1-15 水と油(1)

 翌日。早朝に造船所を出たロワールハイネス号は、遅延する事なく軍港の突堤に到着した。けれど、誰もが口には出さなかったが、またおかしな出来事が起きないかと不安には思っていた。


 船を着岸させ、突堤の綱止めに係留索を巻いて、これで船が流されるということはない。そう誰もが確信したとき、甲板の上では全員が自然と安堵したような笑みを浮かべていた。


 ロワールハイネス号が接岸した白い石で組まれた突堤には、朝八時から開始される積み込み作業のため、続々と荷馬車が到着していた。その数七台。


 水や酒が入った大きな樽に食料の詰められた木箱。万一の破損のために積む予備の帆や円材、ロープ、油等など。勿論ロワールハイネス号の乗組員のための糧食も含まれているが、大半は運搬の為の積荷である。


「さあ。まずは水樽からいこうぜ」

「おうよ。一番重くて数の多いやつからな」


 輸送係の明瞭で活発な声が突堤に響く。シャインとジャーヴィスはロワールハイネス号の後部甲板からその光景を見て一応に溜息をついた。


 毎度のことながら、出港前の積み込み作業は神経を使うし、重量物を大量に扱うから骨も折れる。食料の一部を作業の最中に水兵もいるから、そちらにも目を光らせなければならない。


「じゃ、これから海軍本部へ行って命令書をもらってくる。その間、積み込みの監督をよろしく頼む。ジャーヴィス副長」

「了解しました」


 シャインは紐に綴じた積荷の目録をジャーヴィスに手渡した。

 記載通りの荷物と数が揃っているか、それを確認するのは主計長の役目である。


 けれど士官がシャインを含め副長ジャーヴィス、士官候補生クラウス、航海長シルフィードと四人しかいないロワールハイネス号では、ジャーヴィスが主計長を兼任している。


「さあ皆、甲板に集合だ。積み込みを始めるぞ!」


 水兵達を召集するジャーヴィスの声を聞きながら、シャインは彼等に背を向け突堤を後にした。



  ◇◇◇



 エルシーア海軍本部(海軍省)は軍港からエルドロイン河沿いに、東へ馬車で三十分ほど揺られた所にある。


 ここアスラトルの街に海軍本部が設置されたのは、エルドロイン河を北に遡ればエルシーアの王都ミレンディルアに五日で行く事ができるのでその警備のためである。


 不審船が王都へ入り込まないよう、アスラトルとミレンディルアの河境には、海軍の船は勿論、王家の近衛騎士団が管轄する『護衛船』も常駐している。


 アスラトルの街は白壁に黒い屋根という建物が多い。

 エルドロイン河東岸に設置された海軍本部もその例に洩れず、黒曜石で葺かれた三角屋根の尖塔を中心に、壁の白と黒く塗装された窓枠のコントラストが美しい建物である。


 シャインは軍港から一人乗り用の軽馬車を拾い、海軍省の正面玄関前で降りた。

 黒金の門扉には、エルシーア海軍の記章――抜き身の剣に絡み付く錨綱の彫刻が施されている。この門は馬車専用で、通常はその右手に作られた小さな通用門から出入りする。


 シャインは上部に弧を描いた黒い鉄の扉に近付き、格子越しに中を覗き込んだ。

 門を警備している若い守衛が、椅子に腰掛けて腕を組み、こっくりと船を漕いでいる。


 この忙しい時に。

 シャインは小さく嘆息し、拳を握ると、わざと大きな音をたてて門扉を叩いた。


「す、すみません!」


 飛び起きた守衛に門を開けさせ、シャインはいそいそと海軍省の建物の奥に歩を進めた。命令書を受け取って、この建物から立ち去りたい。


 シャインの足は自然と早くなった。ここには一番会いたくない人物と一番遭遇する確率が高い場所なのだ。


 まだ朝が早いせいか、海軍省の中の人影はまばらだった。けれどあと一時間もすれば、各部署の担当者が順次出勤してくる。


 シャインは階段を三階まで昇り、人ひとりいない廊下に出て安堵した。

 朝のやわらかな光が古風な窓枠の影を濃紺の絨毯の上に落としている。ここは将官たちが書類仕事をするための執務室がある階で、等間隔に黒檀の扉が六部屋ほど続いている。


 この廊下の一番奥に、シャインが向かう目的の部屋があった。後方支援艦隊の長・エスペランサ司令官の部屋である。シャインは軽く拳を握りしめて扉を二回叩いた。


「誰だ?」


 扉の奥からエスペランサの上ずった、ややかん高い声が聞こえる。


「ロワールハイネス号のグラヴェールです。命令書の受け取りに参上しました」

「あ、ああ。待っていたぞ。入ってくれ」

「失礼いたします」


 シャインは扉を開けた。エスペランサの執務室へ足を踏み入れる。

 だがその足は誰かに足首を掴まれたかのように動きを止めた。


 どういうことだ?

 シャインは暫し呆然とその場に立ち尽くした。


 執務机の前にはこの部屋の主であるはずのひょろりとしたエスペランサが、畏縮するように背中を丸めて立っていた。振り返った後方司令官の顔は青白く、大きな圧力感の前に緊張しているのがはっきりとわかる。


 シャインはエスペランサにちらりと視線を向け、彼に畏怖を与えているものが座っている執務机を凝視した。


 金色の獅子のように輝く髪を手櫛で後方にかき上げ、黒の将官の軍服を纏った大柄の男がエスペランサの席を占領している。


 四十を半ばすぎたその顔は岩を荒削りに削ったように造形が深く、青灰色の瞳は猛禽の鷹のように鋭利な光を帯びていた。


 まるで心の中を見透かすように突き刺さるような眼光。ひきしめられた威厳ある口元。エスペランサが怯えるのも無理はない。


 椅子に腰掛ける男は、ただ優雅に席についているだけにも関わらず、その場に居る者をひれ伏させるような威圧感を持っていた。


 シャインは乾いてきた唇を湿らせ、こちらを睨むように見つめる黒服の男に向かって頭を下げた。


「申し訳ありません。まだお話が終わっていないのにお邪魔したようです。一旦失礼いたします」


 シャインはエスペランサとその席に座る将官に向かって再び頭を下げ、部屋を出るために踵を返した。


「待て」


 ややかすれがかった重苦しい声がシャインを呼び止めた。シャインは背を向けたまま目を閉じた。


「命令書を取りに来たのだろう。お前は」


 シャインは呼吸を整え振り返った。

 そうか。そういうことか。


 これであの男がエスペランサの部屋に来ている理由がわかった。まさか一番会いたくない人間が、たとえ、こちらの都合で会ってくれと頼んだって会おうとしないあの男が、自分を待っていようとは思ってもみなかった。


 シャインは内心溜息をつきながら、ゆっくりと執務席の方へ近寄った。


「あなたが直々に命令書を下さるとは。ロワールハイネス号には余程の大任が与えられるのですね。グラヴェール参謀司令官どの」


 シャインを見上げる将官――エルシーア海軍を裏で牛耳っていると噂される参謀部の長。そしてシャインの実父でもあるアドビス・グラヴェールは、六年ぶりに顔を合わせた息子へにこりともせず薄い唇を歪めただけだった。


「ロワールハイネス号への命令を通達する」

「謹んで拝命いたします」


 シャインは了解の印に軽く頭を垂れた。


「ロワールハイネス号の出港は明後日、早朝。ジェミナ・クラス港まで、ディアナ=アリスティド公爵令嬢を無事に送り届ける事だ。ただし」


 アドビスは小さく嘆息し、興味がなさそうな口調で付け加えた。


「港への到着期限は五日以内とする。これは新造艦ロワールハイネス号の性能及び、お前の指揮能力を見極める航海でもある。以上だ」


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