1-11 迷信

 ジャーヴィスは確かに銃声を耳にした。同時に船首でいまにも祝酒のビンを割ろうとしていたシャインの体が後方に傾ぐのを目にした途端、誰よりも早くその場へ走り出していた。


「グラヴェール艦長!」


 新造船の甲板も、下でその光景を見ていた野次馬や来賓達も騒然としている。

 誰かがシャインを狙って発砲したのは確かだ。だとしたら賊はこの造船所から逃げられまい。なんせ野次馬を取り締るのに二十名の海兵隊がここにいるのだから。


「シルフィード。命名式はまだ完了していない。野次馬を船に上がらせないよう体を張って舷門げんもん(船の出入口)を守れ!」

「えっ! あ、はい!」


 こういう時シルフィードの大柄な体格が役に立つ。早速渡り板の上は血相を変えた海軍のお偉方が「何があった!」「グラヴェール艦長は無事か!」と、大仰な声で騒いでいる。


 ジャーヴィスは急いで祭壇のある船首部へと走っていった。そこには老いた神官が、ぶるぶると体を震わせながらうずくまっていた。その顔は真新しい紙のように色を失っている。ジャーヴィスは鋭く問いかけた。


「神官殿、お怪我はありませんか?」

「わ、私は大丈夫です。それより、艦長殿の方が……」


 ジャーヴィスは崩れた祭壇の上で仰向けに倒れているシャインの側に駆け寄った。


「グラヴェール艦長! 大丈夫ですか!」


 軽く肩を揺さぶってみるが、乱れた金髪の間から見える彼の目蓋は開く気配がない。


 どこを撃たれた? 肩か? 胸か?

 ジャーヴィスは素早くシャインの体に目を走らせたが軽く舌打ちした。彼は命名式のために一分の隙もなく艦長の正装をしており、色も濃紺のため銃創がわかりづらい。


 ジャーヴィスは焦りながら、取りあえずシャインの首に巻かれた薄紫色の襟飾りを外した。そこからのぞく白い絹のシャツに、血痕らしきものが見当たらないことに安堵する。


 念のためにシャツの釦を外して襟元をくつろげた時、ジャーヴィスはぎくりと体を強ばらせた。


「これは……一体……」


 ジャーヴィスは目を瞬いてシャインの左の鎖骨から肩に走る赤黒い傷跡を凝視した。まるで悪魔がつけた爪痕のようだ。一瞬探していた銃創かと思ったが、それは皮膚がひきつれ肉が盛り上がっているので今受けたものではないとわかる。


「これは酷いな」


 手当をした医者の処置が悪かったのか、その傷はシャインの青ざめた肌の上に未だ生々しい痕を残している。


「……っ!」


 ジャーヴィスは唐突に我に返った。

 気が付いたシャインが、ジャーヴィスの左腕を起き上がりざまに掴んでいた。

 息を飲むほど鮮やかな青緑の瞳を見開いて、何か問いかけるように唇を震わせている。


「グラヴェール艦長、大丈夫ですか?」


 そう呼び掛けると、虚空を見つめていたシャインの目に光が戻った。やがてそれはジャーヴィスの顔にふらりと視線が定まり、途端彼は空いた左手で額を押さえて俯いた。


「大丈夫ですか? 傷はどこです?」

「……傷?」


 月影色の淡い金髪で顔を隠したまま、シャインが小さく問い返す。くつろがれた襟元に気付いたのか、伸びた右手がそれを静かに掴んだ。


「ええそうです。誰かがあなたを狙って発砲したのです。それであなたは――」

「いや。俺は撃たれてはいない」


 シャインは鋭く返事をして、濃紺のマントの裾を揺らしながら立ち上がった。


 なんだ。やっぱり弾は外れていたのだな。

 ジャーヴィスは安堵した。しかし次の瞬間、シャインの肩を掴み下へ引っ張った。


「だからって! 安易に立ち上がらないで下さい! まだ賊があなたを狙っているかもしれないんですから!」


 するとシャインは子供のように、きょとんとした表情で、ジャーヴィスを見つめている。


「俺を? 誰が? 何のために?」

「何のためにって――!」


 それを聞きたいのはこっちのほうだ。現に発砲されて命を狙われたというのに。

 この人はひょっとして、銃声に驚いてひっくり返り、脳天を甲板で強打して倒れていただけじゃないだろうな。


 ジャーヴィスはあまりにも緊張感のないシャインの顔を見て、突然むらむらと怒りが込み上げてくるのを感じた。


「グラヴェール艦長。無事か! 無事であると言ってくれっ!」

「わわっ! まだ命名式は終わっちゃいないんですぜ、司令官どの! 勝手に船に乗られると困ります!」


 とにかくシャインが無事なことで安心したジャーヴィスは、その時船の中央部で飛び交う怒号に気が付いた。渡り板が渡された舷門げんもんへ即座に鋭利な視線を向ける。


 そこでは大男のシルフィードが、頭髪が寂しくなったのっぽのエスペランサ後方司令官を必死で押しとどめていた。


 だがエスペランサも大人しくしていない。寧ろ彼の方が目を剥き口角から唾を飛ばしながら、長い腕を伸ばしてなんとかシルフィードを突破しようともがいている。


「うるさい! 離せ! 彼に何かあったら、私がグラヴェール参謀司令に殺される! とっととそこをどかんか! 筋肉馬鹿がっ!」


 エスペランサがシルフィードの額に向かって頭付きを放つ。シルフィードは首を左へ傾けることによってそれを躱し、エスペランサの筋張った両肩を掴んで睨み返す。


「こっちだってどけない理由があるんだ! あんたが司令官だろうが海軍卿だろうが、俺はあんたを船に乗せるわけにはいかねぇ!」


「ぬぁにぃ~! たかが航海士の分際で。私を通さないと、お前を即座に軍法会議にかけてて船底くぐりの刑に処してやるぞ!」


『エスペランサ後方司令はよほどグラヴェール参謀司令が怖いのだな』

 ジャーヴィスは不謹慎だと思いつつ、目の前で繰り広げられている光景に笑いを噛み殺した。その時、隣にいたシャインが不意に立ち上がった。


 ジャーヴィスが危険ですからと制する前に、彼は長い濃紺のマントの裾を捌きながら舷門へ向かって歩いていく。左右に分けた金の前髪を払いのけ、口元をひきしめたその顔からは、先程見せた子供っぽい表情は消え失せて、新任艦長らしい緊張感に満ちたものに戻っていた。


「シルフィード航海長。もういい。エスペランサ後方司令官から手を放せ」


 明瞭な声で一喝したシャインの声にシルフィードが振り返った。しかしその顔は、エスペランサの骨張った右手にがっしりと掴まれてくしゃくしゃになっている。 


「グラヴェール艦長! おお……無事だったか!」


 エスペランサの喜色に満ちた叫び声が甲板に響く。仕方ない、といった表情でシルフィードがエスペランサの体から腕を離すと、のっぽの後方司令官はその体を邪魔な荷物でも扱うようにして押し退けた。


「うわ! 何しやがるんですかい!」


 シルフィードが抗議の声を上げたが、エスペランサはそんなもの聞きはしない。シャインに駆け寄るとその細肩を叩き、顔を覗き込み、頭の上から足の先まで眺めて、ようやく納得したように溜息をついた。


「ああ……死ぬ程心配したぞ! 君の身にまた何かあったら、私の首が体から離れてしまう! あ、いっておくが免職になるという意味ではないぞ。本当にグラヴェール参謀司令に軍刀で一刀両断にされるということだぞ!」

「申し訳ありません。エスペランサ後方司令」


 脂汗をだらだら流しているエスペランサとは対照的に、シャインは冷や汗一つかいていない。凪いだ海面を思わせる青緑の瞳をそっと伏せ、彼は肩をすくめながら、感情を抑えた口調でつぶやいた。


「銃声に驚いて後ろにのけぞったら、祭壇にぶつかって倒れてしまっただけなのです。そのとき後頭部を強打したみたいで……本当にお騒がせいたしました」

「……なに?」


 エスペランサはあんぐりと口を開けて絶句している。


「マジかよ」


 すっかり脱力したシルフィードが甲板に座り込んだ。

 ジャーヴィスはその様子を見ながら、再び大声で笑いたくなった。


 シャインはただ瞳を伏せ、申し訳なさそうに深々と頭を下げると、甲板にいる乗組員と来賓へ丁寧な詫びを口にした。

 その時だった。


「あのー。すみませんが……」


 間延びした声が背後から聞こえた。

 振り返るとそこには、先程まで腰を抜かしていた老神官が、神妙な面持ちで立っている。


「これはどうすればいいですかね。まだから、もう一度やりますかな?」


 老神官の枯れ木のような指は、祝酒の黒いビンを握りしめていた。


「なっ……!」


 それを目にした途端、ジャーヴィスは引きつった動揺の声を上げた。


「げっ!」

「何だよ、ありゃ!」

「信じられねぇーーっ!」


 シルフィードもエスペランサも、そして新造船の甲板に乗っていた全員が、老神官が重そうに抱える黒いビンに恐怖の眼差しを向けていた。


「どどど、どういうことだ……!」

「み、皆さん。どうかなされましたかな? まるで恐ろしいものでも見たように、顔を引きつらせて? ねえ、グラヴェール艦長?」


 これが驚かずにいられるだろうか。

 ジャーヴィスはぐっと両拳をにぎりしめ、震えそうになる体を意思の力で押さえ付けようとした。けれどその努力は虚しく、震えは一向に治まろうとしない。


『ああ、なんてことをしてくれたんです! 事と次第によれば、今後暴動が起きるかもしれないぞ!』


 ジャーヴィスはずっと目を伏せているシャインを睨み付けた。それは今やジャーヴィスだけでなく、この甲板上の乗組員全員が、シャインを敵意ある眼差しで凝視している。



 突風が沈黙を守るシャインの濃紺のマントをぱたぱたとはためかせた。晴れ渡っていた空を分厚い雲が覆い始める。甲板をじっとりとした重苦しい空気が支配した。

 けれどそれをついに破り、渋々口を開いたのはジャーヴィスだった。


「私は確かにあなたがビンを舳先に振り下ろすのを見ました。けれどあなたは、ということですね? グラヴェール艦長」


 ジャーヴィスの言葉に、シャインの薄い唇が僅かに震えた。


「……そうだ」


 シャインは喉の奥から絞るように返事をすると、傍らに立っていた老神官の方へ向き、袂を押さえながら白い手袋をはめた右手を伸ばした。


「神官様。それをお返し下さい。しきたりにより、再度ビンを割る行為は禁じられています」

「あ、はい。どうぞ……」


 雲間から僅かに太陽光が射してビンがきらりと光った。

 それは傷一つなく完全な形でシャインの手に戻る。

 シャインは黙ったまま祝酒のビンを見つめていた。乗組員も呆然と眺めていた。


 ジャーヴィスには彼が何を思っているのか容易に想像がついた。いや、船に乗るものなら命名式にまつわるあの有名な迷信を嫌でも思い出しているはずだ。



『命名式で、祝酒のビンを一度で割ることができなければ、その船は処女航海で必ず沈む』と――。

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