愛しい君と2月の半分へ

葉月空野

君とマロングラッセ

 起き抜けに見る自室の風景は、カビ臭い空気を纏って荒んでいた。その中で僕は、芋虫の死体みたいに寝そべっている。ブラインドカーテンの隙間から伸びる薄明かりが、狭い壁の黒色を捕まえている。それを視界に捉えて、意識が起きる。


 スマホを開けば、今日の日付も、今の時間も、一瞬でわかる。午前はもう終わったよ、二月もちょうど残り半分だ、そう囁くディスプレイを、叩き割りたくなる。


 そう、そんな日だ。今日は起きる気がしなくて、学校をサボった。今どきの高校生というのは、よほど聖ウァレンティヌスを敬愛しているらしい。

 この日になんとか間に合うよう、女子はたくさんの材料を買い揃え、夜な夜な菓子を大量に作っては、翌日に備える。面倒くさいはずだろうが、よくやるもんだと思う。

 勿論、髭の聖職者になんてひとつも行き通りはしない。全部、友達とか恋人のためのものだ。


 その日を迎えるのが、毎年のように億劫だ。

 寝返りを打つと、死体がようやく血の気を帯びて生き返る。

 名残惜しい柔らかさから逃れて、丸いテーブルの上に、それを見る。

 透明のビニールに包装されて置いてある、琥珀にも似た艶めきのあるモノ。

 マロングラッセ、その中身がひとつ失せているのは、傍目から見てもわからない。

 けれど、あれは確かにひとつが無くなっていて、それから一年、ずっとあのままにしてある。

 絶対、腐っている。もう食べられはしないだろう。それでも、あれを捨てられないでいる。


 死んだ君から受け取った、あのマロングラッセを、ずっと。


 ○


「今年のバレンタイン、貰う宛は? 」


「君だ」


 僕らの交際が始まったのは、その前の年のバレンタインだった。彼女の告白をきっかけに、僕らは交際を始め、多分僕は、一年前よりずっと彼女に惚れ込んでいた。

 甘々とした雰囲気が、露骨に醸されていたわけではない。周りからは、冷めているんじゃないかと言われるほどに、僕らの関係には距離感があった。その距離が寧ろ、心地良いと思っていた。


「あげるの、面倒かな」


 隠す気もなさそうに、彼女は手元のアプリコットに口をつけた。彼女が素直でいるのは、機嫌がいい証拠だ。

 ここのカフェは小洒落ていて、厨房のダークオークの棚に並べてあるアンティークは特に、彼女のお気に召していたようだ。


「なら別にいいよ、去年のが気合い入ってたし」


 その去年のお菓子というのが、マカロンだった。それ以前に、そもそもマカロンなんて高貴なお菓子を、口に含んだことがなかった。だからあれを貰った時の特別感や、その甘さは、今でも鮮やかな記憶として残っている。


「そりゃあ、マカロンって特別感あるけどね。作るの自体は案外簡単なんだよ」


 怪訝そうな顔をして、おどけた感じで、Why?みたいなジェスチャーを、両手でしてみる。


「つまり僕は、お手軽に釣られた?」


「そう思う?」


「それだと少し格好つかないから、嫌だな」


「だよね」


 不敵に笑って、答えは言わない。そういう性格なのは、出会う前から知っていた。そんな彼女の告白だったから、僕には何か、ぐっと来るものがあった。


「貰えるんならなんでも嬉しい」


「それ、生返事よりタチ悪い」


 細く線の整った、美麗な顔を少し歪めて、不機嫌そうな顔をする。まるで猫みたいだ、と思って、舐めていた。


「言いながら、くれるの分かってるからね」


「まあね......」


 彼女がそういう人だからだ。


 ○


 アプリコットに思い入れが深いのは、僕の性分だ。彼女はどちらかといえばコーヒー派だった。コーヒーに合うお菓子を摘むのにコストをかけたくない、というのが、お菓子作りを始めたきっかけだったらしい。

 方や、僕はコーヒーが苦手で、ブラックを飲むとよく腹を下した。


『僕が美味しい紅茶を入れる。それに合うお菓子を作って一緒に食べてみろ、絶対紅茶が好きになるから』


 そんな昔の言葉を思い出しながら、彼女が好んで飲んでいた、オリジナルブレンドの豆をドリッパーに入れて、湯をかける。


 あの時以来、彼女は少しだけ紅茶を嗜むようになった。けれどやっぱり、この深い苦味のあるコーヒーこそが、真に彼女を満足させる味わいだったようなのだ。コーヒーは、僕と彼女がただ一つ、本当に分かり合えない所だった。



「はい、これ」


 その日、放課後の教室に呼び出された。渡されたお菓子を見て、僕はピンと来なかった。


「なにこれ、栗?」


「マロングラッセ。作んの大変だったから、君の分しか作ってないよ」


 つんけんして言うのに、態度が噛み合ってなかった。やっぱり、猫みたいな人だと思う。


「作ってくれたんだ。ありがとう。紅茶に合いそうだよ」


 笑顔は得意じゃない方だったけれど、精一杯笑ってみる。彼女はそれに、ちょっと嬉しそうな顔で返してくれた。


「それ、意味があるんだよ」


 渡したものを指さして言われた。


「へえ、どんな?」


「言うと思う? 」


 首を振る。肝心なことはあまり教えてくれない人だ。


「調べてくれたらいいよ、大した意味は無いから。」


 にべもなく言う。それ以外の何も無く、本当に大したことがなさそうな口調だった。


「じゃあ、気が向いたら調べてみるよ」


 結局、その時僕は調べなかった。お菓子に意味がある、という事実がなんだか、しっくり来なかったからだ。


 ○


 夕景から、茜の色が滲んで、浮ついた街並みに落ちていた。そんな街を二人、少し離れて歩く。その様子は、周りにいる他の二人組の男女に比べると、冷えた見え方をされそうだった。

 僕らは、お互いの想いと距離感が噛み合ってなかった。


「浮ついてるねぇ......」


 不意に彼女が、遠いものでも見るように言った。腹が立って、おもむろに彼女の手を取った。


「僕らだって、少しくらい浮ついていいんじゃないかな」


 真面目なトーンで訴えかけてみる。けれど、彼女は僕ほど深刻そうにはしてくれなかった。


「そうかな?」


「そうさ、そういう日だろ? 今日って」


「一年前の方がもう少し浮ついてたなぁ」


 少し、傷つく物言いだった。学生の、高校生の交際ってそんなもんだと、言われた気がした。


「僕は、一年前より浮ついてる」


「それはどうして?」


「君のことがより好きになったから」


「言うねぇ......」


 このこの、と肘でつつかれる。やり取りが男友達のそれみたいで、僕達らしいといえばそうだったけど、今日には似つかわしくないとも思った。


「この先、僕らって続くんだろうかね」


 悟りかけの老人のような口調で、実に青臭い悩みを言う。彼女は夕焼けに目を凝らしていた。まるで、あの半円に答えを求めるようにして、その形が瞳に刻まれるくらいずっと、見ていた。


「続かないんだとすれば、こういう出来事の一つ一つ、虚しいけどさ」


 続きがある言葉なのか、怖かった。その続きを言ってもらえなければ、二人の間には不信が生まれる気がした。


「続かなかったけど、青春したなって思い出にはなるよ、絶対」


 それは確かだった。青春の一ページに鮮明に残る、いい思い出になったのは間違いない。それが結局、真理なんだとおもった。高校生らしい距離というのは、そのくらいが適切なのだと認めざるを得なかった。


 ああ、でも。


 僕は、きっと熱っぽくなってる。だから、浮ついているから、今日は。その言葉をなんだか、心からは認められなかった。

 こんなことを話せば、彼女は僕を『重いヤツだ』と思うかもしれない。それでも僕は。


「嫌だ、そんなの」


 いい思い出なんかで終わらせたくなかった。


「僕、君のこと好きだし。思い出になって消えるくらいなら、そんなの......」


 言い淀みがあった。この先の言葉を伝えて、彼女がなんと反応するのか、想像すると震えが止まらなくなる。

 彼女をちらと見る。何の気もないような顔をして、けど真っ直ぐ、僕を見ていた。

 時が止まったかのような沈黙があった。


「じゃあ、浮かれてみようか」


 言われて突然、首に腕を回され抱きつかれる。彼女は僕より少し背が低くて、そのせいで体が前のめりになった。彼女の体は、きつく抱き締めると壊してしまいそうな程、かぼそい。鼓動が叩きつけらるように鳴って、それが止まらない。公道だったこともあって、心臓が壊れそうなほど、狂った血液循環を起こしていた。背中に手を回すと、落ち着く。愛おしい人を抱く腕は、幸福のおかげで優しくなれた。


「浮かれすぎだよ」


 ムードをすっ飛ばした行動に、それでも僕は狼狽したし、どぎまぎした。

 一方彼女はクールだった。クールで、浮かれた顔をしていなかった。すると、彼女が僕の耳元に顔を近づけてくる。吐息がかかるほど近いその場所で、ふんわりと、メレンゲのような声音で囁く。


「浮かれて、いいんでしょ?」


 そこで、理解した。僕らもかなり、甘々だ。


「好きだよ」


 あまり、捻りのない言葉だった。僕が大詩人なら良かったと、後悔した。その一言に見合う言葉が、僕の手元にはなかった。


「僕もだよ」


 結局、そんな月並みな返事しか返せなかった。けれど、彼女は幸せそうに笑ってくれた。僕はやっぱり、大詩人なら良かったのにと思った。


 ○


 コーヒーは、甘い思い出を苦くする。調和の取れない雑な苦味に、思わず僕は吐き出した。

 ステンレス製のシンクに映った顔はコーヒー色で、酷く苦しそうにしていた。


 僕は、最後まで思い出しきるのを拒否した。けれど、彼女が居ないという事実からは、どうしても逃れられなかった。



 ──その日、彼女は交通事故にあった。



 事実を頭の中で咀嚼したら、不味い味が口いっぱいに広がって、今度は腹の底から嘔吐した。

 コーヒー色の顔が、混沌に飲み込まれて、ぐちゃぐちゃになった。




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