1-29 真の『敵』
ディアナを艦長室まで送ってから、シャインは急いで甲板へと戻った。
嵐ではないにしろ操舵索を切断されているロワールハイネス号は操船不能状態で、突風や横波を食らって下手をすれば沈むかもしれない危険な状態だ。
ディアナはシャインに側について欲しい素振りをみせたが、シャインは本船の安全を確認したら部屋に行くと約束して彼女の元を離れた。
後部甲板の扉を開けると、
その監視をジャーヴィスとクラウスがしている。他の水兵達は甲板に落ちたメインマストの
「状況の報告を」
「はい」
振り返ったジャーヴィスがまずは申し訳なさそうに報告を始めた。
操舵索の様子を見に行った時に彼らに襲われ、
「操舵索の修理ですが、船匠エオルの言い分では、新品と交換したいそうです。切れた部分を組み継ぎした方が早く直せますが、また切断される不安があるということで……」
シャインは頷いた。
「そうだね。俺も同意見だが、操舵索の交換には数時間を要するな」
「はい。作業にかからせていますが、
ジャーヴィスの見立てに間違いはない。シャインはメインマストをそっと見上げた。
これでジェミナ・クラス港まで五日間で行くという任務が達成できる見込みがなくなった。
操舵索が直るまで、ロワールハイネス号は半日という時間を風任せで海を漂流する。順風が四日間ずっと吹き続けるという奇跡が起こらない限り、この遅れを取り戻しジェミナ・クラスに五日以内で着くことはできない。
その現実に打ちのめされながら、シャインは鈍く金色に光るメインマストを見つめていた。
「艦長」
呼びかけるジャーヴィスの声でシャインは我に返った。
「何だい?」
「右手をそのままにしておくのはよろしくないかと」
右手?
シャインはのろのろと右手を上げた。
細剣を握りしめたせいでできた掌の切り傷は血が止まっていた。
「ああ、大丈夫だ。深い傷じゃ……」
「だめです」
有無をも言わない口調で答えたジャーヴィスがシャインの右手首を捕まえていた。
「傷口を縛りますのでこのままでいて下さい」
ジャーヴィスは航海服のポケットから白い布を取り出し、それを適当な大きさに引き裂くと手際よくシャインの右手に巻いた。
「ありがとう」
「いえ。海上ではどんなに小さな傷でも甘く見てはいけません。命に係わりますよ。水で傷口を洗ってアルコールで消毒をするべきですが……」
「後でいい」
それよりもやることがある。
シャインは恨めしげにラティとティーナを見つめた。
彼らはロワールハイネス号の処女航海を失敗させるのが任務だったようだが、どうやらその思惑だけは成功したのだ。
皮肉にもそれを知るのは、命令書の内容を知っている自分だけだが。
長靴の音を甲板に響かせ、シャインはメインマストに縛られている二人の前に歩いて行った。
「ラティ、ティーナ。ジェミナ・クラス港に着いたら覚悟するんだね。ロワールハイネス号の処女航海を妨害するよう、君達に命じた黒幕について話してもらうから」
これだけは何が何でも聞き出したかった。
ロワールハイネス号の処女航海が彼らによって妨害されたことで、ジェミナ・クラス港に到着するのが遅れたと、アドビスに言い訳をするつもりはない。
単に誰が妨害を望んだのか知りたいだけだ。
ふんとラティが鼻で嘲笑った。
「理由を話したところで、あんたに待っているのは破滅よ。シャイン・グラヴェール」
シャインを見上げる瞳は力強く実に挑戦的だった。
「捕虜の身で随分な強気だね。なら今ここで話してもらおうか」
「いやよ」
つんとラティがそっぽを向いた。
隣で縛られているティーナもだんまりを決めたままだ。
「貴様ら……」
ジャーヴィスがメインマストの側にある
「だってアタシ達はまだ負けたわけじゃないからね」
「そうですわ」
ティーナが水平線の彼方へ視線を向ける。
それはどういう意味だとシャインが思った時。
「おーい甲板! 船が見えるぞー!」
船首の
「方角はどっちだ!」
ジャーヴィスの声にエリックが答える。
「船首右舷側です! か、かなり大きい……!」
シャインはクラウスから望遠鏡を受け取った。
覗き込んで思わず舌打ちする。
「……武装船だ。エルシーアの船じゃない。砲列甲板は二層で約28門――」
「なんですって。六等級の軍艦に等しい船じゃないですか」
シャインは黙ってジャーヴィスに望遠鏡を手渡した。
ジャーヴィスはそれを覗くまでもないと首を横に振った。
灰色の空の下、冴えた青い帆を広げた三本マストの武装船が近づいてくる。
シャインはなんとなくその船に見覚えがあるような気がした。
「来たわね」
「そうだね。ティーナ」
ラティとティーナの顔に笑みが浮かぶ。
「あの船は海賊・『月影のスカーヴィズ』の船よ」
「月影のスカーヴィズ?」
ジャーヴィスが眉間をしかめた。
「聞いたことがない」
「ふん。海軍のくせに情けないわね。まあいいわ。どうせあなたたちの戦力じゃ、到底かないっこない相手だし」
ラティの口調はさらに自信に満ちて強くなった。
「この船にディアナ公爵令嬢が乗っていることはわかっているのよ。だからあなたたちは命欲しさに、彼女を彼等に差し出すしかないの」
「ふざけるな! さては貴様ら、あの海賊の仲間なんだな!」
怒り心頭に達したジャーヴィスが叫ぶ。それを見たティーナがほほと笑った。
「まあ、そういうことですけど。あらあら、ジャーヴィス副長も熱くなるのね。さあ、どう出るの? グラヴェール艦長? まさか、あの船と戦うなんて愚かなことはなさりませんわよね」
「アタシ、流血を見るのはキライなんだよね? さっさとホラ、降伏しなよ」
捕虜になったティーナとラティが落ち着き払っていた理由はこれだった。
彼らの仲間の船がロワールハイネス号を待ち受けていた。
戦いを避けるために、ディアナ公爵令嬢を連れ去られれば、エルシーア海軍の威厳はともかく、参謀司令官を務める父アドビスにもその責めは及ぶだろう。
徐々に近づく武装船に水兵達が騒ぎだした。
「砲門蓋は開いてるぜ! 相手はやる気だ」
「俺たちは非武装だぞ! あんな大砲を食らったら一巻のおしまいだ!」
「た、戦うんですか? 艦長」
クラウスが怯えたようにシャインを見上げた。その青い瞳は子犬のように潤んでいる。シャインは黙ってクラウスの肩に右手を置いた。
不安でたまらない士官候補生の少年に微笑する。
クラウスに微笑んでからシャインはジャーヴィスに声をかけた。
「ジャーヴィス副長。全員各マストの持ち場につかせてくれ」
「はい。ですが艦長」
ジャーヴィスが近づく青い帆の武装船に視線を向けた後、戸惑うようにシャインの顔を見つめた。
「どうするつもりですか?」
「知っての通り、ロワールハイネス号は大砲を一門も積んでいない非武装船だ。こちらの方が火力も戦力も不利だからね。ここは潔く逃げることにするよ」
「しかし、ロワールハイネス号は操舵索が壊れていて操船不能です」
「わかっている」
シャインは踵を返し、後部甲板へ歩いた。向かい合う波を象った鐘楼の前で足を止め、ジャーヴィスの方へ振り返る。
「大丈夫。私とシャインに任せて」
少女の明るい声が周囲に響いた。シャインの隣に光が溢れ、それは小柄な紅髪の少女へと姿を変えた。
「みんな、紹介するよ。ロワールハイネス号の船の精霊、レイディ・ロワールだ。彼女は自分の意思で本船を動かす事ができるんだ」
「……」
甲板では水兵達が言葉を失い、目の前に現れた白いふんわりとした服を纏うロワールを凝視していた。
とにかく時間がない。
ロワールがシャインの服の裾を引っ張った。
「シャイン。あなたは舵輪を握って私が進むべき針路を示して!」
「わかった」
「ジャーヴィス副長」
ロワールに声をかけられたジャーヴィスが、一瞬冷静な瞳を大きく見開き息を飲んだ。
「はい」
「今のうちにメインマストの
「り、了解しました!」
ジャーヴィスが拳を額につけてロワールに敬礼する。
ロワールハイネス号の甲板は一気に慌ただしくなった。
シャインは
ためしに回してみるが手ごたえはまだ感じられない。
船倉で船匠のエオルが切れた操舵索を取り外し、新品に巻きなおす作業をしているためだ。けれどシャインは舵輪を両手で握り締めた。
「武装船の射程圏内に入ります! あと十秒!」
エリックの悲鳴にも似た報告が聞こえる。
シャインはミズンマストの上ではためく緑色の吹き流しを見つめ、舵輪の前の
「ロワール。船を右舷へ三十度回頭させてくれ」
「そんなことをしたら、あの武装船の船首を横切ることになるわよ」
ロワールはシャインの隣に立っていた。
シャインは彼女の横顔をずっと見ていたいと思った。
この船の甲板で。
「わかったわ。それからどうすればいいの?」
風に靡く紅髪に手を伸ばしながらロワールが言った。
「そのまま東へ――風上へ全速力で向かってくれ」
◇
「なん……だって?」
ラティの喉がごくりと鳴った。
「信じ、られませんわ……」
靡く海風にすっかり髪を乱されたティーナも絶句している。
降伏しないロワールハイネス号と前方からくる武装船はあと十秒ですれ違う。
けれどロワールハイネス号は武装船の鼻先をかすめるように横切ったかと思うと、そのまま風が吹いてくる東へと走っていったのだ。
帆船は風が吹く方へは進めない。
けれど船の精霊――ロワールが自分の意思で動かしているロワールハイネス号は風向きを無視して、行きたい方角へ進むことができる。
ロワールハイネス号へ青い帆の武装船が、次々と大砲を発砲した。
白い水柱が何本も上がるが、ロワールハイネス号はさらに船足を上げて逃げ去っていく。
「なんだかわからねえがすげーぞ!」
「風上に船が走っている……」
「すげえ」
作業の手を一瞬止めて水兵達が舵輪を握るシャインを見つめる。
「ジャーヴィス副長。僕、夢でも見ているのでしょうか」
クラウスの言葉にジャーヴィスもまた肩をすくめた。
「夢ではないが――船の精霊……か」
ジャーヴィスもまたシャインとその隣に佇む華奢な少女の姿を凝視していた。
「こんな展開ありえないわ!」
「今頃は船に戻って、報奨金がざっくざっくもらえる予定だったのにぃ~!」
ジャーヴィスは唇を引きつらせながらメインマストに縛り付けたラティとティーナをみやった。
予想外の出来事だったのだろう。二人は先程から悪態ばかり叫んでいる。
甲板に彼らの姿があるとどうもやる気を削がれて仕方がない。
元より作業の邪魔だ。
ジャーヴィスは体格の良い水兵エルマと、彼と同じ背丈があるシルフィードを呼び寄せた。
「ラティとティーナを船倉に放り込む。お前達、手を貸してくれ」
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