ず15時にシルヴァンティーとスコーンを要求します」

「よ、要求なの?」


「ええ。これを忘れると機嫌が悪いのです。私としてはこんな鳥のエサみたいなスコーンを召し上がるより、ちゃんと夕食を摂って下さる方がいいと思って用意するのですが――」

「……食べたかったんだ。本当は」


 ジャーヴィスは不意に聞こえたその声で思わず息を止めた。

 執務机に突っ伏していたシャインが顔を上げている。

 青緑の瞳を気まずそうに細めながら。

 シャインは頬にかかる前髪を払いのけ、両腕を上げて伸びをすると席を立った。


「作業を終えたら、夕食は摂るつもりだったんだ」


 シャインの視線は物欲しそうにサイドテーブルの上のすっかり冷め切った料理へと注がれている。


「食事をしたら眠ってしまうと思ったから。料理を視界から遠ざけたんだ」

「でも結局眠ってしまったんですよね」


 小さく咳払いをしてリーザがシャインの前に進み出た。

 帽子を取り、真っ直ぐな瞳でシャインを見つめる。

 


「ファラグレール号のリーザ・マリエステル艦長です」


 ジャーヴィスは客人を紹介した。

 シャインは我に返ったようにリーザの顔を見つめ、そしてつぶやいた。


「マリエステル? あ……! 今朝でしたっけ……」


 シャインは両手で顔を覆った。そして足下に落ちている報告書の紙をかがんで拾い上げると、それを執務机に置いた。


「すみません、すっかりあなたの事を忘れていました。マリエステル艦長。おまけに……見苦しい格好で……」


 シャインは申し訳なさそうに微笑して、彼女に近くの長椅子をすすめた。


「あなたが忙しいのはわかりますが、せめて私の事ぐらい副長に伝えといて欲しかったわ」

「本当に忘れていたので……すまない、ジャーヴィス副長」


 シャインは両手を合わせて頭を下げた。

 ジャーヴィスはそれを受けて顔をしかめたが、すぐにそれをゆるめた。

 彼がリーザの件を忘れていたことは本当だろう。

 自分に非がある場合、彼は真摯な態度でそれを受け止めるから――。


「いえ。それより、私はお茶を持って参ります」

「構わなくていいわ、ジャーヴィス副長。それより、ここにいて欲しいの。これからストームの事でグラヴェール艦長と打ち合わせするから。いいでしょ? 艦長」


 シャインはうなずいた。

 ばらけた髪が鬱陶しいのか、それを一纏めにしている最中だった。

 ようやく髪をくくったシャインは、リーザの対面の椅子へ腰を下ろし、自分の隣へジャーヴィスを座らせた。


「まだこれからの事を話していなかったから、君にも説明するよ」

「ありがとうございます」


 ジャーヴィスは感謝の念をこめてリーザを見た。彼女は一瞬不敵な笑みを浮かべて小さく頷いて見せた。


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