1-16 水と油(2)
シャインは静かにエスペランサ司令官の執務室の扉を閉めた。アドビスとの会見は十分と満たないものであった。
基本的に命令内容に対して質問することは許されない。それを果たすためにどのように段取りを整えるか。艦長ならば自ら考えその方法を探るべきである。
それにいつもの事だがあの父親は用件のみしか口にしない。
だからシャインも聞かれたことしか答えない。
質問しても無視されるので元より尋ねることなどしない。
あまりにもそっけない会話しかしない自分達を他人が見たら、親子だなんてきっと誰も信じないだろう。
しかし――やはり今回の命令には疑問が残る。
命令書が入った青い封筒を小脇に抱え、シャインは廊下を歩き出した。頭の中では二つの疑問で一杯だった。
まず一つ目は、港への到着期限が定められていることである。
けれど外洋艦隊向けの支援物資や命令書を運ぶ「使い走り」に出される命令として、これは別に珍しいことではない。
問題は定められた期限が五日とかなり短いことだ。
通常アスラトル港~ジェミナ・クラス港間の平均航海日数は七日から十日である。
シャインが知る限り、五日以内で到着した船というのは商船も含めて今まで存在しない。
この期限を設定した理由はいわずもがな、ロワールハイネス号にはそれだけの速度が出せる船として認識されているのだろう。
アドビス自身が『彼女の性能とシャインの指揮能力を見極める航海』であると語ったように。
そして二つ目の疑問は、ロワールハイネス号にディアナ=アリスティド公爵令嬢を乗せることである。
ディアナはこのアスラトルを治める領主・アリスティド公爵の三番目の娘だった。貴人中の貴人である。確かにこれは、アドビス直々から申し付けられてもおかしくない重大任務である。
シャインは俯いていた面をあげて口元に手袋をはめた手を添えた。
アリスティド公爵家も自分の船を持っている。
だがアドビスが補足で語った所によると、どうもディアナ自身がロワールハイネス号を指名したらしいのだ。
彼女の言い分があっさり通ったのは、実はあまり不思議な事ではない。
アリスティド公爵には二つ年下の弟がいて、彼はエルシーア海軍の最高位である、海軍統括卿であった。それにディアナの警護のことも考えると、海軍の船に乗せた方が安心だと思ったのだろう。
アスラトルからジェミナ・クラスへの航海は、大陸沿岸に沿ってエルシーア海を北上するのだが、最近は客船を狙った海賊が出没しているらしく、公爵家の船が単隻で航行するのは危険だと判断したのだろう。
もっとも、ロワールハイネス号は通称『使い走り』と揶揄される、後方支援の
ディアナが指名したとはいえ、ロワールハイネス号はアスラトル領主の娘を護衛するにはあまりにも心もとない装備の船だ。だからこそアドビスは、直々にシャインを呼び出し命じたのだろう。
『決して失敗するな』
アドビスはそう言わなかったが、突き刺さるような彼の眼差しを向けられれば嫌でもわかる。
ディアナ=アリスティド姫。お変わりはないだろうか。
その名を聞くまで、聡明で明けの明星のような煌めきを放つ公爵令嬢のことは、すっかり忘れていた。
ディアナに会ったのは二年前のことだった。ちょうどシャインが外洋艦隊に配属になった頃で、出港の前日はアスラトルで年に一度催される『
その年の『船霊祭』には王都から国王の一人娘、ミュリン王女が視察に訪れ、シャインはアリスティド海軍統括卿より案内役を仰せつかった。
その時王女の世話役として付き添っていたのが、アリスティド公爵令嬢のディアナだったのだ。
ディアナはシャインと同じ年にもかかわらず、三つほど上に感じられるくらいしっかりとした女性だった。
王女の案内役をなんとか無事に勤めることができたのも、彼女が補佐してくれたお陰に他ならない。シャインにとって大恩のある女性だ。
ロワールハイネス号を選んだ理由。
まさか。
もう何度目だろう。ため息をつきながらシャインは階段を下りた。やっと海軍省の玄関口へと続く廊下に出た時だった。
「シャイン・グラヴェール?」
不意に名前を呼ばれシャインは足を止めた。目の前に黒い軍服姿のすらりとした男が立っている。黒の軍服は将官のみ着用が許される。しかも肩から胸に這わせた金鎖の数は三本。アドビスと同じ中将位の高官だ。シャインは咄嗟に壁際に身を寄せ道を譲った。
「ああ、余計な気は遣わなくてもいい」
目の前の将官は銀縁の眼鏡のつるに手を添え薄い唇に笑みを浮かべた。四十には満たないがその年で中将位に就くには若い。碧眼が多いエルシーア人では滅多に見かけない夕闇色の瞳がその奥で鋭く光る。
「何か、ご用でしょうか」
戸惑いがちにシャインは尋ねた。
「いや、呼び止めてすまない」
将官はシャインに詫びつつも、その視線は興味深げに命令書が入った青い封筒に注がれている。
「ロワールハイネス号の処女航海もまもなくだな。命令書をもらったんだね」
シャインは黙ったまま頷いた。目の前の将官はシャインの事を知っているみたいだが、こちらはそうではない。
「ああ、君とは初対面だった。挨拶が遅れたが、私はジェミナ・クラス軍港司令官のツヴァイスだ。よろしく」
冷たそうな外見とは裏腹に、ツヴァイスと名乗った将官はシャインに向かって優雅に微笑した。
「ご挨拶恐れ入ります」
呼び止められた理由がわからないので、戸惑いつつもシャインは再び頭を下げた。
というか目の前に立つ将官の名前を知って、シャインは自身の運のなさを憂いた。
今日は本当についていない。
どうしてこう、関わりたくない人物と遭遇してしまうのか。
だから
ジェミナ・クラス軍港司令官のオーリン・ツヴァイスと、参謀司令官アドビス・グラヴェールは水と油。まさに犬猿の仲で知られ、二人が出くわした現場を見たら、即座に尻に帆かけて逃げることだと、士官学校の教官達が処世術として教えているほどである。
片方に気に入られ昇進の機会があったとしても、もう片方が黙ってはおらず、海軍での出世を望む後ろ盾としては共倒れになるから、関わらない方がいいという噂まである。そしてツヴァイスは気分屋でも知られている。
面識もないのに声をかけられるのは、やはり自分がアドビス・グラヴェールの息子だからか。彼は夕闇色の瞳を細め、何かを思い出すような顔でシャインを見つめていた。
「ああ、用というほどではないんだが。ちょっとあの男と君のことで『賭け』をしてね」
「――あの男?」
怪訝な顔をしてシャインは尋ねた。
シャインの不審を感じたのだろう、ツヴァイスは肩を竦めて片手を振った。
「言葉遣いが悪かった。許してくれ。知っていると思うが、私はどうも君の父上とは絶望的に合わなくてね」
シャインは表情を変えず首を振った。
アドビスを嫌うツヴァイスの気持ちはわからなくもない。
シャインもアドビスの事はあまりいい感情を抱いていない。
「いえ。お気になさらないで下さい」
「すまないな。決して侮辱しているわけではない」
「承知しております。お気遣いは不要です」
「そうか。君は
どういう意味だろうか。
シャインはその場で直立したままツヴァイスの言葉を待った。
ツヴァイスは軽く嘆息した。
「それなのに、アドビスは君の価値を全く分かっていない。君をあんな「使い走り」の小船に乗せるなんてもったいない。君は半年前、重傷を負いながらも海賊に襲撃されたアイル号を、たった一人でアスラトルまで帰港させた英雄じゃないか。君は君の価値に見合った船に乗るべきだ。商船じゃないんだから、船を早く走らせることだけが一番じゃない。どんな困難にも恐れず立ち向かえる鋼の心が、我々軍人に尤も必要なものだ」
シャインは目を伏せた。
「折角のお言葉ですが、少々買い被りすぎではありませんか? アイル号のことは、たまたま運が良かっただけです。それでは、出港の準備がありますので、これにて失礼いたします」
暇を告げようとしたシャインの腕をツヴァイスが掴んだ。
押し殺した声色でツヴァイスが囁く。
「艦長職を金で買うのは不正だぞ」
驚きに目を見張るシャインのそれを覗き込みながらツヴァイスが言葉を続けた。
「君の昇進は、アドビスが人事審査委員のトリニティに圧力をかけて認めさせたことにより実現した」
シャインはツヴァイスの顔を見つめ返しながら鋭く答えた。
「俺はロワールハイネス号への転属願いを出しただけです。寧ろそれが本当なら」
「ああ。もちろん君は悪くない。それに官職を金で買うのは不正だといいながら、毎年海軍の予算は削られているため、補填のためにも実際は暗黙の了解で公然と行われている。私だって表立ってアドビスに楯突きたいわけではない。けれど、君の実力を見定めてからロワールハイネス号の艦長に任命したらどうだと言ったのだ」
「それは……一体どういう……」
「君は海尉になってまだ二年も経っていない。将来は有望だがね。だから、昇格を承認するかわりに、アドビスと賭けをしたのだ。命令書にも書いてあるが、ジェミナ・クラス港まで五日で到着すれば君の勝ち。晴れて正式にロワールハイネス号の艦長となれる。だが一分でも遅れたら君は解任され、再び海尉として外洋艦隊へ配属される」
アドビスはそんなことを言っていなかった。
これは本当なのか?
動揺を抑えながらシャインは冷静に口を開いた。
「ツヴァイス司令。あなたの指揮権はジェミナ・クラスでしか発揮されません。俺にそれを強要する権限はおありではないはず」
銀縁の眼鏡の奥の瞳が意味ありげにきらめいた。
「ああ。君が私の命令に従う必要はない。でもその命令書は君の所属するアスラトルの発令部から出されたものだ。納得がいかないのなら、自分の目で確認してみたまえ」
ツヴァイスの自信に満ちた口調は不吉としかいいようがない。
シャインは抱えていた青い封筒から静かに命令書を引き出した。
その文面に目を通す。
「――五日以内にジェミナ・クラス港に到着しなかった場合は、シャイン・グラヴェールの艦長職解任と、アノリア方面第1艦隊の外洋勤務を命じる――」
シャインは命令書の下部にあるサインを信じられない思いで凝視した。
「――アスラトル参謀司令官 アドビス・グラヴェール」
唇が震えそうになるのをなんとかこらえる。
これが『賭け』の正体か。
シャインの動揺を満足げに見ながらツヴァイスが肩に手を置き薄く微笑した。
「それでは私はジェミナ・クラスへ戻るため先に発つ。『ノーブルブルー』のウインガード号で戻るから到着は一週間後だな。明後日出港する君が五日以内にジェミナ・クラスに来られたら、我々は港で再会するだろう」
「……」
「それではよい航海を」
シャインは辛うじて唇を動かし笑みを作った。
「閣下も、お気をつけて」
「ありがとう」
海軍省の外へと出るツヴァイスの背中を見送りながら、シャインは強ばった指を動かし命令書を封筒の中へしまった。
とんだ処女航海になりそうだ。
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