1-8 決意
「いい副長じゃないか。えっ?」
「真面目な人だとは思いますが」
シャインはジャーヴィスのその気になれば人を睨み殺せるような、険悪な視線を思い出しながら呟いた。
シャインが名乗った時の彼の驚きようは凄まじかった。まるで魂が抜けたように表情が虚ろになり、声を上げることすらできず、ただただシャインの顔を凝視するばかりだった。
握手のつもりで差し出した右手も握ってはもらえなかった。無理もない。彼はシャインのことをホープの助手だと思っていたみたいだから、目の前の薄汚れた作業着姿が「お前の上官だ」なんて突然言いだしたので、頭の中が混乱してしまったに違いない。
シャインは自分の素性を隠していたわけではないが、すぐに明かさなかったことを彼に詫びた。そして明日の命名式のために、下見がしたいのなら自由に船内を見ればいいと言ったのだが、ジャーヴィスは青ざめた唇を固く結び、眉間に深い溝を作って首を振った。
そして一言「お邪魔しました」と礼儀正しく呟いて、船から下りて行ってしまったのである。
日は完全に沈んだ。河岸にはぽつぽつと街の白い灯りが星のように瞬いている。
シャインとホープは新造船の後部甲板で、船縁に両腕を乗せてそれを眺めていた。甲板には新造船特有の真新しい木材から立ち上る、甘いつや出し油の匂いが香っていた。
「艦長だなんて――俺だって本当は驚いているんですよ、ホープさん」
シャインはまさか自分がこの新造船の、よりにもよって艦長に任じられるとはこれっぽっちも思っていなかったのである。しかも海軍本部の人事審査会から、艦長に任ずると知らせを受け取ったのは一週間前と最近の事だ。
シャインはこの船に乗れることを喜びはしたが、船内全てに責任を持たねばならないその身分に就くことを、未だ実感が持てずにいた。
「別にワシは驚かんがな。お前は……ええといくつだったか?」
「二十才です」
ホープは
「グラヴェール家は古くから多くの海軍将校を輩出して、アスラトルの街を守ってきた一族だ。お前さんの父上だって、それぐらいでアスラトルの警備艦を任されていた。今はアリスティド統括将を影で支える参謀部の長。その息子であるお前が艦長になったって、別に不思議なことじゃなかろう」
「しかし」
シャインは顔をしかめた。ジャーヴィスがいそいそと自分の前から立ち去ったのは、まさにそれが原因なのではないかと思う。彼はいかにも有能で潔癖そうだった。
現にエルシーア海軍では、戦時ではないため、有力者の縁故がないと出世は永遠に不可能なのである。
貴族や裕福な商人が自分の息子のために少佐あたりの官職を買うことも、実は暗黙の了解で行われている。将官達は海軍内で己の力を強めるため、能力は二の次で要職へせっせと身内ばかり昇進させている。
ジャーヴィスと同じ中尉だったシャインが、いくら小さな等級外の船とはいえ、いきなり艦長に任じられるのは通常ありえないのだ。
あの人が人事審査会に圧力をかけて、そうさせたのだろうか。
シャインの顔は夜の闇と同じように暗さを帯びた。
裏で実質エルシーア海軍を牛耳っていると噂されている男。
参謀司令官として海軍省に詰める父親アドビス・グラヴェールとは、士官学校に入学して以来、六年会っていない。
便りを出すことも受け取ることもない。何も連絡がないから、先方は愛する海軍のために、その身も心も捧げて元気に日々を過ごしているのだと思う。
父アドビスは若い頃から軍艦に乗り、エルシーア海を荒らす海賊討伐に明け暮れていた。それは彼の妻――シャインの母親が早世したせいもあるだろう。
アドビスは常に航海へ出ており、アスラトル郊外にあるグラヴェール屋敷へ帰ってくることは滅多になかった。
稀に帰ってきたとしても、アドビスは用事がある時しかシャインに会おうとしなかった。よってシャインはあの男と親子らしい会話など、生まれてから今までまともにした記憶がない。あの男が自分のことを息子だと思っているのか、口には出さないがいつも疑問に感じていた。
だからこそ歯がゆく思う。
あの男は父親らしく振る舞ってくれないが、決してシャインの存在を忘れているわけではないのだ。
グラヴェール家の家風かどうかはわからないが、十四才になったとき、アドビスは有無を言わさずシャインを海軍士官学校へ入学させた。幸いシャインは船に乗ることが好きだったのでアドビスの決定に従ったが、本音を言えば軍艦よりもっと気楽な商船に乗りたかった。
「どうしてこんなことになったんだろう。ホープさん。俺だって、自分の技量がどれほどのものかわきまえているつもりです」
シャインは船縁に置いた両腕にほっそりとした顎をのせた。
自分はただこの「使い走り」に乗りたかっただけなのだ。彼女と共に海を駆けたいと思っただけなのだ。決して参謀司令官の息子という立場で、艦長職を欲しがったのではない。
「シャイン。ワシはお前のそういう謙虚な態度が好ましいと思っておる。だが人事審査会がそれを決め、お前もその決定に従ったのだ。いい加減腹をくくれ」
シャインはホープの力強いその言葉に顔を上げた。この老船匠は彼こそが父親のようにシャインのことを見守ってくれていた。嬉しい時も、苦しかった時も。
「すみません。つい責任の重さに、気が弱くなってしまいました」
「それだけではあるまい?」
シャインはホープに向かって微笑んでいたが、思わずその表情を凍り付かせた。
ちかちかとパイプの火を光らせながら、隣に立つホープが限りなく優しい目でシャインの顔を覗き込んでいる。
「正直言うとな。お前がもう一度船に乗れるのか心配じゃった。あんな目にあった後じゃったから」
「ホープさん」
シャインは無意識の内に右手で左肩を押さえていた。忌わしい出来事を思い出させるそれは、半年が過ぎた現在もまだ完全に癒えようとしない。
脳裏にその時の記憶が蘇りそうな気配を感じる。だがシャインはそれを無理矢理閉め出した。もう、終わったことだ。だからホープにもそのことで気を遣って欲しくない。気を遣って欲しくはないが、不安感がないわけでもない。
「だからな、お前に見せたいものがある」
「えっ」
ホープが手招きした。
シャインはその背を追って船尾へと向かった。
舵輪がある後部甲板には下の船室へ降りるための扉がついている。
その扉の前には、真鍮で造られた小さな鐘楼が置かれていた。
船内で時を告げるために鳴らされる『
シャインはそこに吊り下げられている銀色の『
大きさは子供の頭ぐらい。音を鳴らすために新品の真っ白なロープがぶら下がっている。だがこの『
大抵の船鐘は真鍮製なので鈍い金色をしているが、この鐘は銀で表面を覆っているので特注品ではないだろうか。だからこそ見覚えがあった。
「どうしてこれがここに……」
シャインが鐘楼に近寄ると、ホープが手にした角灯を『
「これは……アイル号にあった『
動揺と驚きのせいで声が震える。
シャインは恐る恐る両手を伸ばし『
一気に謎が解けた気がした。
黄昏時に舳先で見た『彼女』――船の
「確かにこれはお前がアイル号から持ち帰った『
ホープがパイプをくゆらせながら肩をすくめた。
「俺が、ですか?」
シャインは
「覚えておらんのか? 聞いた話じゃずっと『
シャインは唇を噛みしめた。
「大切なものというか、その時、俺は『
シャインは身震いしてそっと両手で肩を抱いた。
「シャイン」
シャインは我に返った。
ホープがシャインの右肩に手を置いて顔を覗き込んでいる。
「すまん。あの時の事を思い出してしまったか」
「いえ、大丈夫です。でもホープさん。何故、この『
ホープは口から紫煙を吐いた。昇っていく白い煙を睨み付けながら苦々しい表情で見上げている。
「良く覚えていたな。確かに、その通りじゃよ。『
ホープはふうとため息をついた。
「早い話が、海軍本部の命令じゃよ」
「命令?」
「そう。新造船の発注元の命令ならワシも断れん。三日前のことじゃった。海軍本部が本船にはこの『
ホープが渋面を和らげて苦々しく微笑した。
「『船の
「ホープさん」
寒さのせいではない。
シャインは体が震えるのを感じた。
再び両手を『
「俺は『彼女』に命を救われました。この鐘に宿る『船のレイディ』に」
「なんと……?」
ホープが口を開けたままシャインの顔を凝視する。
それを見ながらシャインは瞳を伏せ小さく微笑した。
「死にかけた人間の幻想だったのかもしれませんが、アイル号をアスラトルまで帰港させたのは『彼女』です。今でもこの手に『彼女』に包まれた優しい『想い』を覚えています……」
「それなら、大丈夫じゃな!」
ホープが急にシャインの背中を叩いた。
「ホープさん!?」
老
「船の
「えっ。アイル号は沈んだのですか?」
「ああ。お前たち生存者を警備艦に乗り込ませた所で一気に浸水が早まり、ものの三十分程で沈んだそうじゃよ。ワシも三十年船を造ってきていろんな話を知っておるが、まさに『船の
「ホープさん」
「ということなら、後はお前の心がけ次第じゃ。この船を生かすも殺すのもな」
「そうですね」
シャインはホープの手を肩から優しく下ろした。
川風に靡く前髪を手で払いのけ、決意に満ちた青緑色の瞳を『
「今度は俺が『彼女』を守ります。いえ、何があっても守ってみせます」
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