1-30 希望

 それはシャインにとって不思議な体験だった。


 通常は舵輪を操作することで船の方向を定め、転向索ブレースを引っ張り、帆桁ヤードを回す。そうして帆が風を受けるのに最適な角度にするのだ。そうすることで船は前進する。


 けれど今は違う。

 シャインが望む方角を頭の中でイメージすると、ロワールハイネス号が向きを変えるのだ。その感覚はまるで自分が船と一体になったかのように思える。


「……シャイン」


 名前を呼ばれたような気がした。

 誰かが顔を覗き込んでいる。


 透き通った水色アクアマリンの瞳。ややつりあがったそれは子猫のようでちょっと小悪魔的な微笑を浮かべている。

 ロワールだ。


「気をつけて。私と意識を共有している間、あなたは『ブルーエイジ』の影響を受けてしまう」


 意識の共有?

 ブルーエイジ?

 その名前はさっきも聞いた覚えがある。


「疑問がいろいろあるのは分かってるわ。でも今は操船から気を逸らせないで。私とあなたの絆は生まれたばかり。ちょっとした外部の影響で接続が切れてしまうのよ」


 シャインは意識を再びロワールハイネス号の方へ集中させた。

 安堵するロワールの声が脳裏に響く。


「そう。今はこの海域から立ち去ることに集中しましょ。だけど――日没までが限界かしら?」


 どういう意味だろう。

 ロワールが船を自分自身の力で走り続けられる時間は、そう長くないということだろうか。


「多分ね。あなただって食事をしないと活動する力が出ないでしょう? 眠って疲労を取らなければ体がもたないわ」


 船を動かしているのはロワールだ。

 自分は進む方角を示しているだけではないのだろうか。


「それはそうなんだけど。艦長あなたがいないと、私は船を進むべき方角へ動かすことができないの。勿論、人間なら誰でもいいってわけじゃないわ。私が意識共有を許せる相手は、今の所あなたシャインだけ」


 ロワールは船を動かす事ができる。

 けれどそれは針路決定をする人間彼女に認められた者が、船に立ち会わなければならないということらしい。そしてそれは、今の所シャインだけということだ。


「そうよ。誰でも彼でも自分の心の中に入ってきて欲しくないでしょ?」


 そういってきたロワールの声はどことなく冷たい。

 シャインはふと思った。

 どうして彼女は自分に意識共有を許してくれたのだろう。


「シャイン。またあなた、操船以外の事を考えているわよ」


 シャインの問いを打ち消すように、ロワールの不機嫌な声が脳裏に響いた。


「ごめん」


 シャインはロワールに謝りながら後方を振り返った。

 海賊船はまだ視界の中にいるが、ロワールハイネス号は驚くほどの速さでそれを離しにかかっている。


 この速度ならあと二時間ぐらいで視界から消失しそうだ。

 まさか、こんなことができるなんて。


 シャインは東に向けていた船首を徐々に北へ向けた。ロワールハイネス号は緩慢に、だがシャインの意思に従い船体を動かした。


 海賊船の追跡を振り切りながら、けれど目的地のジェミナ・クラスへ向かうための進路に戻らなくてはならない。


 そう。

 シャインは額に浮いた汗を右手の拳で拭った。

 目の前に現れたかすかな希望が、揺るぎない確信へと変わるのを感じた。


 そうだ。

 俺が望めばロワールハイネス号は思った通りの方角へ行くことができるんだ。


 まだ望みはある。

 このまま北上できるなら期限内にジェミナ・クラス港へ着くことができる。


「――いや、着いてみせる」


 シャインはしっかりと両手でロワールハイネス号の舵輪を握り締めた。

 舵輪はともすればシャインの支配下をすり抜けようと勝手に動きたい方へ回ろうとする。


 シャインはその動きを腕力ではなく自らの意思の力で抑える。

 そっちじゃない。

 ジェミナ・クラス港へは最短距離で向かうんだ。


「シャイン」


 ロワールが戸惑うようにシャインの名を呼んだ。


「そ……そんなに『強く』想うと集中力が続かないわよ」

「大丈夫だ」

「でも」

「今は少しでも速く前に進むことが大事なんだ。そうしないと……」


 ――すべてが終わる。

 

 ロワールが驚いたように透き通った水色の目を見開いたが、シャインはただ前だけを見つめていた。

 

 失いたくない。

 君に出会ってから俺の中で何かが動き始めた。


 空虚だった世界が一瞬で色鮮やかな色彩を放ち、きらきらと輝いている。

 俺が望めばこの船はどこへだって行くことができる。

 そのことに気付いてしまった。


 いや、君さえいてくれれば、俺はどんな時も前を向いて進むことができる。

 そんな気がするんだ……。




  ◇◇◇



 薄雲に見え隠れしていた太陽が水平線の際を赤く染め上げた。

 日没を迎えた頃だった。


「海賊船、視界より消失しました」


 メインマスト中央部に上って檣楼トップで見張りをしているエリックの叫び声が降ってきた。


「グラヴェール艦長」


 同時にジャーヴィスと航海長シルフィードが、舵輪を握るシャインの所にやってきた。


「操舵索の修理が完了したとエオルより報告を受けました」


 シャインは前方を見つめながら小さく頷いた。

 船匠のエオルはシャインの予想より1時間早く修理を終えてくれた。

 彼には後で特別に来客用のワインを差し入れしよう。


「艦長、もう六時間経ちました。舵も直ったことだし、操船を交代しますぜ」


 見上げるほど背の高い大男――シルフィードがいつもより気弱に話しかけてきた。

 知らなかったこととはいえ、ラティとティーナの策略に加担した自分を恥じているのだろう。


 シャインはミズンマスト最後尾に靡く風見用の細長い旗を見上げた。

 悪くない。風は南東から吹いているので、帆走に切り替えてもジェミナ・クラス港へ向かう針路にロスは生じない。


 それに、確かにそろそろ舵を交代しても良いだろう。

 シャインはジャーヴィスに命じた。


「ジャーヴィス副長」

「はっ」

「運行状況を通常に戻す。各マストに当直員を配置し、北に進んでくれ」

「了解しました」


 ジャーヴィスは後部甲板から数段の階段を下りて、船内へと続く扉を開いた。


「総員甲板に上がってこい!」


『シャイン』


 風に乗って呼び声がした。ロワールだ。


『もう船を動かさなくていいの?』

「ああ。舵は俺が取っているからやめてみてくれ」

『わかったわ……』


 ロワールの声が聞こえたかと思うと、ロワールハイネス号の三本のマストに掲げられた帆がしぼみ始め、はたはたと波打ちだした。


「風をこぼしているぞ! 帆を張りなおせ!」


 慌てて上げ綱に取り付く水兵達にジャーヴィスが叱咤する。


「……っ!」


 シャインは急に重さを増した舵輪に一瞬焦った。

 舵輪が回ろうとする力に抗うが指に力が入らない。


 シャインは唐突に六時間甲板に立ち続けた事を意識した。体中の筋肉が冷え切って強ばっている。思えばアイル号の一件以来、半年ぶりの航海なのだ。


「代わりますぜ」


 シャインの背後から太い腕がにゅっと突き出すと、それは舵輪の取っ手を力強く握りしめた。


「ありがとう。シルフィード航海長」


 シャインは振り返り、シルフィードのぽつぽつと無精髭が目立つ顔を見上げた。


「後は俺に任せて休んでください」

「ああ……そうさせてもらうよ」


 シャインは舵輪から離れた。

 同時に全身から力が抜ける感覚に襲われた。


 甲板がうねりを伴った波を受けたせいで傾く。

 シャインはその場に思わず膝を付きうずくまった。

 甲板が右へ左へと揺れて片時もじっとしていない。

 ――目が回る。


「グラヴェール艦長。大丈夫ですか?」


 自分に呼びかける声がする。シャインはいつの間にか閉じていた目を開けた。

 何故か体がぐらぐらと揺れた。誰かが肩を揺さぶっているようだ。


「グラヴェール艦長!」

「うわっ……!」


 熟睡していた所を無理矢理起こされたような気分を味わいながらシャインは我に返った。ロワールへ船が進むべき方向を指示していたつもりだが、いつの間にか眠ってしまったのだろうか。


 反射的に舵輪を探す。

 上げた右手は包帯が巻かれていて、伸ばしたそれを誰かの手が静かに掴んだ。


 白い手袋――青い航海服。茶色のくせのある前髪が秀でた額にかかって、その手は鬱陶しそうに髪をかき上げた。


「ジャーヴィス副長?」

「よかった……」


 シャインの顔を覗き込むジャーヴィスが安堵したように眉間の緊張を解いた。

 状況のわからないシャインは辺りを見回した。何故か自分は舵輪の側の甲板に仰向けに倒れている。


「艦長、気付いたんですね。よかった」


 シルフィードが夕日の光を浴びながら白い歯を見せて微笑した。


「……気付いた?」


 シャインは額に手を当てた。

 そういわれれば頭がまだ少しぼんやりする。しかも全身がなんだか重くてだるい。

 自分の手なのにそれを上げるのがやっとだ。


「俺は……どうしたんだ?」

「どうしたもこうしたも……慌てたのは我々の方です。あなたは舵輪をシルフィードと代わったのですが、手を離すと同時にその場に昏倒してしまったのです」


 シャインは額に載せた手を頬へと滑らせ目を閉じた。やはり持ちこたえられそうにない。意識していても瞼が下がってくるのを止められない。


「グラヴェール艦長?」


 ジャーヴィスの声が


「ああ。大丈夫だ……ただ……」

「ただ、何ですか?」


 返事をしないとジャーヴィスに怒られる。

 それを意識しながらシャインは呟いた。


「おそろしく……眠い……」




 ◇◇◇



 ジャーヴィスは再び目を閉じたシャインを凝視した。

 確か、「眠い」と言うのが聞こえた気がする。


「グラヴェール艦長!」


 呼びかけてその肩を再び揺すろうとした時。

 ジャーヴィスの手をそっと小さな少女の手が押さえ制止した。


「今は休ませてあげて」

「……レイディ?」


 姿を現した紅い髪の精霊は静かに頷いた。


「シャインはロワールハイネス号を動かすために長い間『集中』していたわ。六時間よ。初めてにしてはよく持った方だわ」


 ロワールはシャインの枕元に跪いた。穏やかな微笑の中にも賞賛を込めた瞳でその寝顔を見つめる。

 ジャーヴィスにはロワールの横顔が一瞬泣きそうに歪むのを見た。


「レイディ、それは……」


 ジャーヴィスの視線に気付いてロワールが振り返った。

 黙って微笑んでいれば可憐な花のような少女の形相が、みるみる暗雲のように険しくなる。


 ロワールはやおら立ち上がるとジャーヴィスに右手の人差し指を突きつけた。


「とにかく、自分で船を動かすのはものすごーく疲れるの! ほら、見て! 私も目の下にクマができちゃった! だから、舵が直ったんなら今度はあなた達が操船して頂戴! 私とシャインは朝まで非番よ」


 ジャーヴィスはロワールの剣幕に圧倒されていた。


「ちょっとジャーヴィス副長。ぼーっとしてないで、私の言うこと聞いてる?」


 両手を腰に当ててロワールが叫ぶ。長いうねりをもった紅い髪が、まるで生きているようにくねくねと動いている。瞳を潤ませていた美少女はもうそこにいなかった。


「は、はい! それは当然です! どうぞお休みになって下さいっ!!」

「返事は結構だけど、シャインをこんな吹きっ晒しの甲板でいつまでも寝かさないでよ。言っておきますけど、この船の艦長はシャインしか私認めないんだから。彼の身に何かあったら……」


 ロワ―ルが瞳を細めた。


 カタカタ……カタカタ……。

 ジャーヴィスは頭上で木と木がぶつかりあうような物音を聞いた。

 それは次第に数を増していった。何事かと当直中の水兵達も顔を上げる。


「レイディ――わ、わかりました!」


 ジャーヴィスは見た。子供の拳から頭ほどの大きさがある上げ綱の滑車が、右へ左へと揺れているのだ。これらが千切れて下の甲板に落下すれば、人の頭など容易に割れてしまう。


「仰るとおりにしますから、滑車を動かすのをやめて下さい!」

「……よろしい」


 ロワールが瞳を細めて満足げに頷いた。

 ジャーヴィスは額に冷や汗が浮かぶのを感じながら、シャインを海図室に運ぶため当直の水兵を呼んだ。



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