会――②
――私たちが扱う技を『
「なので、私たちの仲間全体をが作り上げる集合体を【
長机に並ぶパイプ椅子に腰かけている数名の七、八歳頃の子供たちのうち、一人が元気よく手を挙げた。いかにも優等生な雰囲気を放つ、快活そうな子供だ。
「先生! 私たちが乱術を使うには特別な儀式が必要であると聞きました。けれどその儀式をしなくても私たちが乱術を使えるのは……えっと、もう一度教えてください!」
「うむ、大切なことだ。しっかり覚えるように」
教員の男性はホワイトボードに図を描きながら、子供たちに説明を進めていく。
「君たち子供のほとんどが儀式をしていないのに乱術を使えるのは、君たちの親が儀式をしていることと関係している。本人が儀式を通して
ホワイトボードに人型を二つ描き、その二つを矢印で結び、片方に『主制契約』と書いた。
「そしてその子供たち、いわゆる一等親内にある子供のみ、儀式を受けていなくても親が生きている限りは乱術を使えるようになる。それを『
「はいっ、ありがとうございます!」
質問をしていた生徒が返事を返すと、また一人が手を挙げて質問をした。
「乱術のもとになる乱脈でできることを、もう一度詳しく教えてください」
教員はうなずくと、人型の絵の上に『因魔』という文字を書いて丸で囲い、さらにその上に『
「そもそも乱脈とは、因魔との契約により無象界から私たちの体に送られてくるエネルギーのことだ。乱脈は主に、様々な物を動かすエネルギーに変えることができる。これは目に見えていなくても、それがわかってさえいれば、電気や温度すらも移動させることができるようになる。もちろん誰でも簡単にというわけではなく、大変な訓練が必要なことは前にも言ったな」
男性教員はホワイトボードに鍋の絵を描き、沸騰していることを表すように湯気と泡を描き加える。そしてその横に矢印を描き、氷山のような氷の塊の図も描き足した。
「さらに乱脈は熱エネルギーに変換することができる。物や熱を動かす方法と、熱を発生させる方法、この二つを用いることですべての
男性教員は教壇に両手を乗せるとその場にいた子供たちすべてに語り掛けるように視線を少し低くして言葉をつづけた。
「君たちが学ぶ乱術は、ほとんどの人が社会の平和を守るために戦うための戦闘術として使う。けれども君たちの道はそれだけじゃない。戦う人をサポートする仕事、料理をする人、物を運ぶ人、情報を守る人……様々な場所に乱術の活躍の場所はある。今すぐ、どんな仕事をしようと決めつけることはない。第二、第三、もっともっと可能性を広げて将来を考えるこことが大切だと私は思う」
最後のセリフで締めくくり、一同は起立と礼をして授業を終えた。
男性教員は教団の上に乗る教材を手に抱えて教室を出ようとしたが、突然、背後から声をかけられた。
「あのう……先生」
「おっと、誰かな――と、
ねこがね、とは
男性教員はかがんで視線を落とし「どうした?」と優しい顔で話しかけた。御依里は短く切られた前髪を指先で弄りながら、小さな声でボソボソと何かを呟いている。御依里のこういった仕草に慣れている男性教員は、御依里がはっきりとした声で話すまで微笑をうかべたまま静かに待った。
「あの……しゅせ、主制契約は、お父さんかお母さんの、どちらなんですか?」
男性教員はわずかに顔を曇らせ、それでも一呼吸置いて、真剣な面持ちで答えた。
「それは本人に聞いてみないとわからない。両親のどちらかが契約していても、子供は血統依存で脈術を使うことができる。両親がどこにいったかわからない音古鐘の場合、それを知る方法はない」
「じゃ、じゃあ、主制契約した人がいなくなれば、すぐに血統依存は無くなるんですか? それ以外に方法はないんですか?」
小さく幼い少女が何を言わんとしているのか、男性教員は理解しつつも決してやさしい言葉を返すまいと決意し、向かい合った。
「確かに血統依存は、主制契約者が死んでしまった場合、しばらくたつと脈術は使えなくなってしまう。そして主制契約者が死ぬほか、血統依存をなくす方法はない。……なあ、いいか音古鐘、君は自分が脈術が使えることを受け入れて生きていくしかない」
御依里は男性教員を見上げながら、声にならないほど小さな声で「でも、でも」と繰り返した。胸元で握りしめる両手は震えており、真っ黒な瞳は今にも泣きだしそうに潤んでいる。
優しい言葉を返すか、厳しい言葉を返すか、男性教員が考えていた矢先、少女の背後に一人の男性が近づいてきたことに気づき、立ち上がって視線の高さを戻した。
「先生、あとは私が話します」
「
若きころの陸人が、御依里の背にしゃがみ込み、御依里の両肩に手を置く。そしてぐっと軽く力を込めた。
御依里はわずかに驚きながらも、後ろを振り向き、陸人の顔を見て安心したような表情を見せた。陸人の顔には赤フチの眼鏡が掛っている。
「……兄さん」
「俺が聞いてあげよう」
男性教員は陸人に軽く会釈をすると、速やかにその場を離れて行った。陸人は御依里の小さな手を握ると立ち上がり、教室から離れるように進んで行く。目の前に長い階段が見えてきたとき、陸人は御依里を腕の中に抱え上げた。
「少し飛ぼうか」
「ひゃわっ!?」
脈術で浮遊しながらいっきに階段を上る。そして一番上まで上ると、目の前に現れた大きく頑丈な扉を手を触れることもなく開ける。
すると、強い日差しが扉の隙間からこぼれ、御依里は眩しさに両手で目を包んだ。そして扉を抜けると、二人はひときわ明るい空間へと出た。
――そこは、海上に浮かぶ巨大な住環境施設を備えた、小さな人工島だった。
陸地を再現したような修練場、食料の貯蔵庫や浄水の貯蔵タンク、発電施設……などなど、様々な生活に必要な施設が限られた広さの人工島の中に敷き詰められている。
限られた、といっても、海面に見える広さだけでも1キロ平方メートルはあるように見える。
これこそ、海中空間に広大な敷地を持つ、乱術衆の隠された術者教育施設だった。
その園庭にあるベンチに二人は腰かける。御依里は陸人がつないだ手をまだ放そうとはしない。視線を下に向けたまま、何かを考えているような様子だった。
その二人の真上を飛行機が通り過ぎようとし、二人に大きな影を落とした。御依里は空を仰ぎ、ぽつりとつぶやいた。
「あんなにちゃんと見えるのに、外からはここが見えないんだよね」
「ただ見えないようになっているだけだ。電波でも飛ばして海面を観測したら、今の科学力でも発見することができる。もはや術界と表の世界は、そんなに離れていない」
「そうなんだ、ね」
何かを言いづらそうに、御依里はふたたび視線を伏せた。陸人は握る御依里の手を優しく両手で包んだ。
「御依里は脈術を使えることがそんなに嫌なのか?」
「……うん」
「どうしてなのか説明できる?」
御依里は地面から離れた足をプラプラと揺らしながら、数秒の間を置いて口を開いた。
「はじめは、おじいちゃんとおばあちゃんがすごく怒るから、私は悪い子だから変なことが起こるんだって何度も何度も叱るから、大嫌いだった」
「けれど、今も嫌なんだろ」
御依里はこくりと頭を縦に振る。
「今は、周りの子と違うから、馬鹿にされるから、嫌なの」
「馬鹿にされる? どうして」
「初めはみんな物を動かすこともできなくて、私だけができるからすごいって言ってくれてたけれど、それ以外何もできないことがバレちゃって……みんなが私よりいろんなことができるようになっていくから、バカにされてるんだと思う」
「それはつらいな」
陸人は御依里の感情に寄り添い、否定しない。ただ頷いて御依里の手を包み込んだままやさしく微笑んで見守っていた。
「もしかして御依里は、みんなにすごいって言ってもらえても、うれしくなかったんじゃないのか?」
自分の気持ちを言い当てられて、御依里は陸人と目を合わせて見開いた。
「……うん、うれしくなんてない」
「でもそれは、術を使ってもおじいさんおばあさんの顔が浮かんでくるから」
「うん、うん……」
御依里は何度も何度も頷く。そして見えない何かに怯えるように体を震わせ、顔を伏せて涙をこぼし始めた。ぐす……ぐす……と鼻をすすり上げる音が聞こえだす。
「御依里が本当に褒めてほしかったのは、おじいさんおばあさんだった」
両手で目をふさぎながら頭を縦に振った。指の隙間から涙と鼻水がこぼれる。
「怖くない、悪いことなんてしてないって、二人に知ってほしかった」
「ううぅ……うん、うん……」
御依里の嗚咽は次第に大きくなり、何度も鼻をすすり呻くような声を漏らした。陸人は御依里の頭に手を置いて、ただ優しく撫でた。そして今までで一番優しい声で話しかけた。
「御依里、あの二人にはもう会えない。それはただ会わなくていいってことじゃない。頭の中で二人に優しい気持ちで、もう会わないけど元気でね、って思ってあげるだけで充分なんだ。そうやって、自分を許してもいいってことなんだ」
「会わなくても……? 自分で許しても……?」
うまく理解できなかった御依里は陸人の顔を見上げる。陸人は涙と涎で汚れた御依里の両手を握りしめ、優しく語り掛ける。
「もう変えようのない昔のことで、今の自分もダメなんだと思う必要はない。それはそれとして、今をどう生きていくか、どうやって良い思い出を作っていくかが大切だ。それが、生きていてどうにもならないことを受け入れるってことなんだ。生きていると辛いことばかりが起こるのは当然のことなんだ。けれど、それに振り回される必要は無い」
幼い御依里には少し難しい話に聞こえた。しかし、言葉のわずかな端、昔祖父母に怒られていた自分のことは遠くに置いて、「今のことは今」と考えれば良いということだけはなんとなく理解して、ゆっくりと頷いた。
陸人は左手を空に向けて伸ばすと、空気中の水分を集め手の中に水の球を作り出す。そしてそれを御依里の前、両手の中へと移動させた。陸人の手から移す一瞬、ぐにゃんと形がたわんで壊れそうな危うさを見せた。
「それをお湯に変えてみて」
「できないよ。わたし、物を動かすことしか――」
瞬間、陸人の黒い瞳に冷たい青が灯り、御依里は思わず背筋を伸ばした。
「御依里、繰り返すようだが言うよ。昔のことを忘れて今を考えるんだ。おじいさんやおばあさんはここにいない。君を怖がる人も、否定する人もこの場所にはいない。君が手に入れた力は、君が成長するために使っていいんだ。――今も、これからも」
厳しい口調で放たれた言葉だが、御依里は自分の胸の中にじわりと染み込んでいくのを感じた。自分で否定していた乱術の力が、本当の意味で自分のものであるという感覚が初めて生まれた。
「わたしの、わたしが使って良い、チカラ……」
――この力で、私は変わっていい。
心の中で決意を呟くと、瞼をそっと閉じた。
そして水の球を浮かべている自分の手の中に乱脈が流れていくのをイメージし始めると、体中の血管のような何かを通して、見えないエネルギーがあふれ出していくことを感じた。
目を閉じているからなのか、両手のひらにじわりと熱のようなものを感じた。その温度は次第に高まり、自分の顔付近にまで熱が放射されていることを感じた。
「御依里、目をあけてごらん」
言われるまま、ゆっくりと目を開いた。
すると……目の前の水の球が沸騰し、無数の泡が水の中からあふれてはゴボゴボと音を立てて水の球の外へ飛び出し破裂していた。
自分が行った初めての物を動かす以外の乱術に驚きながら、御依里は陸人の顔を見上げた。
御依里のその瞳、その表情は、今までの暗さをすべて吹き飛ばす明るさに満ちていた。
「今から、これから、その力は御依里のためのものだ」
陸人は再度、水の球を自分の手の中に作り、水を棒状に整えて凍らせた。
「さ、やってごらん」
御依里は目をつぶり、手の中の沸騰した水の球を棒状に変形させ、静かに深い呼吸をした。するとすぐに沸騰の泡が収まり、数秒ほど静かな時間が流れる。
しばらくして、今度は水の棒の中心から白いスジがいくつも現れ、十数秒かけて水の棒は凍り付いた。それもまた初めての成功だった。
御依里は目を開くと、その氷の棒を両手でつかみ、何度も何度も確かめて嬉しそうに小さな小さな声を上げた。
「できた……できた……っ!」
「よくできた。俺は御依里ならできると信じていた」
陸人は御依里の氷の棒を受け取ると立ち上がり、自身の氷の棒と共に両手の中に収め、一瞬で水へと変化させ、空気と混ぜて爆散させた。霧状に広がった水しぶきは、日の光を浴びてキラキラと輝きながら地面へと落ちて消えた。――そして爽やかな風が一瞬だけ吹き抜ける。
その鮮やかな変化に見とれていた御依里は、両手のひらを合わせて「うわぁ……」と感嘆の声を漏らした。
「半年後、俺は術界の秘密を守るとある任務に就く。長い赴任期間になるだろう」
陸人は振り返り、御依里の目をじっと見つめた。その表情は真剣そのもの。
「その場所に御依里を連れて行こうと思う。俺が御依里を守り、術者として鍛える。……御依里は付いてきてくれるか?」
御依里は両手を胸元で合わせ、うなずいた。
「でも……またどこかに行くの?」
そう尋ねたのも、今日こうして陸人が現れるまで、二か月以上も任務によって会うことができなかったからだ。陸人は困ったような顔を見せて顎を指先で掻き、そしてうなずいた。御依里は残念そうにしょぼくれた。
その様子を見て、陸人は自分の赤フチの眼鏡に手をかけ、御依里の顔に掛けた。子供の小さな顔に大人用の眼鏡は全く合わず、すぐに肩までずり落ちた。
「お守りにこの眼鏡を持っていてくれ。必ず受け取りに戻るから」
御依里はうなずき、両端を掴んで無理やり眼鏡の高さを合わせて視線を交わした。陸人は御依里に手を振りながら歩き出し、そのまま次の任務へと向かっていった。
その日からほぼ半年後に陸人は戻ってきたが、陸人は渡した眼鏡のことをすっかり忘れていたため、御依里が眼鏡を返すことはなかった。
――それから十年。
電信柱の上に座る御依里は、そこから見下ろす夜の町の景色をぼーっと眺めていた。
電信柱の高さに加え、小高い山の上にあるその場所は、町全体を眺めるには恰好のポイントだ。ぼーっと眺めたまま、顔に掛けている赤フチのメガネを、指先でゆっくりとなぞっている。
その御依里の側に空の上から人影が降り立った。風で乱れた長い髪を手櫛でときながら現れたのは、
「どうしちゃったの御依里? 元気ないわね」
「えっと……、ちょっと、考え事を」
御依里の態度はどことなくよそよそしいが、監視を臭わせるほどではない。先に地面へ降りた結雨が手招きするので、御依里も電信柱の上から飛び降りて、風を巻きながら静かに着地した。
「対象は見つかりましたか?」
「ううん、まーだ。は~あ……こんな時、索敵能力を持つ能力持ちがいてくれたらと、本当に思うわ。この前いた任地には当然のように配備されてたから、そっちに慣れちゃって」
結雨はポケットからシュシュを取り出すと、髪を後ろへとポニーテールにしてまとめた。
御依里は電信柱から少し歩くと、側にあった自動販売機へと近づいて、品揃えを確認する。そしてナタデココ入りのココナッツジュースを見つけると、小銭を入れてボタンを押した。
「わ、この缶ヘコんでる」
出てきたジュースのプルタブを起こしながら、なんとなく周囲を見渡した。街灯が少ないものの、アスファルトで舗装されたこの山道には、人の姿も気配もまるで感じられない。今は七月中旬の夏場でもあり、虫の鳴き声が所々から聞こえてくるが、騒がしい程ではない。
「私も何か買お~、っと」
結雨は自動販売機に小銭を入れ、冷えたペットボトルのミネラルウォーターを選んだ。自動販売機の取り出し口から拾い上げるて口を開けると、実に美味しそうに喉を鳴らした。
「ぷっは! あ~あ、こないだ派遣された任地で死にかけながら術で集めた水を飲んでやり過ごしてたのを思い出しちゃう。補給を絶たれるくらい、めったに無いほど激しい戦いだったもん」
「期間は二週間くらいでしたね。陸人兄さんが『結雨が死んで帰って来たときは、あいつが欲しがってたバッグくらいは墓に添えてやろう』とか神妙な声で言うものだから、とても心配しました」
「そういうのは生きてる内にくだしゃい……」
「フフッ」
本当に残念そうにうなだれる結雨の仕草に、御依里も思わず笑った。
どちらが言うともなく二人は歩き出し、山の奥深くへと進んでいく。その途中、御依里は何も知らなそうな顔をしつつ結雨に質問をしていた。
「敵の目的はこの町に隠された秘密なんでしょうか?」
「まあそうでしょうね。なにせ、こんな辺境にあるものと言えばそれくらいしか無いんですもの。たまにモノ好きなヤツが疾凍さんの素性を探るために来ることもあるけれど」
「たまに……と言っても、今までそこそこそんな感じの敵が来てましたよね」
「私も本人に会ったことはあるけれど、あの人形を通して話している方が人間らしいんじゃないかって思うほどの変わった人。術者としての実力もとても高いと聞いているけれど、自分から戦おうとは絶対しないどころか、私たちの指揮すらあまり手を出さない怠け者。なのに、術界からの信用はとても高いのよね」
「わたしも十年近く同じ場所で任務を続けているのに、三回か四回、後ろ姿を見たくらいしか印象がないです」
「そういう条件がより疾凍さんの有利になるような能力持ちだとは聞いているわ。外に自分の情報を漏らさず、同時に自分も外の情報を極力手にしない。その方がより能力が強力になるんですって」
「やっぱり疾凍さんの素性、気になります?」
結雨はすばやく両手を肩の高さまで挙げて、「べぇっ」と小さく舌を出した。まるで、その件に関しては触れたくないとでも言うかのように。
「気になるけど、気にしないことにしてる。外に出れば疾凍さん並の変人なんてよく見るし、術界で仕事をする以上は自分の考えや都合なんて二の次三の次にしないと命に関わることだってあるもの。実際、疾凍さんの能力があってこそ、たった三人でこの町の守護がまかり通ってるって事実もあるのだから」
「内容を知らないから、あんまり実感はないんですけどね」
「それがあの人の能力の怖いところだって陸人は言ってたわ」
ふと、視界が大きく広がり、山道を抜けて大きな広場に出た。その隅の方にぽつんと一軒の平屋が建っており、結雨はポケットから鍵を取り出すと近づいて平屋の鍵を開けた。
「先にシャワー室を使ってもいいかしら。今晩は通しで対象の捜索に当たらないといけないから眠れそうにないわね。陸人とも早く交代してあげないと」
「かまいませんよ。私は浴室の方で」
二人は平屋の中に上がる。
中はなんと例えればいいのか……ハッキリと言って、ボロ屋である。
昭和初期に作られたような開き戸の玄関に入ると、すぐ壁沿いにL字の形をした土間が広がる構造。窓はねじ絞り式の鍵であり、土間に併設するキッチンは使用されてないかまどが置かれている。かまどの穴は木の板でふさがれ、その上に古めかしいガス式の炊飯器が置かれている。そして重ねられたプラスティックの衣装ケースとたたまれた布団が十二畳の畳部屋の隅に並び、畳部屋の玄関側には布団が除かれたコタツがぽつんと置かれている。
土間に直接冷蔵庫や洗濯機が置かれており、最低限の生活ができる環境が整えられており、普段、御依里はここを一般生活の住まいとしている。
一応、畳部屋を抜けて奥には脱衣所に並んでシャワー付きの小さな浴室、そして唯一、真新しい造りの水洗便所が設置されている。
御依里は靴を脱いで上に上がり、平屋の土間と反対側にある壁に近づくと、手を触れて目を鋭く細めた。
「開けます」
すると、壁の内部の部品が御依里の脈術により、カタン、と小さな音を立てて動き、なにかの機構のスイッチが押された。
すると畳の一枚がスムーズに下へスライドし、ゴンゴンと音をたてて地下への階段が形成されていく。階段は金属で作られた重厚な物であり、最期にズン……と重量感のある音を立てながら地下への通路が現れた。内部はいくつものLEDライトで照らされ、清潔感のある白い壁や扉が見られる。
二人が階段を下りて地下に入る……と、内部は上の平屋とは比べものにならない、立派な一軒屋ほどの広さがある生活空間が広がっていた。
階段を下りてすぐの二十畳ほどのリビング、そして六畳のキッチンがある。トイレは二つ設置されており、バスルームとシャワー室も個々に設置されている。そのほか、寝室も二つ用意されている。
結雨はひとつの銀色の自動扉を抜けて中に入ると、暗がりの中で点滅する長さ二メートルほどの太い筒状の機械に触れた。そしてその機械の上横に置かれているモニターに触れると、ピッピッと操作音を鳴らしながら状態を確認していた。
「充電の残量がだいぶ減ってる。御依里ぃ~、悪いけど、休む前に発電機を回しておいて~。三〇分も回せば大丈夫だと思うけどぉ~」
「わかりましたー」
御依里は冷蔵庫の中の食材を確認しながら生返事をする。冷蔵庫の棚からゼリーの携行食を取り出すと、キャップを回してすぐに口をつけた。本格的な食事はこれから作るつもりだが、それ以前に強い空腹感に襲われていたため、食欲に勝てなかった。キッチンの壁に備えられている風呂給湯器のボタンを押して、携行食の空き容器をゴミ箱に投げた。
シャワーを浴びるため自室に着替えを取りに行く結雨。その間に御依里は冷蔵庫から野菜や豚肉。ケチャップを取り出し、まな板と包丁を置いた流し台の上に並べていく。
手慣れた包丁さばきでニンジンやピーマン、タマネギなどの野菜を切ると、流し台下から醤油、酒、酢などを取り出し、壁に掛けてあったフライパンを持ち上げ流し台の上に置いた。
「油は……まだ少しある。買い出しは週末で大丈夫かな」
調理をするのに備え付けられているコンロは使わない。蛇口から流れ出る水を脈術によって空中で大きな水の球にして浮かべると、その中に切った野菜を放り込んでいく。十分な水を確保すると蛇口を閉め、脈術で水の球ごと野菜を一気に加熱していく。時間は一分とかからない。
熱湯の球の中からさっと茹でた野菜を取り出すと、今度は豚肉を茹でる。十分火が通ったところで灰汁といっしょに熱湯は流しに捨て、油をひいたフライパンの上に野菜と豚肉を置いた。フライパンを熱するのも電気でもガスでもなく脈術だ。鉄製のフライパンが高温になると茹でた野菜を適度に炒める。
調味料を加え最後に片栗粉でとろみをつけると、手抜き酢豚が完成した。調理時間は五分もかかっていない。
鼻歌まじりに冷蔵庫の中から作り置きのご飯やポテトサラダ、味噌汁を取り出す。味噌汁はタッパーのまま脈術で加熱し、お玉でお椀に移し替えていく。ご飯も同様に、茶碗に移し替えると脈術で加熱し、ホカホカの温かいご飯にする。それら完成した料理をテーブルの上にならべ、御依里は椅子に座って手を合わせた。
「いただきまぁす」
御依里が料理をしている間に結雨はシャワーに入っていた。耳を澄ませば水しぶきの音がリビングにまで届く。
上の平屋に関しては防音などは完璧だが、地下空間の内部は機械的な構造の割には防音性能は高くない。手の抜けるところはしっかりとコストダウンされている。
一人で食べる食事は食べ終わるのも早かった。というより、早く風呂に入りたい気持ちがあったため、無意識的に食事を早々と終わらせてしまいたかった様子。一〇分もかからず「ごちそうさま」と唱えると、食器を水で汚れをサッと流し、食洗機に並べた。
「もう食べたの? 早食いは太るわよぉ」
髪を乾かしながら結雨が脱衣所から出てきた。ドライヤーなどは使わず、脈術で熱風を起こしながらリビングを歩く。あたりに薔薇のシャンプーの香りが広がっていく。
服装は先ほどまでの洒落たワンピースとは打って変わってやや地味。黒いレギンスパンツに、灰色でハイネックのタンクトプニットに着替えている。
「今日も汗かいちゃったから、早くお風呂に入りたくて」
「ほんっと、アホみたいに暑い日が続くものねぇ~」
椅子に座った結雨の前に料理の載った食器を並べる御依里。結雨は御依里にありがとう、と一言添えて「いただきます」と手を合わせた。
「あ、片付けは私がしておきますから、置いててください」
「はぁーい、あいがとん」
普段は落ち着きのある大人の様な雰囲気を放つ結雨だが、こうして二人きりになるとネジがユルんだような話し方をする。そのギャップの意味を御依里は知らないワケではないが、面白いので口出しすることでもないと思っている。
自室に戻り、着替えを持って脱衣所に向かう。まだ食事を続けている結雨をチラリと見て脱衣所の扉を閉めた。衣服を脱ぎ、赤フチの眼鏡を脱衣カゴの横に置いて、浴室に入った。
身体と髪をサッと洗い、いっぱいの湯船につま先から入る。湯船からざぷりと大量の湯があふれ出し、浴室全体にお湯が広がる、排水口でお湯がぐるぐると回り、あふれ出たお湯はすぐに吸い込まれていった。
鼻先まで湯に浸かりながらぼーっと考え事をする。
内容はもちろん疾凍に命令された監視のこと。
このあとも、結雨が出た後に基地をこっそりと抜けて彼女を追跡するつもりでいる。仮に入れ違いになったりして基地にいなかったことを尋ねられても、疾凍に急用で呼ばれたという内容で説明する段取りも出来ている。
行動に移すしかない。
(後には、引けない)
「――ねえ、御依里」
「えっ? は、はいッ!?」
急な結雨の声に驚き、湯船の中で思わず跳ねた。浴室の磨りガラスの向こうを見れば、結雨の人影がはっきりと見えた。
思わず言葉が出ないでいる数秒後、結雨の方から言葉を発した。
「聞きたいことがあるのだけど、少し良い?」
「……えと、後じゃ、ダメですか?」
不意を突かれた。
頭の中が慌ただしく、何か質問されても正しい答えを出せるかわからない状態。しかし結雨は浴室の扉に背を預けたまま話を続ける。
「御依里は陸人のことを、良いお兄さんだって思ってるのよね」
「はい、まあ、そうです。良い人かどうかは……」
聞こえてくる結雨の声は、まるで思春期の少女のように感情が波立っている。御依里はその声から結雨の心情をまだ察することが出来ず、ただ次の言葉を待った。
「気付いてるかもしれないけれど、私は違う。あんな馬鹿男だとか、朴念仁だとか、陸人の私への態度にいっつもイライラしてる。しかもそのことにあいつ自身が気付いているのかどうかわかんないようにして、すこっしもコッチに悟らせない」
「そう、ですか……はい。……ん?」
一瞬、妙にカンが冴えて、御依里は察した。「あ。もしかしてこれ、恋バナ?」と。
肩の力が少し抜けた。
(……ん?)
頭の中が一瞬、疑問符で埋め尽くされた。
「ん? んんん?」
(あの結雨さんが、兄さんを?)
「え、あの、結雨さん?」
思わず両肩にまたグッと力が入る。
頭髪の毛根からぶわっと汗が噴き出すような気がした。
「あいつは私の中でずっと馬鹿ヤロウ。小さな頃からそうだったし、今でもそう。……だけど、わたしの中にはいつもあいつのことがある」
結雨は両手の指を絡めながら唇を震わせる。
御依里は動揺に目を踊らせる。
「でも、あいつの頭の中は御依里のことでいっぱいだってことはわかる。もちろんそれが家族以上の特別な感情なんかじゃないってことも知ってる。……けれど、あいつはきっとこれからも御依里のことを本当の家族というか妹のように守っていくんだろうなって」
御依里は湯船の中に顔を沈めて考える。しかし、返す言葉がうまく出てこない。
「あ、間違えないで。御依里に嫉妬してるとかそんなんじゃないの。私にとっても妹同然だし、家族みたいに大事にしたいって気持ちはたぶん陸人と同じ。……でもきっと、それ以上何も進まないんじゃないかって、最近すごく思うところがあって」
「結雨さんあのう、結雨さん、ちょっと待ってください結雨さん」
「え、何?」
「わたし、知りませんでした。結雨さんの気持ち、っていうか……え? ほんとうに好きだったんですか? 兄さんを?」
なんとか声が出せたという気分だった。心臓がいやにドキドキと跳ねる。
「いや、その私はまだ好きとまでは言ってないけど……その」
いままでの様子は一転。結雨は素の表情で身体を反転、浴室の扉に張り付き、顔を赤らめた。
「え? 御依里そうなん? そ、そ、そうなん?」
「そうなん、です」
気まずい間が、一〇秒ほど流れた。
結雨はズルズルと床に座り込み、両手で顔を覆った。
「……え~、知ってるとずっと思ってた~」
「いや、えと、その……どうしてそう思ったんですか?」
「だってここんとこ、たまに陸人と距離を取ろうとする雰囲気を出すじゃん……きっと気を使わせてるんじゃないかって」
「それはその、単純にもう子供じゃないんだぞ~……って気持ちからです」
結雨から、とても大きい「ぬはあぁ~……」というため息が漏れた。
「……えと、じゃあ、とりあえずそんな感じだって事を知っててくだしゃい」
「いいですけど、あの兄さんでいいんですか?」
「ちょっともう、話す勇気が挫けたから、またそのうち話す……」
ゆっくりと立ち上がり、脱衣所から出て行こうとする。しかし次の瞬間、結雨の視線は脱衣カゴの下着に止まり、結雨は思わず御依里のブラジャーを拾い上げた。
「Fの93……だと? バカな、半年前まで……」
結雨の頭の中で、御依里が言った「もう子供じゃない」が幾度も幾度もリフレインする……。
「あのう、結雨さん?」
ふと自分の胸を見下ろす。比べるには少々、身の程が違うとでも言うべきか。
「結雨さーん?」
「あああああハイハイ、なにか、な~?」
御依里は湯船から上がり、浴室の扉を少し開けて声を掛けた。結雨は素早い動きでブラジャーを脱衣カゴに降ろし、姿勢を正して背中で返事した。
「ほんとに、ほんとに兄さんで良いんですか?」
「いやもん、ほんと説明出来ないっ! じゃあ、行ってくるから! よっし、それじゃの!」
そう言い残し、結雨は階段を駆け上がって行ってしまった。御依里は湯船に戻り、この出来事に対しどう頭の中を処理をするか考えた。
「……わからない。どうしてあの兄さんを」
ふと、学校のクラスメートのことが頭に浮かんだものの、誰一人まともな恋愛に通じていそうにない感じだったことを思い、思考の中から消した。
「ああっ、そんなことより早く追いかけないと」
そうつぶやくと同時、胸の中にスッと冷たい物が落ちてくるような感覚に襲われた。
(なに、コレ――)
冷たく、重たい。
自分の信頼している人を監視するということは、疑いをもって立ち会うということは、これほど重たい気持ちを心に負わせるとは考えもしなかった。
「……でも」
気持ちを奮い立たせる。これは疑いを晴らすため、正常な関係を修復するために必要な事なのだと、何度も自分の胸の内に語りかけた。
身体を軽く洗い流し、浴室を出た。黒いブラウスと灰色ジーンズ生地の短パンを身につけて、先に出た結雨の後を追った。
空に飛んで風を浴びたとき、ふと不安感に襲われた。
(もし、兄さんが裏切っていたら……その時、結雨さんは……)
唇をキュッと噛みしめ、考えまいとした。
御依里は空を飛ぶ速度を上げ、陸人と結雨の合流地点を目指した。
どうしても、胸の中は少し締め付けられたままだった。
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