4. ふたりの海

 ぼくは、毎日のように須磨海岸をおとずれた。


 沖まで泳ぎ出て、人魚の子が来るのを待った。

 長く待つことはなかった。彼女はすぐにやってきて、不思議ふしぎな歌声をあげ、ぼくに微笑ほほえみかける。

 ぼくが彼女の肩につかまると、彼女は力強く泳ぎ出し、素晴すばらしい速さで沖へ、さらに沖へと出る。ウィンドサーファーもいない、誰にも見られない場所へ。

 そこでは、海水の色もんだ青を取り戻している。ぼくがひとりで泳ぎ始めると、彼女はぼくの周りをぐるぐる回る。やがてぼくののろまさにきたのか、しがみついてきて不思議な歌声で不平をとなえる。


 時に、彼女はぼくの足を引っ張り、海中に引きずり込む。

 少しも怖くなかった。それが遊びなのはよく分かっていた。ぼくが水面に飛び出すと、彼女は少しはなれたところに浮かび上がり、ぼくの顔色をちらちらとうかがう。

 ぼくは怒ったふりをして彼女を追いかける。彼女ははしゃぎ声をあげて逃げ出すが、すぐにい戻ってくる。ぼくの泳ぎがのろまで、彼女に追いつかないからだ。


 ぼくたちは、須磨浦すまうらの青い海の真ん中で、き合った。

 そこで、ぼくたちは、喜びにあふれた微笑ほほえみをかわし合った。

 彼女のふたつの乳房ちぶさが、ぼくの胸にれ、彼女の心臓しんぞう鼓動こどうを伝えてきた。

 ここには、ぼくたちふたりしかいない。ぼくたちを見ているのは、なみと、空と、雲と、太陽だけだ。

 ぼくは、波にられながら、彼女に問いかけた。


 「きみは、どこから来たの?」


 彼女は答えない。ただ、のどの奥から、オカリナのようにやわらかな歌声を発していた。

 彼女は、しゃべれないのだろうか。もしかしたら、人魚の国から追放ついほうされ、舌を取られたのだろうか?

 ぼくは、問いかけることをやめた。何も知る必要がなかったから。


 彼女はぼくをかたにつかまらせて、海の底へとぼくを案内あんないした。

 そこには、巨大な白い骨が沈んでいた。くじらの骨だろうか、それとも、かつて瀬戸内せとうち陸上りくじょうだったころに、のし歩いていた古代象こだいぞうの化石だったのだろうか?

 海の底の、しずかなお墓だった。


 明石海峡大橋あかしかいきょうおおはしの下には、小型飛行機こがたひこうき残骸ざんがいが沈んでいた。

 曲芸飛行きょくげいひこうで、欄干らんかんの下をくぐろうとして失敗し、墜落ついらくしたのだ。

 珊瑚さんごと海草におおわれた残骸を、彼女は不思議そうに見つめていた。なぜ、空を飛ぶ物が、海の底に沈まなければならなかったのだろう?


 須磨浦の海上には、多くの船がき交っていた。でも、海の底は、ぼくたちふたりだけのものだった。


 楽しい時間はぎるのが早い。

 日が暮れると、彼女は岸近くまでぼくを送り届けてくれる。そこでふたりは手を取り合い、抱き合い、また手をにぎり合って、また会おう、明日もまた会おう、と言葉によらない約束を交わしてから別れるのだった。

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