1-17 偶然は何度も続かない(1)

 呼び止めた一人乗り用の馬車に乗り込み、シャインはロワールハイネス号を係留している突堤に戻るため海軍省を後にした。


 ロワールハイネス号へ艦長として乗ることになった経緯をこんな形で知ることになろうとは。


 夢にも思わなかったし、寧ろ腹立たしさを覚える。

 アドビスはともかく――ツヴァイスにも。


 あの父親が何を思って自分をロワールハイネス号の艦長にしたのか全くわからない。堂々と『賭け』と称してこの任務が達成できるか、高みの見物といわんばかりのツヴァイスにも呆れてしまう。平和だから将官達は退屈しているのだろうか。


 シャインは自虐的に唇を歪め車窓から外を眺めた。

 エルシーアと対立する北の軍事国家シルダリア国の情勢が不穏と言われつつも、他国との戦争は二十年ばかり起きていない。


 寧ろエルシーアの国益を脅かしているのは海賊船で、彼らは王都ミレンディルアから運ばれてくる金や魔鉱石を積んだ商船を狙って襲ってくる。とはいえそれも最盛期だった二十年前に比べれば規模は小さくなっている。


 今や参謀司令官となったアドビスが、海賊拿捕専門艦隊・通称『ノーブルブルー』を作り、彼自らが海賊船を駆逐したからである。

 

 馬車は石畳の大通りを轍の音を響かせながら、とうとうと緑色の水を運ぶエルドロイン河岸に沿って走っている。青い空に白い雲が羊の群れのようにいくつも浮かんでいた。


 シャインは目を閉じ、ロワールハイネス号に与えられた任務に思いを巡らせた。

 彼女に乗り続けたいのなら、命令通り、五日以内にジェミナ・クラス港に到着できればいいのだ。


 海軍内の駆け引きのために、人の人生をゲーム盤の駒のように扱うあの二人の鼻も明かしてやれる。


 馬車が止まった。

 シャインは閉じていた目蓋を開けた。


 扉を開けてくれた御者に乗車賃を渡して馬車を降りる。

 海からの涼やかな風がシャインの華奢な金髪と青い軍服の上着についたケープをはためかせた。だが目の前に飛び込んできた光景に、シャインの顔は瞬時に険しさを帯びた。


「どういうことだ?」


 シャインは顔にかかる髪を払いのけ、眉間を曇らせると、白い突堤に係留されているロワールハイネス号を睨み付けた。正確に言えば、船の周りに集まる人だかりを凝視した。


 横付けしているロワールハイネス号の甲板は突堤より高く、積み込みの為に船体中央部の舷門げんもんから木の板が橋のように渡されている。


 その橋のたもとで派手に樽がいくつもひっくり返っていた。まるで船の甲板から突堤まで一気に転げ落ちたかのように。シャインは命令書の入った封筒を掴んだまま船へ駆け出した。


「大丈夫か? 怪我人は?」


 突堤は割れた水樽の破片が散らばり、白い石が濡れて灰色になっていた。


「グラヴェール艦長」


 顔を幾分青ざめさせたジャーヴィスが、ざわめく水兵達の間を擦り抜けて近寄ってきた。


「どうしたんだ?」


 ジャーヴィスは割れた水樽の木片を拾い集める水兵たちにちらりと視線を投げた。

そして周囲に聞こえないよう気を遣っているのか、小声でシャインに報告した。


「水樽の搬入の時にちょっと事故が起きました。けれど、怪我人はおりません」


 シャインは息を吐いて安堵に胸をなで下ろした。


「それはよかった。けど事故って、一体何が起きたんだ?」


 ジャーヴィスは黙ったまま、シャインにロワールハイネス号のフォアマスト一番前を見るように顔を向けた。


「水樽は大きく重量があるので、他の荷物のように抱えて甲板に上げることができません。ですから、フォアマスト一番前横帆桁ヤードに滑車を取り付けてロープを垂らし、それで水樽を吊り上げていたのです。樽を四つ――重量の均衡を保つために中央の甲板の左右両舷に二つずつ置いて、最後の一樽を吊り上げた時でした」


 ジャーヴィスの声は更に低くなりかすれた。


帆桁ヤードに取り付けた滑車が外れ、吊り上げた水樽ごと甲板に落ちたのです。それはすでに積み込んだ左舷の二つの樽の上に落ちたので、一つが弾き飛ばされて船外に落ち突堤の石にぶつかって割れました。吊り上げていた樽と残りの一つは、甲板に横倒しになってしまったので、栓を開けて別の樽に水を半分移し替え、重量が軽くなった所で舷側に立て直しました」


 シャインはジャーヴィスの話にぞっとしながら、フォアマスト一番前の横帆を張るための帆桁ヤードを見上げた。


 あれは?

 シャインは二、三度瞬きして目を見開いた。


 人影が帆桁ヤードの上にいたような気がしたのだ。

 シャインは右手で目をこすって再び帆桁を見上げた。けれどそこには綺麗に帆を巻き付けられた帆桁しかなく、人の気配は全くない。


「申し訳ありません。グラヴェール艦長」


 詫びるジャーヴィスの声でシャインは我に返った。副長は深々と頭を垂れ、自らの監督が行き届いていなかったことを心の底から悔いているようだ。シャインは咄嗟にその肩に手を置き、思わず顔を上げたジャーヴィスに向かって首を振った。


「君はよくやっている。だがこの事故は、滑車の取り付け時の不備で起きた可能性がある。それは誰が?」


 ジャーヴィスは渋面を作りながら、シャインの顔を見つめた。


「見張りのエリックに頼みました。奴は身軽で手先も器用なので」

「彼とは話をしたかい?」

「いいえ。まだ、これからです」


「じゃ、俺がエリックにどういう作業をしたのか話をしてみる。君は水樽の後片付けが済み次第、他の積荷の搬入作業を再開してくれ。出港日が決まった」


 ジャーヴィスの顔に再び緊張感が走った。


「何時ですか?」

「明後日。早朝の上げ潮に乗って出港するつもりでいてくれ」


 シャインはそれだけを呟き、ジャーヴィスから離れた。自然と急ぎ足になるのを感じながら、いまだ積み込みができていない無数の樽や木箱が突堤に置かれている様に嘆息する。


 水樽の片付けを終えた水兵達が、何人か集まって談笑していた。その中に、何故海軍が雇ったか首をかしげるような二人組――ラティとティーナや、航海長シルフィードもいた。シャインは黙ったまま彼等に近付いた。


「片付けが終わったら、ジャーヴィス副長の指示を受けて、次の積荷を搬入してくれ」


 水兵達は一応にげんなりした表情でシャインを見つめた。


 シルフィードはへらへらとした愛想笑いをし、ティーナは肩を落として重い溜息を吐き、ラティに至ってはあからさまな敵意が金色の睫毛の下から見える瞳に浮かんでいた。


「何か言いたい事でもあるのかい? ラティ」


 シャインはロワールハイネス号に乗り込もうとする足を止めた。見て見ぬ振りをしてもよかったが、ラティの瞳は明らかにシャインへの冷たい敵意に満ちていた。

 ここまであけすけな態度をとられたら、他の水兵達の手前、無視するわけにはいかない。

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