1-12 参謀司令官の息子の立場

 命名式は結局中途半端な形で終わった。

 式が終われば来賓達は新造船に乗ることが許され各々シャインへ祝辞を述べる(これは建前だが)はずだった。


 けれどいろんな事件が重なったせいで、野次馬と来賓はエスペランサの命令で早々に造船所から退去させられた。


 そしてシャインを狙撃した犯人も見つからなかった。造船所内には船の材料となる丸太や木材があちこち山のように積まれており、それらに身を隠しながら逃亡することが容易だったのである。




「今日はいろいろあってハラハラさせられたが、大変なのはこれからだぞ。グラヴェール艦長」


 静けさを取り戻した新造船――今はエルシーア海軍後方艦隊に配備されたロワールハイネス号――その艦長室で、エスペランサ後方司令官は席を立った。


「閣下にもご心配をおかけして申し訳ありませんでした」


 シャインは出入口の扉の前で、再び神妙な面持ちで頭を下げた。

 応接用の机と椅子しか搬入されていない艦長室はがらんとしている。其れ故まだそうとても呼べたものではないが。

 部屋を出るために、エスペランサがこちらへ向かって歩いてきた。


「もう一度確認するが、命を狙われるようなことに心当たりはないんだな?」


 そんなことをきかれても。

 脳裏を『船鐘シップベル』のことが過ったがそれをエスペランサに言うつもりはない。シャインは自虐的な笑みを口元に浮かべた。


にはありません。しかし、グラヴェール参謀司令官の息子としてならあらゆる可能性を否定することができません。エルシーア海を荒らしていた海賊船団を駆逐したあの人は、今もわずかにいる海賊から恨まれて、実家の方には多い時で毎月三十通あまりの脅迫状が届きます。


子供の頃、誘拐されかけたことも何度かありますし……あ、でもその時の海賊はとても優しくて、参謀司令の武勇伝を話してくれたんです。あの人はとても無口なので、俺にちっとも昔の話をしてくれないんです。


なんでもあの人は、海賊を懐柔し、彼等の拠点を突き止めてから皆殺しにしたり、船を焼き討ちしたそうですね。涙ながらに話をした海賊は、リンゴとかマフィンとか美味しいお菓子を沢山くれました。でも中にしびれ薬が入っていたので、息ができなくなって困りました。


それから軍服姿で街を歩くとあの人の機嫌を損ねて罷免された元将官だという方達にも会いますよ。もっとも、路地裏でナイフを突き付けられ、慰謝料を請求されることはわかっていますので、申し訳ないと思いつつ、こんな風に――」


 シャインは濃紺の軍服の裾を跳ね上げて、膝丈の長い長靴のベルトへ手を伸ばした。そこから銀の光が弧を描いたかと思うとそれはエスペランサの喉元へ一閃する。


「うわあっ!」


 同時にエスペランサの正面からシャインの姿は消えていた。いや、小振りの銀の短剣を手にしたシャインは、背後からエスペランサの首を抱え、それをじっとりと汗をかいた首筋に押し当てていた。

 エスペランサはまるで石像のように体を固まらせて、その場に立ち尽くした。


「このように……失礼ながら先制することにしています」


 エスペランサの耳元でシャインは小さく囁いた。その声は、まるで氷の薔薇が散るような柔らかな死神の吐息――。


「ご無礼いたしました。エスペランサ後方司令官」


 シャインはエスペランサの喉元から短剣を外した。濃紺のケープをひらりと舞わせ、流れるような仕種で再び短剣を長靴のベルトへと戻す。


「グ、グラヴェール艦長!」


 エスペランサがようやく解放されたことに気付いて口を開いた。

 シャインの名を呼ぶ声が裏返って異様に高い。


 少し悪ふざけがすぎたかもしれない。シャインは自分の軽率な行動を悔いた。


 エスペランサは海軍本部にいる将官の中でも小心なことで有名だが決して悪い人間ではない。けれどそれ故に、ついからかいたくなってしまうのだ。

 シャインは頬にかかる月影色の淡い金髪を払いのけ、深々と頭を垂れた。


「申し訳ありませんでした。冗談でも閣下に刃を向けるなどあってはならないこと」

「……いや。君はそうしなければ自分の身を護ることができなかった」


 意外な言葉に顔を上げると、眉根を寄せて心持ち瞳をうるませたエスペランサがこちらを見ている。


「グラヴェール参謀司令の息子がいかに大変か、身をもって感じた。今までよくぞ無事に生きていたな」


 シャインは瞳を伏せ小さく笑んだ。

 人はいつか死ぬ。いいかえれば、その時まで生かされているようなものだ。

 自分の意思もあるが、それよりもっと大きな力で生かされていると感じる。


『ダメ! 今すぐ離れて!』


 不意に命名式で自分を突き飛ばした少女の声が脳裏に浮かんだ。

 彼女が突き飛ばしてくれなければ、あの時、自分は――。


 シャインはそっと左肩に手を当てた。

 いや、もっと以前に自分は彼女に命を救われたのだ。


「そうそう。大切なことを忘れていた。グラヴェール艦長」

「はい」


 シャインは物思いから我に返った。


「今日中にロワールハイネス号を軍港の第三突堤に移動させておくように。積荷は朝八時ごろ順次突堤に到着する。そしてロワールハイネス号の命令書を取りに来てくれ。海軍本部の私の執務室に九時だ」


「承知いたしました」





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