1-31 ディアナとの約束
翌朝。
シャインは良く知った香りで目覚めた。
どうやら海図室のハンモックに寝かされていて、肩には毛布が掛けられている。
「おはようございます。朝食をご用意しましたが、食べられますか?」
海図を広げる吟味台の上には銀の盆が置かれており、リンゴを思わせる香りが漂っている。きれいなきつね色に焼かれたふわふわのパンケーキと、シルヴァンティーの入ったカップが白い湯気を上げているのが見えた。
その傍らに青い航海服姿のジャーヴィスが立っていた。
「お早う、ジャーヴィス副長。すまない。眠ってしまって」
シャインはそういいながら、出てしまった欠伸をかみ殺した。
ジャーヴィスはゆっくりと首を振った。
「お気になさらないで下さい。それより体の具合はいかがですか?」
シャインはジャーヴィスの心配するような声色と表情に内心驚いていた。
「ああ。眠ったからもう大丈夫。できればあんな状況になることは暫くごめんだね」
「同感です。あなたが『船の
「えっ……」
ジャーヴィスの声には明らかに棘があった。
「でもあの時は、ああしなければ……」
ジャーヴィスの青い瞳が射るように鋭くなる。
「レイディもあなたの体を心配していました。あなたの身に何かあったら、本船は彼女の怒りを買い、本当に制御不能になります。それだけは断固として避けなければなりません!」
シャインは一言も言い返せないままジャーヴィスの顔をまじまじと見つめた。
自分が寝ていた間にロワールとジャーヴィスの間で何かあったのだろうか?
シャインの視線に気付いたジャーヴィスが、コホンと咳払いをして居住まいを正した。
「艦長、いくつか報告をしなくてはならないのですが、よろしいでしょうか?」
急に改まったジャーヴィスの態度にシャインは表情を硬くする。
「ああ。なんだろうか」
「はい。まずは、船倉に閉じ込めていたラティとティーナの二人ですが。昨夜、急に体調不良を訴えたので様子を見るためクラウスが扉を開けてしまい、二人とも甲板から海に飛び込んで逃亡しました」
シャインは腕を組み天を仰いだ。
彼らを逃がしてしまったクラウスを責めることはできないだろう。ラティとティーナは強かな海賊だ。
「あの二人からは、どうしてロワールハイネス号に破壊工作をしたのか、話を聞き出したかったな」
「そうですね。彼らはロワールハイネス号の処女航海を失敗させることが任務だったと言っていました」
「任務ということは、それを命じた人間がいるってことだよね」
シャインの言葉にジャーヴィスも深くうなずく。
「『月影のスカーヴィズ』――20年前にエルシーア海にのさばっていた海賊の名前を持ち出されてピンときませんでしたが、そう名乗る海賊の一味がいることは確かです。しかも我々が通る海域に待ち伏せていたのです。これは計画的に仕組まれた罠です」
「ああ」
シャインは思い返していた。
あの船は海軍の武装船とまともにやりあうことができる帆装と大砲を備えていた。
これは海軍本部に報告をしたほうがいいだろう。
「それから良い知らせがあります。海図をご覧ください」
シャインはハンモックから滑り降りると吟味台に広げられた海図へ近づいた。
「正確な位置は今日の正午の天測ではっきりしますが、我々は現在おそらくこれぐらいの距離を進んでいるはずです」
ジャーヴィスが記入した現在位置を示す×印は、ジェミナ・クラス港へ後二日で到着する位置につけられていた。
「……信じられない」
「そうですね」
柔らかに微笑しながらジャーヴィスが頷く。
「あなたがレイディのおかげでロワールハイネス号を最短距離で走らせた結果でしょうが、それ以上に本船の足の速さは『使い走り』の中でも一番です」
「……ああ」
シャインは海図を見つめたまま静かにうなずいた。
唇にほのかな微笑を浮かべながら。
「当然だよ。彼女は――誰よりも海を駆けるために生まれた船だからね」
◇◇◇
朝食を終えたシャインは海図室を出た。
艦長室にいるディアナに現在の状況を伝えるためである。
「艦長の具合を心配しておられました」
ジャーヴィスの口調は淡々としていたが、その青い瞳は『早く報告をされた方がいいですよ』と言わんばかりにシャインを睨みつけていた。
彼の突き刺さる視線に耐え兼ね、シャインは重い腰をやっとあげた。耳に遠くしかしはっきりと船鐘が四回鳴ったのが聞こえたのだ。
朝の十時。流石にゆっくりしすぎた。
甲板に出ると朝日の眩い光が、ロワールハイネス号の帆を真白に輝かせているのが見えた。シャインは目を細め口元に小さく笑みを浮かべた。
天気は快晴で澄み切った青空が水平線一杯に広がっていた。
清々しい朝の空気と潮風を胸一杯に吸い込む。
久しぶりに長い睡眠を取れたせいか、体に溜まっていた疲労は感じられない。
当直の水兵達と挨拶を交わし、シャインは艦長室へと向かった。扉を叩くと幾分青白い顔をしたディアナのそれがシャインを出迎えた。
一瞬気分が優れないのかと心配したが、シャインの顔を見た途端、彼女は頬を淡く紅に染め安堵したようにうなずいた。そしてやおら右手を上げると、風に乱されていたシャインの前髪をそっと直し微笑した。
「あ……す、すみません」
挨拶をしようとしたシャインは思わぬディアナの行動に意表を突かれ口籠った。
薄紫色のディアナの瞳が悪戯っぽく輝く。
「おはようございますシャイン様。朝食を持ってきて下さったジャーヴィス副長にシャイン様の事をお聞きしたら、まだ眠っていらっしゃると聞いたものですから、こちらから挨拶に伺うのは控えておりました」
「お気遣いありがとうございます。おかげさまで今朝はとても気分が良いです」
「それはよかったです。どうぞお入りください」
ディアナに促されてシャインは部屋に入った。
艦長室はカーテンで仕切りをして二つの部屋に分けているが、それは開かれ、天井の梁に吊るした空のハンモックがぶらぶらと揺れている。
ディアナ付きの侍女がいない。
「侍女のアナリアは今、厨房で食器の片づけをしていますの」
シャインの視線に気付いたディアナが応接椅子を指し示したので、シャインは彼女が腰を下ろしてからその対面へ座った。
「ディアナ様も今朝はご体調が良いようで安心しました。昨日は……」
シャインは右手で口元を押さえ思わず瞳を伏せた。
そうだ。
ディアナの身を――いや、命を危険に晒してしまったのだ。
ディアナがシャインのただならぬ様子に目を細める。
「どうかなさいましたか?」
シャインは嘆息した後、顔を上げた。
「ディアナ様。昨日は申し訳ありませんでした。俺の不徳で貴女を危険な目に遭わせてしまいました」
「急に俯かれたので何事かと思ったら。私はちっとも気にしていませんわ」
ディアナがくすりと笑い声を立てた。
「確かに怖い思いをいたしましたが、シャイン様のお蔭で今は無事にジェミナ・クラス港へ向かっています」
「しかし……」
ディアナが微笑みながら静かに首を横に振った。
「脅威は去ったのです。あなたはちゃんとご自分の務めを果たされました。だから私があなたを責めるのは間違っています。そうでしょ?」
「はい……」
返す言葉もなくシャインはただディアナの無邪気に笑う顔を見つめていた。
彼女なりにシャインを心配させまいと明るくふるまっているのだ。
そういう人となりであることをシャインは知っている。
「お許しいただきありがとうございます。ですが、このままでは心苦しいので、何か俺にできることがあれば、何なりとおっしゃって下さい」
「あら。そんなこと言ったら、私……シャイン様をきっと困らせてしまいますわよ」
「……」
失言だったか。
ディアナの笑みは何か考えがあるように意味ありげなものへと変わっていく。
ディアナは視線を虚空に彷徨わせ、そっと両手を胸の前で合わせた。
「そうですわね。じゃ、今年の『
「……船霊祭……ああ、今月末でしたね」
シャインは思案した。今回の任務が無事に終わったら、後はアスラトルへ帰るだけだ。何かツヴァイスに雑用を頼まれるかもしれないが、基本、ロワールハイネス号はアスラトル軍港に属するので、ツヴァイスに命じられてもそれに従う必要はない。
「多分ご一緒できると思います。急な任務が入らなければ」
ディアナの瞳が雲に隠れる月のように陰りを帯びた。
「シャイン様が『船霊祭』の時にアスラトルにいらっしゃるかどうかは……分かりませんものね」
シャインは居心地の悪さを感じながら、ディアナに優しく語りかけた。
「ま、まだ二週間以上も先ですし、このロワールハイネス号はとっても足が速いのです。きっと……いえ、『船霊祭』の夜までにアスラトルへ戻りますよ」
「ふふ……私、そのお言葉を信じてみたいです」
「約束を破った時は、どうぞお好きなように」
「じゃ、お覚悟下さいませ。私、いつまでも覚えてますわよ」
大人しい印象のディアナだが、この時はいつになく力強い視線をシャインに向けている。
「わかりました」
「ふふっ。嬉しい。あなたと一緒にいられる時間ができるなんて素敵すぎます」
シャインは頷くべきか何か言うべきか迷っていた。
沈黙が辺りを支配する。ディアナは微笑みながらシャインをじっと見つめている。
その時扉をノックする音が聞こえた。
「どなたですか?」
ディアナが椅子から腰を浮かす。
「ジャーヴィスです」
「どうぞ」
ディアナが答えると、扉が開いてジャーヴィスの顔がのぞいた。その瞳はいつもの有能な彼らしく鋭い。
「お邪魔して申し訳ございません。艦長に報告したいことがあって参りました」
「何かあったのかい?」
シャインは席を立った。そのきっかけを作ってくれたジャーヴィスのタイミングの良さに感謝しながら。ジャーヴィスはディアナが頷くのを確認してから口を開いた。
「『ノーブルブルー』のウインガード号を視認しました。将官旗が上がっています。このままの針路だとかの船に追いつきます」
ウインガード号。
銀縁の眼鏡をかけたツヴァイス軍港司令官の顔が浮かんできた。
『それでは私はジェミナ・クラスへ戻るため先に発つ。『ノーブルブルー』のウインガード号で戻るから到着は一週間後だな。明後日出港する君が五日以内にジェミナ・クラスに来られたら、我々は港で再会するだろう』
シャインははっとした。
「わかった。すぐ甲板に行く」
シャインはディアナに暇を告げて、ジャーヴィスと共に上甲板へと向かった。
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