右の目の海

三谷銀屋

右の目の海

「この川は海に繋がっているんかねぇ?」

 ずっと黙りこくって、左之吉に手を引かれるままに歩いていた老女がぽつりと呟く声が聞こえた。

 左之吉は振り向いた。おえんという名の老女は、何か真剣そうな眼差しで三途の川の水面を見ていた。

「さあなぁ……」

 左之吉は曖昧に首を傾げる。

「三途の川の渡し場より先には俺は行った事がねぇから」

 そういえば、この川がどこに繋がっているかなんて一度も考えた事なかったな、と左之吉は改めて思った。もっとも、死人の魂をこの川の対岸……冥府へ運ぶだけの役割の下っ端死神には、知る必要もない事なのかもしれないが。

 山間の寒村で、子供達や孫、ひ孫に見守られてひっそり息を引き取ったおえんを、左之吉は、今、あの世へ連れて行くところであった。

「長い事、生きたから」

 おえんは、生き終えた人生を思い起こすように目を細め、静かな声で続けた。

「もう何も思い残す事はないんだけども、たったひとつ……生きている間に一目だけでも海が見てみたかったねぇ。私は生まれてから死ぬまで、山から一歩も出ずに過ごしたから海を見た事がないんだよ」

 寂しげな声だった。思い残す事はない、という言葉とは裏腹に、おえんは何かを深く悔いているように見えた。

「海、か……」

 左之吉はふと立ち止まった。この道をずっと進めば、やがて三途の川の渡し場に出る。そこで、おえんを渡し船に乗せてやれば、死神である左之吉の仕事は終わりだ。しかし、急ぐ事もあるまい。

「ちっと寄り道をしよう。その願い叶えてくれる男を知ってるぜ」

 左之吉は何か思いついたように、おえんを見てニヤリと笑った。


 おえんは死出の旅の道すがら、ある男の事を思い出していた。その男の事は少女の頃の淡く苦い初恋の思い出として、年老いてからも時折ふっと胸の内を掠める事があった。

 その男は、旅の薬売りだった。薬売りは、山の奥にあるおえんの村に年に二度か三度、姿を現した。村の家を一軒一軒回って薬を置いていくのだ。

 少女だったおえんは、浅黒く日に焼けてハキハキとしたその薬売りの青年に密かに心惹かれていた。そして、薬売りが商いついでに家の者に語って聞かせる旅の話に傍らで耳を傾けながら、見たこともない土地の風景を思い描いては胸をときめかせた。

 中でも取り分けおえんの気持ちを引くのが、海の話だった。薬売りは山を下った後、海沿いの街道を旅して五、六ヶ所の漁村を廻っているのだという。海というのは、おえんの住む村の近くにある湖よりもよっぽど大きいものらしい。どこまでも水が広がり、珍しくて美しい魚も沢山穫れるのだそうだ。

「岬のなぁ、難所を越えるのが大変でなぁ」と、薬売りは語る。一歩踏み外せば、たちまち海に転がり落ちて命がないような、切り立った崖の細い道を越えて歩かなければならないのだという。

 おえんは、そんな怖ろしい難所を越えてまで旅をして商いをする薬売りがより一層、頼もしげに思えた。

 おえんが十五になった時、嫁入りが決まった。嫁ぐ先は山をひとつ越えた先にある村だった。知らない村に行き、見ず知らずの男の元に嫁がなければならない……おえんの心は不安に塗りつぶされた。そして、いつも思い出すのはあの薬売りの事だった。

――今度、薬売りさんが来たら私の想いを打ち明けよう。そして、あの人の女房になろう。私もこの村を出て旅に出るのだ。あの人と一緒に。

 おえんは少女らしく、そんな風に思い詰めていた。旅の荷を背負い、青く広々とした海に向かって歩く若者と自分の姿。そんなものを心に思い描きながら、薬売りが来る季節を待ち焦がれていた。

 しかし、なぜかその年から薬売りはふっつり村に姿を見せなくなった。

 やがて時は瞬く間に過ぎ、結局、おえんは、決められていた通り山向こうの村に嫁いだ。

 その後、あの薬売りを見かけた事はただの一度もなかった。岬の難所を通りかかった時に足を滑らせて海に落ちてしまったのだという噂も聞いた。しかし、本当のところは分からないままだった。


「海が見られる目玉ぁ?」

 英太郎は片眉を上げて左之吉を見た。

「あるんだろ? それくらいのモン」

 左之吉は何気ない調子で言う。

「このばーさんがさ、あっち逝く前に海が見たいんだとさ。目玉のひとつくらい貸してくれよ」 

 左之吉の横には、腰の曲がったおえんが立っている。おえんは、二人の会話も気にならない様子で、足下の大きな桶の中を物珍しげに眺めていた。

 土間に置かれた五つの桶には、どれも水が張られている。そして、その中を泳いでいるのは何十個もの「目玉」だった。目玉は一個ずつ、瞳の色も大きさも違う。白い神経の尾をくねらせて水の中を泳ぐ様子は、まるで金魚のようだ。

 左之吉がおえんを連れてきたのは、三途の川のほとりの目玉売り屋だった。店の主人の英太郎は左之吉の友人で、同居人でもある。

 英太郎が売っている目玉はあやかしの目玉だ。しばしば不思議な力が宿っていたりする。海を見る事が出来る、千里眼のような目玉もあるのではないかと左之吉は思ったのだ。

「人間には目玉はやらねぇよ。おろくの件で懲りたからな」

 左之吉の期待に反して英太郎はにべもなく言った。

「何だよ、ケチ臭ぇなぁ」

 左之吉は不満げに口を尖らせた。

「なぁ、お婆さん、あんた海が見たいのかい?」

 英太郎はそんな左之吉を無視して、傍らのおえんに問いかけた。

「えぇ、最期に一目だけでもって思いましてね」

「うちの店の目玉を貸してやる事は出来ないが、海を見る方法はある」

 英太郎は立ち上がって、店の棚からびいどろで出来た水盤を持ってきた。そして、水盤の中に水差しで静かに水を注ぐ。

「さぁ、この中を覗いてみな。あんたの見たい海を心に思い浮かべながら」

 差し出された水盤を、おえんは言われた通りに覗き込む。透き通った水盤の中で、水がきらきらと輝きながら微かに揺れている。

 不意におえんは右の目にむずがゆさを覚えた。ぱちぱちと瞬きをする。その拍子に右の目玉が眼窩から外れ、ぼとん、と水盤の中に落ちた。おえんは左の目で、水の中に沈む己の右の目玉を見た。

 おえんの意識が次第に朦朧としてくる。気がつくと、おえんは自分の意識が右の目玉そのものになって水の中にあるのを感じた。

 水はどこまでも広がっている。ここはもう小さな水盤の中ではない。海だ、とおえんは思った。

 青く揺らめく水の向こうを、銀色の鱗を光らせた魚達の群が飛ぶように泳いでいる。おえんの意識に同化した目玉も泳ぎ出す。魚達と一緒に。泳ぐうちに、いつの間にかおえんの目玉は一匹の小さな魚に姿を変えた。

 水はひんやりとして気持ちが良かった。魚になったおえんは、夢中になり、水を切ってあちこちを泳ぎ回った。

 無限の彼方に広がる水の世界。前や後ろだけではなく、海はどこまでも深く、下の方にも続いているようだった。泳ぎ回る内におえんは海の底の方へも行ってみたくなった。おえんは、胸びれをぱたぱたと動かして海底へ向かって潜っていく。

 沈むにつれて、辺りを暗い闇が覆い始めた。地上の光が届かないのだろう。しかし、濃い闇の中に、微かに光る雪の粒のようなものがチラチラと舞い降りているのが見える。おえんは光の粒に導かれるように、さらに深く深く、泳いでいく。

 どれ程潜っただろう。闇の中にぼんやりと光るものが見える。光の粒達はゆらゆらと舞い落ちながら「それ」に吸い寄せられていくようだ。

「それ」は、あの薬売りの亡骸だった。

 骨だけになった薬売りの若者は海の底に静かに横たわり、傍らには薬を詰めていた行李がぼろぼろになって転がっている。

 男が難所で足を滑らせて海に落ちてしまったという話は本当だったのだろう。おえんは、薬売りの頭の骨の眼窩や肋骨の内側に入りこんだりしながら、彼の周りをしばらく泳ぎ回っていたが、ふと思いついて、魚の小さな口で尖った頬骨に軽く口づけをしてみた。

 すると、不思議な事に、薬売りの亡骸を光の粒がたちまち覆い尽くした。光の粒の塊は、ほっそりした骨の上に逞しい肉体の形を作り出す。

 薬売りは七十余年ぶりに元の姿を取り戻したのだ。

 そして、おえんも今、小魚ではなく、十五の頃の若い娘の姿になって薬売りの前に佇んでいた。暗い海の底、仄かな光に包まれながら二人は見つめ合う。かつて薬売りに恋をしたおえんの気持ちは、今思えば全く一方的なものだった。彼はおえんの事を覚えてもいないだろうと思っていたが、目の前で蘇った薬売りはおえんに対して親しげな微笑みを浮かべている。おえんはそれが嬉しかった。

 そのうちに、薬売りもおえんも、気がつけばまた姿を変えていた。二人とも小さな魚だった。薬売りは銀の鱗に覆われた体をくねらせて泳ぎ出す。おえんも薬売りの後を追ってひれを動かす。二匹の魚は、光の粒が舞う海の底で、いつまでも戯れ合うように泡を散らしながら泳ぎ回っていた。


「左之吉さん、あんたと目玉売り屋さんのおかげで最期に良いものが見られましたよ」

 三途の川の渡し場に左之吉とおえんは並んで立っていた。一度抜け落ちたおえんの右目は綺麗にはめ直されている。

「そりゃあ良かった。あんた、真面目に生きたから冥府での裁きも厳しくはないだろう」

 他の亡者達に混じって渡し舟に乗り込むおえんを左之吉は見送る。

「じゃあねぇ、左之吉さん。本当にありがとうございました」

 舟に乗る前に、おえんは振り返り、左之吉に向かって改まって丁寧に頭を下げた。

 そして、再び頭を上げた時、おえんはもはや老女の姿ではなかった。桜色の頬をした、純朴そうな少女が背筋を真っ直ぐに伸ばしてそこに立っていた。

 死人とは思えぬ程に健康そうな少女は浮き立つような足取りで舟に乗り込む。

 骸骨姿の船頭が櫓を軋ませ、舟はゆっくりと岸から遠ざかっていく。魂達をあの世に送るために。

 舟の上で柔らかな川風に後れ毛を揺らしているおえんはもう振り返らなかった。

 左之吉は遠ざかる舟を見送りながら、彼女がいずれ海の近くに生まれ変われれば良いと思った。

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右の目の海 三谷銀屋 @mitsuyaginnya

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