1-18 偶然は何度も続かない(2)

「いえ。別に」


 ラティは切りそろえた淡い金髪を右手で軽く払いのけ、さらりと言ってのけた。

 そんなはずはないだろう。

 シャインはラティを黙ったまま見つめた。


 その時、大人しいティーナがラティのシャツの裾をつまんで引っ張った。シャインとラティの間に満ちた、気まずい空気を察知したのだろう。


「グラヴェール艦長。ラティは本当に些細なことでも、自分の気に食わない事があったらそれだけで無愛想になる人間ですの。ほらっ、ラティ。そんな顔してたら艦長に失礼でしょ」


 ラティは五月蝿気にティーナを睨み付けた。


「何よ。みんなこそこそと。嫌なら嫌だって、はっきり言えばいいのよ!」

「そっ、そんなラティ! だって……」


 シャインは両腕を組んだ。


「遠慮はいらない。言いたい事があれば言って欲しい。ラティ」


 はっとティーナが息を飲んだ。彼等を取り囲むように立つ他の水兵達も雑談を止めて、睨み合うシャインとラティを凝視している。


「い、いや。大したことじゃないんですよ。グラヴェール艦長」


 伸ばしっぱなしの黒髪を一つに束ねたシルフィード航海長が、額にうっすらと冷や汗を浮かべながら割り込んできた。が、顔色一つ変えないラティが、黙ったままその足を思いっきり踏み付けた。


「うぎゃ!」

「下がってなよ。航海長マスター。そもそもあんたが言い出したことなんだしね」


 ラティはまるでシャインに対抗するように、薄い胸の前で腕を組んだ。その瞳は相変わらず挑発するようなきつい色のままだ。


「じゃ、遠慮なく言わせて頂くわ。グラヴェール艦長」

「ああ」


 シャインも険しい表情で頭一つ分背の高いラティを見上げた。


「昨日から立続けに起こっているロワールハイネス号での不審事故。おかしいと思いません?」

「おかしい? それはどういう風に?」


 ラティは両手を頬に添えて「えーっ!」と大仰な声を上げた。真直ぐな金髪を振り乱し、信じられないといわんばかりに目を見開いたまま。


「艦長! 私、あなたのそういう神経が信じられません! 誰がどう考えたって、ロワールハイネス号にはおかしなことばかり起きてるじゃないの! 錨鎖を丸ごと河に落としたり、曳航用の太いロープが勝手に切断されたり。果てまたさっきは、水樽が落っこちたんですのよ? いくら偶然とはいえ、偶然はこんなにいつもいつも重なるもんじゃないわ」


 シャインは黙ったままラティの言い分をきいていた。暗に彼が何を言いたいのかわからないほど鈍感ではない。


「で、君はどうしたいんだ?」


 シャインは敢えてラティにそう言い返した。

 不満があるのなら、ここで一切をぶちまけさせた方がいい。おそらくそれは、この場にいる水兵達みんなが思っている事だろうから。


 物おじせずラティを見据えるシャインに意表を突かれたのか、ラティの目に動揺の光が一瞬浮かんだ。


「どうしたいって……そ、そんなの、ただの水兵である私にはわかんないわよ! でも、こうなった責任は誰にあるのか。それはご存知でいらっしゃるわよね? グラヴェール艦長」


 シャインは青緑の瞳を細めた。口の中に苦いものが広がっていく。

 ラティの背後にいるティーナやシルフィード、他の水兵は無言だったが、その視線はラティと同じように暗い感情を込めたままシャインへと注がれている。


 そしてシャインは今更になって、背後にジャーヴィスが立っている事に気が付いた。副長は黙ったまま彼等と一緒にシャインの顔を見つめている。


 どうやら彼もラティが何を言うのか知っている人間のようだ。そうでなければ、さっさとラティ達を黙らせて、遅れている積み込み作業にかからせるはずだからだ。

 ラティは乾いてきた唇を舌で湿らせ言葉を続けた。


「私は船の事を知らないけど、シルフィード航海長が教えてくれた。新造艦の命名式で祝酒のビンが一度で割れなかった船は、処女航海で必ず沈むっていう言い伝えがあることを。だから、ロワールハイネス号はんじゃないの? あなたのせいで」


 シャインは込み上げてきた苦いものをなんとか飲み下した。


「君の言いたかった事はそれだけかい?」


 ラティは口をきゅっと結びながら頷いた。そして、後ろに立っていたシルフィードの太い腕を掴んで、そのまま彼を自分の隣に引っぱりだした。


「ほら! シルフィード航海長。あんたの知ってる『船の精霊レイディ』の話を艦長にしてあげて! じゃないと、私の頭がおかしいって思われるでしょ?」

「えっ、ええっ! 俺がっ?」


 突然シャインの前に引っぱりだされたシルフィードは、緑のタレ目を思いっきり見開きながら首を振った。


「ふうん。『船の精霊レイディ』だなんて、また非日常的なものを持ち出すんだね。あの迷信と同じように」


「お言葉ですが、グラヴェール艦長。彼女の存在を無視できないのは、艦長ご自身がよくおわかりだと思うんですけどね」


 シャインの前に出て腹をくくったのか、シルフィードは動揺していた態度を一変させて、今は不敵な笑みを大きな唇に浮かべていた。


「船のレイディのことは良く知ってる。彼女は船に宿る魂のような存在で、それを目にできる人間は極めて稀だということを」


 シャインは一瞬瞳を伏せた。

 そう。自分は彼女をよく知っている――。

 この場で語っても彼らには信じてもらえないだろうが。


「なら話は早い。グラヴェール艦長。胸に手を当てて、よおっく考えてみて下さい。何故命名式で祝酒のビンが割れなかったのを」

「シルフィード。待て」


 シャインとシルフィードの間にジャーヴィスが割り込んできた。副長はシルフィードの肩を掴み、冴え冴えとした瞳を向けながら叱咤する口調で呟いた。


「あの時艦長は何者かに狙撃されたんだ。だから、祝酒を割り損なったのは仕方がないことだろう」

「おや珍しい。あなたが艦長を庇うなんて。ジャーヴィス副長」


 シルフィードの笑みが一層醜く歪んだ。


「艦長は狙撃されたのかもしれねぇが、弾は外れたんですぜ? しかも祝酒のビンを斜桁バウスプリットに振り下ろしていた所だった。なのにビンは割れなかった。その理由は一つしかない」

「何?」


 シルフィードは畏怖を込めた声でおごそかに言った。


「ロワールハイネス号の『船の精霊(レイディ)』が、グラヴェール艦長を。自分を任せる艦長に相応しくないとしてね。ビンが割れなかった理由は、それしかねぇでしょう?」

「……」


 シャインは顔をしかめた。

 確かに、祝酒のビンを割ろうとした時、邪魔が入った。


『人間風情が、私を御せるなどと思うな!!』


 その気配はシャインの手首を物凄い力で掴み、祝酒のビンを割るのを止めた。手首が千切れてしまうのではと思ったほどだ。


 でもこれだけは言える。

 あれは『彼女』ではなかった。

 『彼女』の姿を模したの何かだ。


 だからシルフィードが言う『船の精霊レイディ』に認められなかったのが理由だとは思えない。


 あの船鐘シップベルにはきっとまだ大きな秘密が隠されている。

 けれどそれを水兵達に話した所で彼らは信じるだろうか。いや、彼らの中にある不安感を余計増大させるだけだ。


 シャインは黙ったまま自分の顔を見つめるシルフィードを凝視した。彼の隣で疑念に満ちた視線を向けるラティや水兵達、何か言いたげなジャーヴィスの顔を順番に見回した。


 あなたのせいなのですか? この一連の不審事故が起きた原因は?

 声に出さなくても彼等がそう思っているのは容易に察する事ができる。

 シャインは水兵達に厳しい眼差しを向けた。


「君達の言いたい事は理解した。事故の原因は俺とジャーヴィス副長で必ず突き止める。この件は取りあえず保留にする。全員、即刻持ち場に戻り、積み込み作業を開始してくれ。出港日が明後日に決まった。それを遅らせるわけにはいかない」


「グラヴェール艦長! ちょっと待ってくれ! まだ、あんたの返事を聞かせてもらってないぜ!」


 シルフィードがぎょっとして驚きの声を上げた。

 引き下がらない態度を見せたシルフィードに、シャインは瞳を細め警告した。

 彼の言動は他の水兵へ悪影響を及ぼしかねない。


「シルフィード航海長。君は俺よりずっと長く船に乗って経験もあるが、これだけは言っておく。万が一、俺がロワールハイネス号の『船のレイディ』に認められなかったとしても、そんな非現実的な理由だけで、俺を解任させる事はできないというのが、当然わかっていての発言だろうね?」


「……そ、それは……」


 顔を引きつらせながらシルフィードが口の中で言葉を詰まらせる。


「いい加減にしろ、シルフィード!」


 大男の隣にジャーヴィスが立った。

 その目つきは研がれた刃のように鋭い。


「この船で何が起きているのか私にもわからないが、お前の発言は上官不敬罪に当たる。罰として」


 シャインは右手を上げジャーヴィスの言葉を遮った。


「今回だけは聞かなかったことにする。全員解散して、明後日の出港に間に合うように積荷の積み込みを急いでくれ。俺は自室にいる。何かあったら呼んでくれ」

「……はっ」


 水兵達が渋々頭を垂れ、それぞれ持ち場へと戻った。


「グラヴェール艦長」

「なんだい?」


 ジャーヴィスに呼び止められシャインは足を止めた。

 怪訝な顔で振り返るとジャーヴィスがそっと近づいてきて小声で囁いた。


「後でご報告したいことがあります。積み込み作業が終わってから伺ってもよろしいでしょうか?」


 シャインは無言でうなずいた。

 ジャーヴィスにとある調査を依頼していたのだ。


「わかった。作業が終わり次第来てくれ。ちなみに何時ぐらいになるだろうか?」


 ジャーヴィスは振り返り、突堤の荷馬車の荷台に積まれた荷物を確認した。


「17時には行けると思います」

「わかった。それから、エリックを部屋に呼んでくれ。滑車を取り付けた時の事情を訊きたい」

「了解いたしました」


 作業に戻るジャーヴィスの後姿を見送って、シャインは自室へと歩いて行った。


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