1-7 黄昏の邂逅(2)

「ちょっと、すまないが!」


 下方から呼び掛けられた鋭い声でシャインの注意は少女からそれた。ずっと見開いていた両目をぱちぱち瞬かせる。


「おい。聞こえているんだろう!」


 嵐の中でもよく通るような、いい声質のそれが再度鋭く響く。

 シャインは仕方なくちらりと後ろを振り返った。どこの誰だか知らないが、どうやら客のようだ。

 

 一人の背の高い男が船に近付いてくるのが見える。しかしシャインは大胆にもまだ気付いていない振りをして、再び船首の舳先へ視線を走らせた。


 今のは確かに――。


 けれど願いは虚しくそこには川面に消えゆく滲んだ夕日しか見えない。次第に薄暗くなる夜の気配と共に少女の姿は消えていた。


 そんな。

 だけどあの姿は見間違えようがない。

 シャインは俯き唇をきつく噛みしめた。


「おい! いつまで私を無視するんだ!!」


 少女の幻影を追いかけていたシャインは、また自分に呼び掛ける声で我に返った。

 内心湧き上がる不快感をぐっとこらえながら。


 こんな時間になんだっていうんだ。

 邪魔をした客のことを恨めしく思いつつ、シャインは人の良い笑みをその端正な顔に浮かべた。


「はい、なんでしょうか」


 しれっと返事をしてシャインは渡り板まで近づき、客を見下ろした。

 そこには栗色の髪にエルシーア海軍の青い軍服を着た男が立っている。ダブル襟の上着に腰の所でバックル付きのベルトを締め、糊のきいた白いズボンをはいている。


 年は二十七、八ぐらい。シャインより、七才ほど年上の若い男だ。きりっとした眉の下で、冷え冷えとした光を放つ切れ長の空色の瞳が威圧的でとても印象強い。


「私はエルシーア海軍のジャーヴィスという。この船が明日海軍に引き渡される後方の新造船か」

「ええそうですよ。ジャーヴィス


シャインは素っ気無く返事をした。ジャーヴィスと名乗った海軍士官は階級を明かさなかったが、夕日に鈍く光る肩章には、錨綱を模した白色の二本の筋が刺繍されているのが見えた。


 つい習慣で肩章をみただけなのだが、ジャーヴィスの顔には一瞬戸惑った表情が浮かんでいた。


「あ、ああ……よくわかったな。それで作業中すまないが、ホープ船匠せんしょう頭がここにいると事務所できいたのだ。彼に会いたいのだが、呼んできてはもらえないだろうか」


 シャインは川風のせいで額にまとわりつく前髪を右手で払いながらうなずいた。

 ジャーヴィスが自分をホープの助手と間違えるのは仕方ないかもしれない。


 彼とは面識がないし、第一今のシャインは軍服ではなく船大工たちと同じ服装をしている。防水油の染みが黒く点々とついた白い綿のシャツに深緑のズボンをはき、腰には使い込んだ革の工具入れを下げている。


「ホープ船匠頭は船尾で操舵索の調整をしています。呼んできますので、どうぞ船にお乗り下さい」

「いいのか?」

「ええ。ただ索具に手を触れないで下さい。防水用の油を塗ったばかりなので汚れますよ」

「わかった。では、乗船させてもらうことにする」


 ジャーヴィスは礼儀正しくシャインに向かって軽く会釈をすると、手すりがついた渡り板を歩き、新造船の中央部へと歩いていった。


「ジャーヴィス……ジャーヴィス中尉、か」


 彼の後姿を見つめながら、シャインは口の中で名前をつぶやいた。どこかできいたことがあるのだが、すぐに思い出すことができない。ひょっとしたらこの新造船に乗ることになる士官のひとりだろうか。


 乗船してきたジャーヴィスは、物珍しそうにきょろきょろと甲板をながめている。シャインはその後ろを通り過ぎて、船尾にある舵輪の前まで歩いて行った。


 そこではしゃがみこんだホープが、舵輪の軸に巻き付けられたロープの張り具合を確認している。


「ホープさん。あなたに客が来てますよ」

「客?」

メインマスト中央部を見上げているあの人です。知っていますか?」


 ホープはよっこいしょと立ち上がった。両手を添えて腰を伸ばしながら振り返り、ジャーヴィスの方を見た。


「知らんな」


 ホープは油まみれで黒ずんだ手を、腰にはさんでいた布で拭い、歩き始めた。


「シャイン。取りあえず操舵用ロープの張りはぎりぎり調整しておいた。でも航海の度に擦り切れたり伸びたりしていないか、ちゃんと確認しなければいかんぞ」

「はい」


 ホープが甲板中ほどにあるメインマスト前まで歩いてくると、ジャーヴィスは彼を知っているのか、踵をそろえ直立不動の姿勢をとった。その後ろにいるシャインには目もくれずに。


「お忙しい所お邪魔して申し訳ありません。ホープ船匠頭でいらっしゃいますね」


 ホープは太い両腕を組んで重々しくうなずいた。


「ワシは堅苦しいのは好かん。普通に話してくれれば結構じゃ」

「ありがとうございます」


 ジャーヴィスは直立不動の姿勢を解き、軽く頭を下げてこほんと一つ咳払いをした。礼儀正しい人物なのだろう。


「私はこの新造船の副長に任じられたヴィラード・ジャーヴィス中尉と申します。もしよろしければ、明日の命名式の準備の為に、ちょっと下見をしたいと思ってこちらに参りました」

「ほう……そうか。それはご苦労なことじゃな」


 するとジャーヴィスは誇らし気に胸を張り、晴れ渡った青空のような微笑を浮かべた。


「命名式は大切な儀式です。それが滞りなく催されるよう、準備を整えるのが副長としての役目であり責務であります」


 ホープはジャーヴィスの頭のてっぺんから足の先まで視線を泳がせ、そしてくるりと後ろを振り返った。がしがしと肘でシャインの脇腹を突っつく。


「シャイン。お前も随分人が悪いな。お前のならそうだと紹介してくれればいいのに」

「えっ?」

「――はぁ?」


 素頓狂な声を漏らしたのはジャーヴィスの方だった。あの冴え冴えとした切れ長の瞳が、どういう意味だといわんばかりにぐいとシャインを睨み付ける。


 シャインはその睨みを柔和な笑顔で(但し、見方によってはひきつった笑顔)で受け止めながら、人が悪いのはどちらだろうと口の中でつぶやいた。


隠すつもりではなかった。

けれどホープが口を滑らせたからには名乗らないわけにもいくまい。シャインは自分より頭半分背の高いジャーヴィスを見上げ、そっと右手を伸ばした。


「初めまして、ジャーヴィス副長。自己紹介は明日の命名式が終わった時にするつもりだが、俺がこの船のに任じられたシャイン・グラヴェール少佐だ。どうぞよろしく」


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