1-13 思わぬ出来事(1)

 エスペランサが帰ってから、シャインはロワールハイネス号の艦長として最初の仕事に取りかかった。


 船は造船所にあるので、エルドロイン河を更に三十分ほど南下した所にある軍港へ移動させなければならない。


 勿論、いきなり帆を上げるなんてことはしない。岸にぶつかる心配がない河の中央部に出るまで、牽引ロープをくくりつけた小船でロワールハイネス号をひっぱるのだ。それから少しだけ帆を張り河を下る。


「さあ! みんなしっかり漕いで!」


 小船の船首には小柄なクラウス士官候補生が立って音頭をとっている。その後ろで櫂を持った十四名の水兵達が上腕の筋肉を震わせながら船を漕ぐ。


「さあ漕いで。みんながんばれ~!」

「いきなりこんな重労働をさせられるとは思いませんでした。どうしましょう、ラティ?」


 ぜいぜいと息をつきつつ、青味を帯びた黒髪の水兵がつぶやいた。櫂を握る指は男にしては華奢で細長く、長い髪を後ろでひっつめて夜会巻きにしている。


「だからアタシは嫌だって言ったのさ。お金なら他所でももっと沢山稼げるっていうのに。これ以上筋肉がついたらアンタのせいだからね! ティーナ!」


 その黒髪の水兵の隣で櫂を握る金髪頭が、溜息混じりに返事をした。まっすぐなその髪は肩口の長さで綺麗に切り揃えられている。こちらのほうが頭一つ分背が高く、服の上からでもひきしまった筋肉がついているとわかる。


 他の水兵たちは白い綿のシャツに黒の半ズボンといった格好だが、この二人だけは白長袖に黒の長ズボン。目深に黒い帽子まで被っていた。


「こら! そこ! 無駄口を叩かないでしっかり漕げ!」


 船尾の船板に座り、小船の舵をとっている副長のジャーヴィスが、すかさず異様な二人の水兵のお喋りに雷を落とす。


「きゃっ! こわいっ!」

「コワイ~」

「なっ、なんだお前たち。その言葉遣いは」


 くるりと黒髪と金髪が振り返った。二人ともうっすらとほお紅を差し、つけ睫毛をつけ一見女性と見紛うほどの美貌の持ち主である。


「お……女? でも喉仏があるから男なのか?」


 ジャーヴィスはまじまじと二人の顔を見つめた。


「まあ、ジャーヴィス副長ったら。そんなに見つめられるとどきどきしてしまいますわ。私はティーナ。以前はアスラトルの劇場で歌を唱っておりましたの」


 黒髪の男――いや、顔は女というべきか。ティーナは右下に泣きぼくろがある、ちょっとおっとりした雰囲気の人物だ。髪を何故か夜会巻きにしているのは以前の職業故だろうか。


「あっ! 抜け駆けはなしだよ。ティーナったら! ジャーヴィス副長はアタシが目をつけてたんだからね。あっ、アタシはラティ。同じくティーナと一緒に劇場で踊り子をしてたんだ」


 気が強そうな水色の瞳でラティはジャーヴィスに強烈な流し目を送る。


「うっ……」


 ジャーヴィスはたまらず顔を背けた。一撃必殺なそれを喰らったら三日三晩熱がでてうなされそうな予感がしたのだ。


「あ! 俺知ってるぜ! あんた、ラティ・フィーリアだろ? 『西区』のウインダリア劇場で踊っているの見たことがあるぜ」


 ジャーヴィスの前で櫂を漕ぐシルフィードがうれしそうに声を上げた。ラティはにんまりとシルフィードに向かって笑いかけた。その輝ける美貌は女性以上に美しい。


「まぁ~アタシの事を知っている人がいるなんて光栄~。でもごめんなさい。あんたのような、がさつでむさくて筋肉バカは、私の好みじゃないの」

「なに~!」


 どっと小船の上で笑いが起きた。音頭をとっているはずのクラウスですら、その役目を忘れて笑い転げている。


「それより二人は、なんだって海軍なんかにきたんだよ?」


 ラティにあっさり袖にされたので、シルフィードはティーナに向かって話し掛けた。


「ええ。劇場が財政難でつぶれてしまいまして、早い話が生活に困りましたの」

「しかしよく海軍が採用したもんだな、あんたたちを。そう思いません? ジャーヴィス副長?」


 ジャーヴィスは先程からずっと黙りこくっていた。ラティの視線がまるで獲物を狙う肉食獣のように、こちらへ向けられ続けているのだ。


「ああ。何で海軍が採ったのか、私にもわからない。ええと、ティーナと……そのラティ」

「はい」

「はぁい」


 艶やかな声に再び小船の水兵達は手を叩き、ひゅーひゅーと口笛を吹く。

 繰り返すが、二人は女性と見紛うくらいの美形だが、立派な男性である。

 ジャーヴィスは握りしめた拳をふるふると小刻みに震わせながら、腹に力を込めて一喝した。


「そのふざけた格好は許さんからな! 船に戻ったら化粧は落とせ!!」



 ◇◇◇



 一方その頃。

 シャインはロワールハイネス号の後部甲板にある真新しい舵輪を握っていた。船首では船が正しい方向に向かっているか、障害物はないか、水兵で一人だけ船に残っているエリックが見張りに立っている。


 ロワールハイネス号はなんとかエルドロイン河へ滑り出した。シャインは昨日に比べて河の水かさが増していることに気付いた。王都のある上流で雨が沢山降ったのだろう。


 ロワールハイネス号はジャーヴィス達十四名が引っ張る小船のおかげでゆるやかな流れにのり、順調に河の中ほどに向かって動きだしている。


 ただしまだ気は抜けない。まだ岸から近い所にいる。

 河岸に吸い寄せられたらぶつかって船体が大破してしまうからだ。

 シャインは悪い想像を吹き飛ばすように頭を振った。


『命名式で祝酒のビンを一度で割ることができなければ、その船は処女航海で必ず沈む』


 ふと脳裏に例の迷信が蘇ってきた。誰が最初に言い出したのかもわからないくらい、古い古い時代から船乗り達が語り継いできた迷信。


 船を作り続けて三十年のホープにきいてみたら、いくらでもそれにまつわる不幸な船の話を教えてくれるだろう。


 しかしあの失敗は痛かった。精神的にとても。シャインはそっと唇を噛んだ。

 自分は何としてでも、あのビンを割らなくてはならなかったのだ。

 狙撃されたとしても、祝酒のビンだけは何があっても――。


 この迷信のおかげで、乗組員との雰囲気は気まずいを通り越して険悪なものになっていた。


 シャインはロワールハイネス号の舵輪は航海長シルフィードに任せて、皆と小船に乗って船を引っ張るつもりだった。けれど副長のジャーヴィスがすごい剣幕でそれを止めたのだ。


「あなたがなんですから本船にいて下さい!」


 確かにジャーヴィスの言うことは正しいと思う。自分はこの船の全権を預かるものとして軽々しく動いてはいけない。けれどあの場の雰囲気にはぴりぴりとした緊張感が張り詰めていた。


 ロワールハイネス号を動かすことで、乗組員のひとりひとりが、嫌でも迷信の存在を強く意識しているのをシャインは感じた。


 船乗りはがさつで荒っぽいという印象をもたれるが、実は目に見えない不可抗力や迷信を最も恐れている繊細な人種なのである。それは海の恐怖を身をもって知っているせいなのかもしれない。


 船底の板一枚下は全てを飲み込む暗澹とした水の深淵が広がっている。


『艦長が船と指輪を交わすのも、そんな深淵に飲み込まれる時の恐怖を一時でも薄れさせたいからだろうか――』


 シャインは右手の薬指にはめたままの金の指輪に目をやった。

 海で死んだ者は海神・青の女王の腕に抱かれ、安息の眠りにつくことができるといわれている。


 しかし、全員ではない――。 


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