1-9 命名式(1)

 一夜明けた翌日。

 この日は新造船の門出に相応しい、澄みきった青空が広がっていた。本日の午後一時より、彼女に名を与える命名式と、海軍への引渡式が執り行われる。


 普段は船大工や職人しか闊歩しない造船所だが、新造船の船台がある『帆柱マスト畑』周辺には、一年ぶりに新造された船の命名式を見ようと多くの観客がうろついていた。


 もっとも彼等の大半はエルシーア海軍の士官や水兵たちだが、心なしかドレスを纏い着飾った若い婦人の姿もちらほら混じっている。



「等級外の「使い走り」の命名式に、これほどの人が来るとはな」


 この船の副長に任じられたヴィラード・ジャーヴィスは、新造船の船尾楼で手すりにもたれながら、切れ長の蒼眼を細め半ば呆れつつ野次馬を見下ろしていた。


 野次馬が集まる理由はわからなくもない。なんせこの船の艦長は、エルシーア海軍の最高位『海軍統括将』の次に偉い、グラヴェール参謀司令官の息子なのだ。


『随分若いとは聞いていたが――まさか、あれがそうだったとはな』

 ジャーヴィスはぐっと眉間を寄せて、驚愕すべき彼との邂逅を思い出した。 




 そもそもジャーヴィスが新造船を訪れたのは、勿論命名式のための下見もあったが、もっと肝心なこと――この船を隅から隅まで検分し、建造指揮をとったホープ船匠頭に直接会って、船の能力や特色を事細かく聞き出そうと思ったのである。


 なにしろこの新造船へ副長として乗ることを打診されたのは、一週間前という急なものであった。もっとも、海軍の命令は機密保持のために、何時も直前になって伝えられるので仕方ない。副長となったジャーヴィスは、誰よりも船の事を知り、把握する必要があった。


 艦長は船の中で起こることすべてにおいて責任をもたねばならないが、様々な実務をこなすのは副長なのである。


 恐らく自分と同じように、急に艦長となったグラヴェール参謀司令官の息子は、いろいろ曰くありげな噂で有名な人物だ。


 年も若い上に艦長という肩書きを背負えるのか、その実力は未知数のため、いざという時、頼りになるのは己の得た知識しかない。よってジャーヴィスは新造船を訪ねた。

 それなのに。なんということだろう。


 まさか新造船の甲板で、彼が船大工の真似事をしているとは思わなかった。そもそも自分の船の建造に参加する艦長なんてきいたことがない。


 けれどそれは本来称えるべき行為だろう。彼はその若さで、真に船の事を理解する方法を知っていたのだから。


 ジャーヴィスはその事実に気付いて愕然となった。完成した船の表面を眺めた所で何がわかるというのだ? 船体を組み立てる工程を、一から見てきた彼と自分の間には決定的な差がすでに生まれている。


 いざとなったらこの船は自分がなんとかするしかない。そこまで考えていたジャーヴィスは、急に恥ずかしくなって逃げるように彼の前から立ち去ったのだった。





 ジャーヴィスは右手をこめかみに当てて、深く深く溜息をついた。


 逃げることはなかった。落ち着いて、あの人と握手を交わして、そして船内を案内してもらえばよかったんだ。

 それができなかったのはひとえにさもしい己の自尊心のせいだ。


 あの船大工の青年――いやその言い方はまずい。普段から渾名あだなをつけて呼んでいたら、肝心な時にぽろっと漏らしてしまう。ジャーヴィスは最低一度は言わねばならない、けれどまだ言い慣れぬその名前を口に出した。


「グラヴェール艦長……」

「艦長はまだここへ来てませんよ。ジャーヴィス副長」


 ジャーヴィスは突如明るく響き渡った声に身をすくませた。慌てて後ろを振り返ると、そこにはほっそりとした体躯の少年が立っている。


 後ろの裾が膝まで垂れた水色の上着に、薄いクリーム色のズボン、磨き込まれた黒革のブーツをはいている。くるりと渦を巻いた金髪を揺らし、まだ海上の強い陽の洗礼を受けていないのだろう――磁器のような白い肌が眩しい。


 少年士官は長い睫毛をしばたきながら、小首を傾げてジャーヴィスを見上げた。


「どうしたんですか? お化けでも見たような顔をしていらっしゃいますけど」

「あっ……ああ、お前か。クラウス士官候補生」


 ジャーヴィスはほっと息をついた。クラウスはジャーヴィスの前まで歩いてくると、白い手袋をはめた右手を額に軽く当てて敬礼した。士官学校の教官が褒め讃えるくらい見事なお手本通りの敬礼だ。


「祭壇の支度が整いました。それを報告しに来ました」


 ジャーヴィスはちらと船首甲板を見た。舳先の手前に青と金の布で覆われた四角い祭壇が見える。上げ綱や静索にも色とりどりの小旗がはためいて、飾り付けも一通り完了したようだ。


「ああ。ご苦労だった。そうだついでにもう一つ頼みがある。お前は下甲板に下りてシルフィード航海長に、水兵達の支度がちゃんとできているか確認しに行ってくれ」

「わかりました。それでは失礼いたします」

「ああ」


 ジャーヴィスはクラウスの小柄な後ろ姿が、メインマスト中央部の後方にある昇降口ハッチへ消えて行くのをいつまでも見てはいなかった。


 海軍省からやってきた白い正装姿の士官が、来賓を先導して新造船の中央に設置された渡り板の前まで歩いてくるのに気付いたからである。


 この船は商船と変わらないほど小さな船であるが、艦長が参謀司令官の息子であるが故に、二十名を超す客が招かれていた。ひょっとしたらあのグラヴェール参謀司令が来るのでは、とも噂されている。


 もっとも、来賓は命名式が終了するまで乗船が許されない。

 海軍関係者――新造船は後方支援艦隊に属することになる――それを統括する頭髪が少し寂しくなったのっぽのエスペランサ後方司令官や、人事審査会の委員長トリニティ。そして建造を手掛けた船匠頭ホープや部下の船大工など、命名式のしきたりを知っているものたちは静かに決められた場所で用意された椅子に座り待機していた。


 だがグラヴェール家と大なり小なり縁のある(そう思い込んでいる)貴族や、商船を何隻も抱える船主や武器商人たちは、何故船に乗れないのか口々に文句を言い合っている。


 ジャーヴィスはその光景を見つめ、苦いものを噛み潰したように顔を歪めた。

 ここには権力に集る蛆虫ばかりがやってくる。


 彼等の狙いは命名式と艦長就任の祝いにかこつけて、少しでもあの参謀司令官の息子と仲良くなることだ。彼と懇意になれたら次は父親の番だ。


 特に武器商人たちは、グラヴェール参謀司令官の機嫌を損ねないよう必死だ。彼の意にそぐわないことをすれば、即座に海軍で使用する銃や大砲等の武器を 発注してもらえなくなる。


 あんな連中を船に乗せたら、それこそ船の魂である『船の精霊レイディ』の怒りに触れそうだ。早く式を終わらせて、静かな軍港へと移動したい。


 心からジャーヴィスがそう思った時、下でたむろしている野次馬達がざわめき出した。めいめい造船所の通用門がある『帆柱マスト畑』の北側を向いて、そこからやってくる一台の黒塗りの馬車を指差している。

 新造船の前に並ぶ来賓たちも、それに気付いて後ろを振り返った。


 ジャーヴィスは軍服のポケットから金鎖のついた懐中時計を取り出した。十分あまりで午後一時になるから、予定通りの御到着ということか。


 結構。遅刻はするのもされるのも大嫌いだ。

 ジャーヴィスは一つの懸念が解決されて、少しだけ心に余裕が出来たことに安堵した。


 時計から顔を上げると、クラウス士官候補生が、下甲板で待機させていた十五名の水兵達を従えて左舷舷側に整列させていた。彼の隣には、その二倍の身長がある大柄な男が立っていて、まだ自分の立ち位置がわからない水兵に向かって怒鳴り声を上げている。


「シルフィード航海長、ここですかい?」

「違う! お前はエリックの隣だ。ほらエリック、ムストンを入れてやれ。さっさと並んだ並んだ!」


「シルフィードのやつ。やる気満々だな」


 ジャーヴィスは口元に小さく笑みを浮かべ、自分も出迎えのためにそちらへ向かって歩き始めた。新造船の甲板はマストや巻上げ機、下甲板への昇降口などがあるので、お世辞にも広いとはいい難い。


 左舷の舷側を歩きながら到着した馬車の方へ視線を向けると、黒い礼服を纏った御者が頭を垂れて、恭しく扉を開く所だった。


『やっぱり彼か?』


 ジャーヴィスは目を細め、馬車から下りるその姿を固唾を飲んで見守った。

 野次馬達が一斉に大仰な歓声を上げた。かん高い口笛を吹く者もいる。


 レースの縁取りをふんだんにあしらった日傘をさした婦人たちが、一目その姿を見ようと馬車の方へ走っていく。水色の軍服をまとった海兵隊の数名が、大きく腕を広げて障壁を作り、彼女達を馬車に不必要に近付かせないように立った。


 そんな騒ぎの中、淡い月影色の金髪を首の後ろで三つ編みに束ねた濃紺の軍服姿の人間が、馬車から静かに降り立った。


『どうか、あの人ではありませんように』


 ジャーヴィスは咄嗟に目を閉じて願った。けれどその願いは虚しく、再び目を開いたジャーヴィスの視線の先には、昨日会った船大工姿の青年が、外洋の青を模したエルシーア海軍の軍服を纏って立っていた。


 風をはらみ後方へなびく紺碧のマントは、肘の所まで隠れる同色の短いケープが上から重ねられており、少佐の階級を示す銀糸の帯が二本縁取られている。


 膝丈まである上着の襟の所にも同じ銀の刺繍が施され、首には薄紫の襟飾りが結ばれている。上着には右肩から左の襟まで装飾用の金鎖が渡され、彼の動きに合わせて上品に揺れている。


 式服や軍服という類いの物は形がきっちりしているため、誰が着てもそれなりの格好がつくが、この華美で重厚な軍服を自然と着こなしている所に、彼の生まれながらに備わった気品の高さを感じずにはいられない。


 グラヴェール艦長とまもなく呼ばれるようになる彼は、何気ない仕種で風をはらむマントを捌くと、続いて馬車から下りる老齢の神官の為に手を貸した。



「おいでになりましたな。我らの素敵な艦長様が」


 渡り板が置いてある船の出入口――舷門げんもんの前にジャーヴィスが来た時、三十代の大柄な筋骨逞しい男がぼそりと茶化した口調でつぶやいた。


 良く陽に焼けた浅黒い肌に、伸ばしっぱなしの黒髪をひとくくりにした航海長のシルフィードだ。


 ジャーヴィスは彼と以前同じ軍艦に乗ったことがある。船から人間関係から全てにおいて新しいこの環境で、見知った顔がいるのは実に心強い。


 ジャーヴィスはちらりと彼の顔を見上げ、相変わらずそこに点々と無精髭が生えているのに気が付いた。


「お前も今日ぐらいヒゲを剃って、航海長マスターになったらどうだ」


 するとシルフィードは人懐っこい緑のタレ目をさり気なくジャーヴィスから逸らした。しれっとした顔で「へへっ。すっかり忘れていましたよ」とうそぶく。


「さて、無駄口を叩くのは止めて出迎えの準備にかかることにするか」


 ジャーヴィスはシルフィードの隣に立ち、緋色の法衣を纏った神官を伴って、船の渡り板へと近付く年下の上官の姿を見つめた。

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